真珠湾攻撃の電報(電文)は神奈川県鎌倉市に住む山田海人氏が写しを持っていた。ひょんなきっかけでそれを知ることとなり、より詳しい話を伺うこととなった。
写しとは言え本物である。あまりにも有名な「ニイタカヤマノボレ」「トラ・トラ・トラ」の暗号。これらは、受信した側が解読し平文に直す。平文に直したものが今回の電文である。
何が書かれているのか。平文とは言ってもいろいろな略号を使って書かれている。例えば、「GF長官」と書いてあればそれは山本五十六司令長官を指す。
「一二〇八」と書かれていれば、それは「ヒトフタマルハチ」と読み、日付を指す。また電報の緊急性を表す印は旧漢字でもある。歴史を感じさせる。
なお、山田氏は、この資料を20数年前にある国会議員からもらったとのことである。太平洋戦争のきっかけは、この電報ですとのことで、大事なものであるということはすぐ分かったそうである。
山田海人氏は鎌倉の歴史を古くは戦前から、ごく最近に至るまでまとめる作業もしており、その歴史の中から戦争に関わる部分も話してくださった。
昭和15年頃には大船近辺に海軍燃料廠があったこと。横須賀の海軍基地に近いことからその場所が選ばれたこと。ここの燃料がおそらくは真珠湾攻撃にも使われたであろうこと。
太平洋戦争により、北鎌倉地区は東京湾要塞地区になり写真撮影禁止区域になったこと。例えば、貨物を積んだ横須賀線の撮影すら出来ないのである。
戦後、最初は材木座に、その後は燃料廠の跡地に移転し「鎌倉アカデミア」という大学が出来、今で言うクリエイティブな授業を展開していたとのこと。それ以外にも経済や文学などの授業を行なっており、著名人も多く輩出している。
また、大船には捕虜収容所があったとのこと。これもまた、グアムなどから捕虜を連れてくるため、軍港の横須賀が近いこの場所が選ばれた。また大船に捕虜収容所があったため、大船は空襲を免れたと考えられること。隣の横浜は空襲されている。
山田海人氏は、身近な歴史を図書館などで調べてみることを勧める。近世の地域の情報を調べることで自分たちの暮らしに影響することや、埋もれた歴史を発掘することが今に生きる者にとって大切なことだと。
自分の地元で何があったか、知るのは大切なことである。戦争というのは良き足がかりとなろう。広く知られていない歴史を発掘し記録し、それらを積み重ねていけば貴重な資料と成り得る。
もちろん真珠湾攻撃といった大事の何たるかを知るのはとても大切なことである。それと同時に、足元の歴史にも共に目を向けたいものである。
【追記】「国会議員からもらった」の段落を追記しました。(2016.12.21)