2016/12/08 文化
テーマが”奇跡”「タモリと戦後ニッポン」を携えてビブリオバトルへ

紀伊國屋のビブリオバトルに参加するのはこれで、4回目。いままでのものは↓

今回は、テーマバトルが「奇跡」ということで、そちらに参加しました。


タモリと戦後ニッポン (講談社現代新書)
近藤 正高
講談社
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「タモリと戦後ニッポン」(講談社現代新書) 近藤 正高(著)の喋った内容。


奇跡ってなんでしょうね。

奇跡と呼ばれる現象はいろいろあると思うんですよ。

その中でも、人との出会い、そのときはなんとも思わなかったことが、後から振り返るとあそこでああして出会ったからこそなんてことがありますよね。それで、今回紹介するのが、「タモリと戦後ニッポン」っていう本なんですけど、タモリといえば、ビッグ3のうちのひとりですよね。残り2人は、たけしとさんまですよね。

たけしは、浅草の軽演劇、深見千三郎師匠のもと、さんまは落語家の笑福亭松之助のもと、どちらも師匠とよべる存在があり芸人としてテレビの世界へと羽ばたいていきましたが、タモリは全く別の形で、この世界に入ってきました。

それは、人との出会いなくしてありえないんですよね。

そのことが、分かるのが、この「タモリと戦後ニッポン」という本です。こちらでは、タモリの幼少期から現在に至るまで、タモリを中心としてその周辺で起きていた戦後史とともに語られた本です。

その中でも、タモリのデビューが奇跡、人との出会いの奇跡なんです。

時間も限られているので、そのことをかいつまんでご説明したいと思います。

タモリが、芸能人としてテレビの世界へとデビューしたのが30歳の時。それまでいったい何をしていたのかというと、少し話をさかのぼります。

高校卒業後一浪を経て、早稲田大学への進学を気に上京したタモリは、モダンジャズ研究会というものに入りました。ここがまず奇跡が起こる要素、つまり人生のポイントです。

そこで、司会、マネージャー業を任され、話術を磨き、ジャズ仲間との交流を図りました。結局は、早稲田大学は授業料未納ということで除籍となり、家族に出身地である福岡へと呼び戻されました。

最初は、保険の外交員、続いてボウリングの支配人、喫茶店のマスターというように全く芸能界とは関係のない仕事をしていたそうです。

そんなとき、奇跡の出会いが起こるわけなんですよ。

1972年、博多でジャズピアニストである山下洋輔のコンサートが行われました。その後、山下洋輔バンドの面々は、福岡市内のホテルで酒を呑み、ドンちゃん騒ぎをしていて、山下洋輔が長唄を歌い、中村誠一という人が底の空いた椅子を逆さに被って虚無僧の格好で踊っていたそうです。そこに突如扉が開き、中腰で踊る男が入ってきました。そして中村に近づき、椅子を奪いその男は虚無僧の格好でさらに歌いだしました。それに対して中村は、出鱈目な中国語でまくし立てると、その男はさらに凄い出鱈目な中国語で返してきました。

そこから、英語、イタリア語、フランス語、などの応酬が続き、ついにはスワヒリ語でその男がまくし立ててきました。

それを観ていた、山下洋輔はひっくり返り笑い転げたそうです。そして、その男が帰ろうとしたときに、誰なんだということで名前を聞くと、「森田です」まあ、後のタモリですね、そう言って帰っていきました。

そして、そのことを東京に帰った山下洋輔は、当時よく通っていた新宿の「ジャックと豆の木」というスナックでこう話しました。

「福岡にこんな面白い男がいるとぞ!!」

その噂は瞬く間に広がり、その森田を呼び寄せろということで、カンパを募り、福岡から呼び寄せることに成功しました。その「ジャックの豆の木」で、後に密室芸と呼ばれる芸をタモリは披露します。会場は笑いの渦につつまれたそうです。

そこにいたのは、みなさんが知っていそうな人だと、筒井康隆、そして、赤塚不二夫がいました。

その赤塚不二夫との出会いこそ、タモリにとっての奇跡の出会いといっても過言ではないでしょう。赤塚不二夫なくしてタモリは存在しなかったでしょう。そんな、赤塚不二夫とタモリの関係性はどんなものだったのか、是非この本を読んでみて下さい。まだまだ、様々なタモリをめぐる奇跡がこの本に詰まっています。気になる方は是非!!

プロデュース :みずしま まさゆき
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