この最新作の撮影後、編集段階だった頃、黒沢清は「今度は他愛もないコメディを撮ったんですよ」と照れくさそうに言っていた。
むろん「他愛もない」などと言う黒沢の極度な謙虚さを真に受けるわけもなく、期待は膨らむばかりだったが、果たしてカンヌ映画祭での上映を経て、日本で公開となった映画は、期待以上のブラック・コメディとして始まる。
一見平凡な住宅地に叫び声が響き、いかにも凄惨な一家虐殺事件の現場に見える、『CURE』や『叫』『クリーピー』も彷彿させる、血みどろな遺体の横たわる居間に、返り血を浴びたかに見える女子高生(恒松祐里)が立ちすくんでいるのだが、床の血の海に飛び跳ねている金魚のアップが妙なアクセントになって、とんでもなく抱腹絶倒なのである。
どうも家族を惨殺したらしいセーラ服の少女が、今度はだだっ広い平野の一本道のど真ん中を歩く次のシーンは、あっぱれなまでに爽快なドタバタ・コメディとして展開し、ダニー・エルフマンっぽい(つまりおどろおどろしいのにユーモラス)音楽に乗せて『散歩する侵略者』というタイトルが現れる。いやもう、黒沢清がコメディを演出すると、その笑いは途方もなく過激だ。
完璧にコミカルな演出タイミングの職人芸のショーケースと同時に知的なセルフ・パロディであり、痛烈な諧謔でもある冒頭はしかし、黒沢にはコメディ演出力もあることを見せる名刺代わりに過ぎず、あえて観客をミスリードするテクニックでもある。この映画は前川知大(劇団イキウメ)の舞台劇の映画化だが、原作ではいかにもコミカルなやりとりとして書かれていたはずの、記憶喪失になったらしい夫(松田龍平)と、要領を得ない応答にいらだつ妻(長沢まさみ)のやりとりも、十分におもしろおかしくはあるものの、あえて笑いを見せるシーンにはなっていないのだ。
台詞自体のおかしさを信頼して黒沢がここに滑り込ませるのは、夫と愛し合う関係ではなかったらしい妻と、そこも含めてなんのことかよく分かっていないその夫の、微妙な距離だ。会話の噛み合なさのおもしろおかしさは活きているものの、それ以上に痛々しくもある。ついたり離れたり、つかず離れずだったり、物理的には身近でも根本から断絶している人と人との距離の複合性と、そこにいささか傍若無人な直接の身体的接触が乱入すること、かつて『回路』でコンピュータ世界のなかの疑似生命体を通して示されていた概念の具現化が、この映画では全編を貫くライトモティーフとして展開する。
またこれは、夏の映画でもある。撮影順では前作に当たる『クリーピー』も夏の映画だったが、その物語が湿気が多く、住宅地でも庭の木々がうっそうと生い茂り、お化けが出て来てもおかしくなさそうな怪談と肝だめしの季節としての「日本の夏」のなかでこそ成立していたのとは、空気感がまるで異なる。返り血を浴びた少女が歩く広い一本道などは北海道っぽく見えるし、どこか北方的なドライさはこの人と人との距離の映画に適した背景であると同時に、「夏」という設定は登場人物に厚着をさせない手段に過ぎないとも思えてしまう。この厚着はさせない、つまり一部の人物の身体性が隠されないことが、この「距離の映画」の主題と構造において極めて重要になって来る点については後述する。
汗や湿度は感じさせない、爽やかだがどこか冷たい、質感のない抽象的な夏。『散歩する侵略者』はジャンル的には「宇宙人の侵略ものSF」だと黒沢は言うが、この「北方っぽさ」はその侵略が起こる日常世界が、生活感や空気感の希薄な、抽象性が高く、共感やセンチメンタリズムを排除したものでなければならなかったからではないだろうか?
まず簡単に設定だけ説明しよう。宇宙からの侵略者が地球を狙っている。この宇宙人はどうも肉体の実態を持たないらしく、数人が地球人の身体を乗っ取って侵略のための先行調査をしているらしい。記憶喪失にしてもあまりに話が噛み合わず妻をいら立たせる夫も、実は宇宙人なのだ。
このスパイ宇宙人達は地球人類を知るために、その頭の中にある概念を盗み取っていく。「家族」とか「所有」といった抽象概念をその人間が具体的にイメージした瞬間にその額を触り、脳の中から概念を盗み取ると、人間の方はその概念を本当に奪われてしまう。たとえば所有の概念を奪われた青年(満島真之介)は、物欲にこだわるのを止めれば人間は敵対しに組み合うことをやめて世界は変わる、と街頭演説を始める。「仕事」という概念を奪われたデザイン会社社長(児嶋一哉)は紙飛行機を飛ばして遊び始め、「任務」の概念を奪われた厚労省の調査官(笹野高史)は…と言った具合だ。
この設定の下敷きになっているのは、アメリカで三度映画化されている『ボディスナッチャー』だろう。黒沢清がとくに参照しているのはその第一作、1955年のドン・シーゲル監督作品『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』だ。このB級SFの傑作は、俗に赤狩りの時代を反映して共産主義がアメリカに浸透していくことのメタファーだと評されるが、物語はそう解釈できるとしても、実際の映画はそんなに単純ではない。
このアメリカ映画では、地球人から身体的特徴を写し取り記憶も引き継いだ侵略者たちは、見た目には人間(というか、なり代わった本人)となにも変わらないが、人間性につきものの執着がない。物欲もこだわりも、恋愛感情や愛情もなく、暖かみはないが、淡々として合理的だ。人間のようでいて人間ではない恐怖の演出にシーゲルは卓越した手腕を発揮する一方で、侵略されるアメリカのさる地方都市は、うわべだけ古典的アメリカ映画に見られるのどかで親密な、いかにも理想のアメリカの町のようでいて、そこに生活感のディテールなどが元からないのは、別に低予算のB級映画の制約のせいではない。『ボディスナッチャー』の人格乗っ取りが共産主義のイデオロギー洗脳のメタファーだとしても、そこで乗っ取られる側のアメリカがすでに戦前のアメリカ映画にあったような喜怒哀楽の手触りを失った、どこかしら非人間的で無機質な場所に、戦後にはなっているし、それは「社会の進歩」の必然ですらあった。
このドン・シーゲル作品で町が侵略者に人格を乗っ取られることで明らかになるのは、侵略されることの恐怖ではなく、既にそこにあった人間性の喪失があからさまになり、しかも全員がその現代に染まってしまえば逆に秩序と平和と生産性が安定的に保たれるという、当時の資本主義の目指していた理想の未来像そのものであり、この映画のアンビバレントな恐怖とは、それが現実化することの空恐ろしさなのだ。言い換えれば、仮に共産主義なりなんなりのイデオロギーに社会が浸食されるとしても、そこで守られるべき価値はすでに失われている。
『散歩する侵略者』の見せる日本のどこかの地方の県(警察の制服に「静岡県警」と見えるが、撮影は東京の近郊だったそうだ)の、夏なのに蒸し蒸ししていない、爽やかであると同時に淡々としたというか、冷たくさえある空気感は、このドン・シーゲルの映画のアメリカ地方都市に相通じる。しかも原作が喜劇の舞台劇であっただけに、その設定はもっと極端だ。松田龍平の夫(というか宇宙人)に「家族」の概念を奪われたヒロインの妹(前田敦子)はその場にへたり込んで涙を流す。その後の彼女がどうなるのかに映画は触れないが、そのイメージしていたであろう「家族」とは、決して理想化された、愛情に満ち溢れたようなものではないのは、その前の姉妹の会話で明らかだ。なにしろ妹は家出して来ているのだし、「家族」は実のところ煩わしいものでしかない。その煩わしい「家族」の概念を失ったとたんに彼女が涙を流し、悲壮感すら漂わせて親元の家に帰って行くとは、いったいどういうことなのだろう?
「所有」の概念を松田龍平に奪われた青年は、引きこもりだった。それが物欲や執着を奪われたとたんに生き生きとした笑顔になり、相互の尊重と世界平和を語り出す。この滑稽であると同時にとても毒のある喜劇的シチュエーションが、現代の日本について言わんとしていることは明らかだろう。
黒沢清にとっては珍しい、極めてストレートなメッセージ性がすでにこの段階で現れている。言うまでもなく映画は本来、“メッセージ” を伝えるものではない。“言いたいこと” があるのなら文章に書いた方が合理的だし、作り手の言いたいことを説教くさく台詞にするなど、普通ならおよそ反・映画的なやり方のはずだ。映画はあくまで映像と音によって具体的な事物とそれが位置する空間を見せるもの、そして時間の経過を刻印するもの、そうした見えるものの体型の構築によって直接には見えまいものまで見せる手段であり、抽象概念でしかないメッセージは、そもそも映画的な表現なぞ必要としていないはずだ。
だがそうした表層的な批判は、必ずしもこの映画や、ひいては黒沢清のフィルモグラフィには当てはまらない。前田敦子が脳から「家族」の概念を奪われてへたり込んでしまうのは、抽象でしかないはずのものが、黒沢的映画世界では事物や身体以上の量感と具体性を持って物質化しているからだ。『回路』で死者達が壁に残す黒いシミというか影のように、黒沢の映画では抽象こそが具体であり、見えないものだからこそ重みを持つ。抽象的な概念であったり直接目に見えないはずのものが、確かに直接の映像化はされないものの、なぜか具体的な量感というか、物質性を持って観客の心に沈殿して行ってしまうのが、この映画作家の独特な個性のマジックなのだ。つまり普通の映画なら抽象的で言葉で言えばよく、わざわざ直接言う必要もない“メッセージ”の位置づけが、黒沢映画では逆転する。言い換えれば、抽象概念が人間の脳から、あたかもモノのように盗み取られるという設定は、それ自体は黒沢のアイディアではないにも関わらず、極めて黒沢清的というか、その映画演出の秘密の種明かしのようなものでもある。
黒沢清は、これが自分にとって初めてのSFだと言う。いやこれまでもSF的な設定のある映画もあったような気もするがそれはともかく、SFとは(『スター・ウォーズ』のような完全なファンタジー世界を除けば)ある非現実の設定を日常現実の延長上に、あるいはそれと対立するものとして導入し、それによって日常現実のなにかを極端化してあぶり出しにするものだと定義できよう。
いやはっきり言えばSFとは社会風刺、ないし社会批判、極端化された設定のなかであぶり出しになる社会の限界や矛盾についてのものであり(『ゴジラ』シリーズですらそうで、最新作『シン・ゴジラ』は永田町と霞ヶ関を主な舞台とすることで、言下に否定されるわけでもないが肯定はおよそできない日本の政治システムの脆弱さやあやふやさを、なんとも居心地の悪い曖昧さのままあぶり出しにしていた)、極めて政治性の高いジャンルなのだ。黒沢は「SFを作るのだからそのジャンルの約束事として」と断りつつ、この映画が自分にとって今までチャレンジして来なかった社会性ないし政治性を持った、現代日本社会そのものについての映画だと、今回ははっきり認めている。
まあこれも、「SFは初めて」というのと同様、異論がないわけでもない。
『回路』で死者たちが壁や地面に残す黒い影は広島の原爆を思い起こさずにはおかなかったし、『叫』の謎の中心となる湾岸の廃墟じみた黒い建物は、旧日本軍が精神医学の生体実験を繰り返して来た場所で、クライマックスで幽霊が「あなたは忘れていなかったから許します」というのは、日本の戦争責任の扱い(というか、はっきり言えばその無節操な忘却)についてのメタファーとしても響いた。『回路』の死者の誘惑とコンピュータ上の疑似生命体の行動パターンはSNSの時代の現代日本人のあり方を予見していたとしか思えないし、『トウキョウソナタ』の前半はリストラ中年の話で、後半には日本人も米軍に志願できるようになるという設定も登場し、その合間には若い世代の現状への欲求不満が「来ないかな、大地震」という台詞に凝縮されていたりもした(そして実際に大地震は日本に起こるが、彼らが感じていた閉塞感はなにも変わっていない)。
だがそれでも、確かに今回ほどストレートに日本社会の現代の、あらゆる側面にもの申すかのようなシチュエーションの連続は、黒沢清にとって初めてかも知れない。今まで暗喩としてちりばめられていたその政治的感性が、『散歩する侵略者』では確かに、映画そのものの骨格として立ち現れて来るのだ。
ただしそれは決して、『ボディスナッチャー』が共産主義の洗脳のメタファーだったような単純な図式ではない。ドン・シーゲルの映画にあった「返す刀でアメリカそのものを切る」ような複雑性を、黒沢清はこの映画でさらに発展させている。『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』で、主人公は一緒に逃亡する恋人をキスした瞬間に、彼女もまた侵略者にすり替わっていたことに気付く。キスした時に感じるはずの「愛」が、そこにはなかったのだ。
一方『散歩する侵略者』では最初から結婚し、その結婚がまだ破綻はしていなくとも相当に不安定なカップルという設定が最初からあり、既に乗っ取られている夫の珍妙な不器用さに、妻は文句を言い続けながらも世話を焼かざるを得ない。そして彼女はその宇宙人の夫と、自分を騙して不倫に走った本来の夫とはなにか違った関係性を持ち始め、それに呼応して「夫」(というか宇宙人)も、彼女からは概念を盗むわけでもないのに、次第に「地球人らしさ」を獲得し、冷たく身勝手であったろう本来の夫とは明らかに異なった「夫」になっていく。
ところで、この映画が夏の設定なので人物が厚着にならないことも実は重要になるのは、記憶喪失らしい夫(実は宇宙人)とその妻のカップルとは別に、一家惨殺事件に巻き込まれたらしい女子高生と彼女を探しているらしい青年というか少年(高杉真宙)というもうひとつのカップルもまた、この映画の主人公であるからだ。
実はこの2人も宇宙人なのだが、とくに少年の、一見いかにも健康そうな、傲慢なまでにハキハキとした身体の存在感はTシャツ姿の方が効果的だし、それだけに彼が人間であって実は人間ではない、という設定が活きるとともに、この若い方のカップルの冒険に、いわば狂言回しであるフリーのジャーナリスト(長谷川博己)が巻き込まれるというか引き込まれるのも、少年が肉体的に発する若さの官能的な誘惑と無関係ではない。なにも性的な官能性だけではなく、彼の体現する若さに、まだ「中年」ではないが世事に疲れ、どこかしらうらびれてしまっている男は魅了され、自分が失っていたなにかをそこに見出す。
このジャーナリストと、夫が宇宙人になってしまった妻は、それぞれにその宇宙人のガイドという立場になるが、皮肉なことに2人は、それぞれに実は人間ではない相手とこそ、現代社会ではめったに得られることがない人間らしい関係を結び、相手への人間的な関心を強めて行く。
妻の方は夏でも長袖だったり、スカートはミドル丈で、肌の露出のあまりない、率直に言えば自らを隠すような、不器用な鎧兜っぽくも見える服装だ。ジャーナリストはネクタイをしめないよれたシャツの襟元ははだけているが長袖だし、やはりいささかくたびれたジャケット姿だ。少年のTシャツや、少女が冒頭で着ている確信犯的にステレオタイプを狙ったセーラ服や、その後のシーンのホットパンツ姿とは、明らかに対照的でもある。松田龍平の夫は最初はスーツ姿(出張中に行方不明になって記憶喪失で発見されたので)でその後は主に長袖Tシャツ、肌の露出はないが、そこはスターならではの独特の色気があり、つまりは宇宙人(に乗っ取られた)の側の方が人間らしい身体性を見せつけるという逆転した関係も、この映画の根幹に深く関わっている。
あるいは「所有」の概念を奪われて脱引きこもりが出来てしまった青年のはつらつさがあったり、その一方で宇宙人によって概念を奪われた人間の多発を伝染病とみなした厚労省の調査官(笹野高史)の折り目正しいがどこかヤクザっぽくもあるスーツ姿と、彼が投入する自衛隊や警察官、特殊部隊の制服姿も、対比的に見ることができよう。
厚労省は伝染性の精神疾患ということで調査官を派遣しているはずだが、ジャーナリストと接触するその官僚の口ぶりを聞く限り、実は伝染病とは思っていないらしいことも透けて見えて来る。さらに警察だけでなく自衛隊までなんの前触れもなく動員されることに、もともと社会正義からジャーナリズムを志したはずの男のなかの何かに火をつける。
むろんそれは、単純な「正義」ではない。図式でいえば確かに、宇宙人は侵略者であり、地球と人類を守らなければいけないはずだ。だがその地球人の社会は果たして守るべきだけの価値のあるものなのだろうか? 彼の心のなかにわき起こるこの疑問は、そのまま黒沢清がこの映画に込めた「メッセージ」と重なる。彼の最後の選択は原作にはないようだが、そこも含めてこの人物は、黒沢清の映画のフィルモグラフィで初めて登場した、映画作家自身の分身なのだ。
もう一点、映画の後半で原作と著しく異なるのが、やはり逃亡状態になった松田龍平と長沢まさみが、ふと見かけた教会に入るところだ。子ども達が無邪気に歌を合唱しているのは、この映画の見せる日本社会と著しく異なり、理想化さえされた世界だ。そういえばこのカップルには元々子どもがいなかったし、子どもが子どもらしく出て来るのは、このシーンだけだ(対照的に、見た目は天真爛漫な女子高生に見える宇宙人は、天真爛漫で異常に強い殺人鬼である)。その教会の牧師(東出昌大)に、夫は「愛とはなにか」を尋ねる。
「愛」が重点的な主題として最後に立ち上がって来るのは、黒沢に言わせれば「今の日本映画である程度メジャーで商業性な企画であれば、どんな要素がなければ通らないか分かるでしょう」といささかの皮肉を込めていう。だからこそ、ならば徹底して真面目にやってやろう、と思ったのだそうだ。そしてこの“徹底的に真面目”の行き着く果てとして、宇宙人である「夫」に深い愛情を持った妻は、その「愛」の概念を自分から奪うように言う。
それが地球が滅びる前の彼女の夫への愛ゆえの行為なのか、愛とはなにかを知りたがっている彼への献身なのか、それとも侵略者が愛を知ることで侵略を思い留めるかもしれないと言うかすかな期待なのかは、分からない。いや恐らく、ここで抽象化された図式的心理主義を当てはめること自体が「愛」の概念に反し、意味がないのだろう。
そして映画の結末は謎めいていて、少なくとも四つの解釈が可能だ。妻の側では彼女は「愛」を奪われたのか、それとも「愛」は彼女のなかに今でもあり続けているのかの二通り、その彼女を献身的に看病する夫は元の夫に戻っているのか、それとも宇宙人のままなのか。その順列組み合わせのどれを選ぶのかは、あるいはもっと別の「愛」の可能性をそこに見て、どんな “メッセージ” を読み解くのかは、観客に任されている。
監督 黒沢清 原作 前川知大 戯曲「散歩する侵略者」 脚本 田中幸子 黒沢清 撮影 芦澤明子 編集 高橋幸一 音楽 林祐介
予告編 https://www.youtube.com/watch?v=YN5Des-esA4
全国松竹系映画館で上映中 公式サイト http://sanpo-movie.jp