昨年の東京国際映画祭の宣伝コピーで「日本は世界でもっとも尊敬される映画監督を産んだ国」とまで言われたほどの「世界のクロサワ」こと黒澤明だが(映画祭が昨年の宣伝利用だけではなく、今年はその作品を上映するのは正しい)、その生前からかくも確固たるキャリアと評価を築けていたわけでは必ずしもない。むしろ1985年に自らライフワークと宣言した『乱』を発表するまでの20年間は、不遇と波乱の時代だったし、この『乱』にしても日仏合作、資本的がかなりの部分フランスから出ることでやっと可能になった作品だ。
「世界のクロサワ」の『乱』に至る20年間、その知られざる波乱と不遇
1960年に自らの製作会社として黒沢プロダクションを設立、野心的な社会派サスペンスの現代劇『悪い奴ほどよく眠る』『天国と地獄』、並行して手堅い娯楽作として時代物アクション『用心棒』『椿三十郎』を発表し、こと後者二本は国際的なヒットとなり(『用心棒』が黒澤に無断でイタリア製西部劇『荒野の用心棒』としてリメイクまでされてしまったほど)、1965年に発表した3時間の超大作『赤ひげ』はその集大成ともみなされ、まさに黒澤は頂点を極めたとも目されていた。だが一方では同作を最後に欠かすことの出来ない大スター、三船敏郎と決裂しただけでなく、小石川療養所を完璧に再現するセットを望み、劇中で開けられることのない薬棚の中身まで詰めさせたなど、その極端過ぎるスケールの大きな完璧主義と伝説的な独裁ぶりに、テレビの隆盛で観客数の減少が始っていた映画界で巨匠が生き残れるかどうかが、危惧され始めていた。
その不安は次作でアメリカ進出になるはずだった『暴走特急』が実現せず、続けてやはりアメリカ映画の超大作『トラ!トラ!トラ』の日本パートの演出を引き受けた時に顕在化する。黒澤に真珠湾攻撃を描く巨編の全編を支配したい野望があったとしてもおかしくなく、現に国内では全体の「総監督」だと報じられたが、美術装置から衣装、演技のすべてに徹底したリアリズムを求めて巨大化・肥大する日本パートのプロダクションはあっという間に所定の予算をオーバーし、完璧を求める黒澤の下で撮影が遅々として進まないまま、20世紀フォックスに突然解雇されるという事態に至る。失意の黒澤は自宅を抵当にまで入れた資金で初のカラー作品『どですかでん』を監督、元々画家志望だったそのユニークな色彩感覚が注目される映画ながら、これも思うような評価を得られず、翌71年には自殺未遂事件を起こす。
再起不能とも噂された巨匠の命運に、日本の映画界がただ心を痛め同情したわけでは決してない。むしろ真逆に、『赤ひげ』や、公開時には絶賛された『天国と地獄』にまで遡って、その完璧主義が常軌を逸した逸話として悪意を込めて噂になり、黒澤明は日本の映画界でもっとも敬遠される存在、時代錯誤の過去の厄介な遺物として嫌われるようにさえなってしまった。日本で映画が撮れなくなった黒澤が、ソ連のモス・フィルムに招かれて『デルス・ウザーラ』を撮ったのが『赤ひげ』の決定的な成功の十年後、1975年のことだ。
カムバック作『影武者』の光と影
1979年、黒澤明は日本映画としては十年近い沈黙を破って『影武者』の製作に取り組むが、この大作も実現出来たのは、当時世界の脚光を浴びていた『ゴッドファーザー』のフランシス・フォード・コッポラ、『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカス、スティーヴン・スピルバーグやマーティン・スコセッシらアメリカ映画の新世代の監督たちが黒澤を崇拝していたからであり、『影武者』はコッポラとルーカスが海外版プロデューサーとして参加、『トラ!トラ!トラ!』で黒澤に煮え湯を飲まされた20世紀フォックスが海外版への出資と国際配給を約束した。そうしたアメリカの資金の保証もあって始まった撮影でも、巨人・黒澤明をめぐる波乱は続く。
武田信玄に影武者がいた、その一人でもあった弟の武田信廉らが、信玄の死後に影武者を使ってその死を隠し続けたという設定で、黒澤は信玄と元泥棒の影武者の二役に勝新太郎、信廉にその勝の実兄・若山富三郎を希望した。だが若山は「勝と先生がうまく行くと思えない」と出演を断り、案の定まもなく黒澤と勝新太郎の衝突が表面化する。一般には映画監督デビューも目指していた勝がビデオ撮影スタッフを勝手に現場に入れたことが原因と言われているが、勝新太郎本人の理解は違った。勝は舞台劇でさえ、同じ台詞を繰り返すと演技の新鮮さが損なわれると考え、話の流れを変えない内容で自分流に台詞を作り替え続ける天才俳優だった。そうして妥協せず自分の頭も身体もフル回転させるからこそ産まれる名演技とカリスマ性だったのが、一言一句監督自身も参加した脚本の台詞をそのまま演ずるように求めるのが黒澤明の演出だ。若山富三郎が「勝とうまく行くわけがない」と考えたのも当然で、現場では勝の台詞の度に黒澤が「勝君、違うって」と怒鳴る光景が繰り返されたという。
結局、勝新太郎は降板し、『用心棒』『天国と地獄』『椿三十郎』で黒澤の信頼篤かった仲代達矢が信玄と影武者を、山崎努が信廉を演じた『影武者』は、1980年のカンヌ国際映画祭で最高賞を獲得、国際的には黒澤のカムバックが印象づけられ、国内でもヒットを記録したものの、日本の映画産業がこの黒澤明の最新の成功を手放しで歓迎したわけではない。
確かに、降板騒動を知る日本の観客やとくに批評家にとって、『影武者』はどうしても「本当は勝新だったら」と思って見てしまう作品だし、『七人の侍』や『用心棒』、『椿三十郎』の躍動感あふれ、分かり易いメッセージ性のある黒澤時代劇を期待してしまうと、上映時間三時間、大規模な合戦シーンもありはするスペクタクル巨編であっても、巨人・信玄の死と武田家の没落というひとつの時代の終わりの空気を濃厚に漂わせつつ、最初は信玄に成り代わっていい気になっていた影武者が、大信玄の影に押しつぶされつつ抱える自らを見失って行く葛藤と、別の人間になっていく複雑な過程を、動きのむしろ少ない、観念的な台詞の多いスタイルで追うことには違和感もあっただろうし、悪夢のシーン等で突然、奔放な原色が絵画的に用いられるのも、なにか居心地が悪い。黒澤自身は、『影武者』は次作『乱』の予行演習的に撮った映画だとも言っているが、『どですかでん』以来明らかに作風が娯楽性よりも芸術性、アクションよりも観念性、剛胆なモノクロよりも華やかな色彩性の方向に変化しつつあったことが、いささか未消化のままにも見えてしまう映画ではあった。
「リア王」の翻案『乱』を黒澤明がライフワークと言ったことの意味
映画『乱』と直接関係ないはずの、この映画に至るまでの20年の逡巡に字数を費やしたのは、当時ほとんど理解されなかった「ライフワーク」という黒澤の言葉の意味が、今となって振り返ると見えて来るように思えるからだ。
シェイクスピアの「リア王」に想を得た、老戦国武将の没落と狂気、その一族滅亡の物語を、黒澤がいつ着想したのかは分からないが、「デビュー当初からずっとやりたかった企画」というような意味でのライフワークでは恐らくあるまい。だが『赤ひげ』から『影武者』に至る葛藤と逡巡、そのなかで明らかに起こっていた作風の変化の帰結として『乱』を見るとき、これが映画作家としてだけでなく、一人の人間としての黒澤明のもっともパーソナルな、ほとんど自伝的と言っていい、自己省察を反映した作品であり、自分自身との葛藤を乗り越えた到達点であることが見えて来る気がする。
『乱』の主人公、一文字秀虎を演ずるのは『影武者』の仲代達矢。その新劇で鍛えられたある意味舞台的な、硬質な演技スタイルは、『影武者』ではいささか違和感を禁じ得なかったし実際に仲代とはまったくタイプが異なる勝新太郎向けに書かれた役だったのが、『乱』は映画全体のスタイルが仲代の演技の個性に合せて構想されているだけでなく、その仲代の演技を極限まで追い込むことが、かつて画家を志したという黒澤の絵画的な色彩センスが初めて映画として結実したことと合い通じている。秀虎は70歳過ぎの設定、仲代はまだ50を過ぎたばかりだったが、黒澤は老け役の定石の演技やメイクや求めず、むしろ極端な演劇性で誇張されたある種の怪物としての秀虎像を演出し、それは仲代の演劇的で硬直的な、映画なら時に「やり過ぎ」「不自然」になりかねない役作りとの絶妙な化学反応で、壮絶な悲劇的人物が造形されることになる。
冒頭は一文字家の槇狩り、大猪を射止めた秀虎は、獲物が「古猪」で「肉は固く臭くて喰えぬ」と言い、その言葉はそのまま、戦国乱世を生き抜いて来た秀虎本人に重なる。狩の後の酒宴で不覚にも居眠りしてしまった秀虎は悪夢にうなされて目覚め、これを機に三人の息子達を前に隠居することを宣じ、長男に家督を譲るが兄弟助け合って国を守るよう、矢は1本だけなら簡単に折れてしまうが3本束ねると折れないことに喩えて告げる。膝を使って強引に3本の矢を折った三男が、父の判断は甘いとざっくばらんに批判すると、怒った秀虎はその末息子の三郎(隆大介)を勘当してしまう。
「天皇」と呼ばれた映画監督と、一代でのし上がった戦国武将の鏡像
リアの3人の娘を息子に置き換えたのは、当時は「黒澤は女が描けないから」と揶揄されることにもなったし、ある意味では確かにその通りでもある。だがシェイクスピアの描いた心やさしい末娘コーディリアが黒澤の手にかかると歯に衣を着せぬざっくばらんな物言いの、無骨で乱暴にさえ見える三郎に変換されていることも含め、だからこそ『乱』はシェイクスピアではなくあくまで黒澤の世界であり、一見折り目正しくいささか気弱な長男・太郎(寺尾聡)と、マキャヴェリストぶった次男・二郎(根津甚八)の人物造形と関係性も、あくまで日本的な男社会のそれである。
そして「リア王」の長女と次女の嫉妬の鞘当てよりも、『乱』の見せる男の嫉妬の方がはるかに根が深く陰湿だ。日本の映画の現場もまた男尊女卑の男社会の傾向があるのは今でもそうだが、黒澤がキャリアを築いたスタジオ全盛期の黄金時代よりも60年代後半以降の方がいわゆる「体育会系」「同調圧力」の空気はむしろ増し、並行してかつてあった映画娯楽の栄光の王国は崩壊していく、『乱』の一文字家の破滅に向かう道は、そのパラレルになっているとも言えるかも知れない。
直裁な三郎と忠臣の諫言を増長満と叱責し、激怒のあまり追放してしまう秀虎は、まもなく自らこその増長満で太郎と二郎の野心を見抜けぬままに追いつめられ、破滅へと向かう。それはメガロマニアックな完璧主義に固執するあまり「天皇」と陰口を叩かれもした特に『赤ひげ』以降の黒澤の、その天皇っぷり故に自己破壊的な顛末を繰り返しもしてしまった姿にも重なる。
17歳から50年以上を戦国武将として戦い抜いて来た秀虎はしかし、決してただ傲慢で頑固なだけの人間ではない。戦いのなかで残虐の限りすら尽くし、太郎、二郎の妻の一族すら容赦なく惨殺して来た秀虎は、密かに自らが犯して来た罪の呵責を心に秘め、だから息子達に攻められた時、戦国武将らしく自害して果てることも出来ぬまま発狂する。その姿は壮年に至り円熟と芸術性の追及へと興味と作風が変化しながら、それを自分でもうまく咀嚼出来ぬまま極端に傍若無人な頑固な完璧主義を発散する一方で、その孤高に自ら苦しみ自殺未遂にまで追い込まれた黒澤その人の姿が反映されているのではないか?実際、「天皇」伝説が流布する以前から、黒澤の演出はこと俳優たちには恐ろしく過酷で、ほとんど暴力的だったことも知られていて、それは二郎の妻・お末の方(宮崎美子)の一族を滅ぼした際に秀虎がやったと語られる、あまりに残虐な所業にも通じる。
自ら抱える破滅的な狂気を、主人公・秀虎に託すことで超えて行く黒澤明
『影武者』にいささか平板で通俗的な印象を覚えてしまう、その欠点は物語構成そのもの、信玄という巨人がただ巨人としてのみ描写され、その内面も観客には理解出来ないまま、死せる信玄の亡霊が巨大な影として全編を覆っていたことにあった。影武者は見た目こそそっくりだがおっちょこちょいなコソ泥の小人物、それが次第に信玄らしくなっていく過程は、信玄と影武者が実は同一人物の光と影と考えれば納得が行く深みが出るし、当時の黒澤は巨匠とみなされる一方で他ならぬ巨匠とほめ殺しにされている自分の姿を、その小人物の方にこそ自虐的に投影していたのかも知れない。勝新太郎の破天荒な個性ならそこを演じられたかも知れないものの、仲代の個性には合わない役柄だったのだろうが、『乱』ではその仲代達矢の硬質なスタイルの、素顔が極端なメイクに覆われてほとんど見えないからこその演技で、『影武者』では2人の人物に分けられていたものを一人の人間の二面性と、体面から表には出せない内面の破滅的で悲劇的な葛藤として演じ切られる。
暴力的で残虐なまでの「男らしさ」に押し殺されて来た秀虎自身の心の弱い、あるいはやわらかい部分、それ故の判断の誤り、それ故の呵責は、怒れる神の狂気と、その神罰に苛まれる人間が同一の人物である、そこに『乱』の本質の神話性があると同時に、黒澤本人がお末の方役の宮崎美子に秀虎は自分自身だと漏らしたとも言われているように、黒澤明という人間自身が奥深く投影されたが故の主人公のあり様でもある。
むろん『乱』を撮っていたときの黒澤が、それまでの20年間か、もしかしたら1936年に映画界に入り43年の『姿三四郎』で監督デビューして以来(つまり秀虎の50年の戦いの半生にほぼ重なる)の自分の生き方、映画の作り方についての反省をこの主人公に投影しているとしても、だからといってこの時の黒澤が映画としての美学の追及について丸くなった、妥協するようになったわけではまったくない。
『乱』もまた金銭経費を度外視した完璧主義に貫かれた映画であり、その完成度はむしろ『影武者』までの試行錯誤を遥かに超えている一方で、『七人の侍』でも国宝級の本物の鎧を使ったと言われるような伝説的な一面も健在だ。一文字一族の一ノ城は国宝・姫路城、二ノ城は熊本城で撮影され、秀虎発狂の重要なシーンで炎上する三の城の天守など大規模なセットが不毛の火山灰地に作られた。正気を失った秀虎が彷徨う、お末の方の一族が彼によって滅ぼされた城跡は、豊臣秀吉の朝鮮出兵時にその本陣が置かれた名護屋城址だ。
『影武者』の製作費は13億円と言われ、『乱』はその倍の26億と宣伝されたが、実際にはその額すら超えていたらしい。巨額の製作費を宣伝利用で水増しするのが日本映画界では当たり前のなか、『乱』は実際の製作費の方が多かったほとんど唯一の例だそうで、なんでも実際の額を言われた黒澤が「俺はそんな下手な監督ではない」と激怒したので、少なめにしか言えなかったのだとか。
現場では、多くのショットが厳格な構図に固定されて見える『乱』だが、キャメラはほとんど常に移動車に載せられていたと言う。その移動車を押す特機が黒澤のお眼鏡にかなわず、常に待機しながらほとんど使われなかったからなのだそうだ(確かに一カ所、移動車を使ったショットが必ずしも黒澤が求めたはずの巧い動きになっておらず、いささかぎこちないことが、今回のデジタル修復では目についてしまうのが残念)。
覚え易いメロディを排した抽象的なレクイエムを思わせる音楽は武満徹だが、黒澤はヴェートーヴェン(つまり親しみ易い印象的なメロディ)を求めマーラーだと考えた自分とは衝突した、と武満自身が述べている。海外合作でもあり有名楽団を求めた黒澤がロンドン交響楽団と言うのに対し「音が荒れている」として武満は札幌交響楽団を主張、日本の地方の無名楽団の起用に黒澤は当初不満だったそうだが、録音に立ち会ったあとその演奏に深々と頭を下げて礼を言ったというのが、いかにも黒澤の人柄を示す逸話として伝えられている。
年齢と共に変化する作風ときっちり向かい合うことが出来た到達点としての『乱』
響きの繊細な美しさを追及した武満の音楽は映画の音、風の音や真夏の虫の声、そして銃声と、身の毛のよだつような沈黙を変幻自在に用いた音響設計と相まって、時に不自然なエコー効果まで用いる大胆さも含め、今回のデジタル復元による上映では、この音の演出の凄みがとりわけ圧倒的だ。
常識破りの巨匠伝説を持ち出すまでもなく、『乱』のワンショット・ワンショットの濃密さ、ほとんどが固定されたキャメラのフレーム内の人物や事物の動きの振り付けの完璧さや、複数の人物を捉えたショットでそれぞれの人物に独自の芝居がちゃんとつけられ、それが個々のシーンに厚みと複雑さを凝縮させていることは、大画面に上映されると否応なしに目に入り、その映画的な密度にまず観客は引きつけられる。たとえば秀虎が隠居を宣言する場面を横から、三人の息子が正面を向くよう捉えたショットはどうだ。黄色い狩衣の太郎、赤の二郎、青を着た三郎の三人のそれぞれの異なった個性が、儀礼的にかしこまって座って大きな動きがまったくないからこそ、衣装の色だけでなく同じ姿勢で座っているそれぞれの佇まいの明らかな違いで際立つと共に、白衣の秀虎がその場ですでに現実から遊離していることも鮮明に提示されている。また秀虎の基調カラーが白であることは、これが「死」をめぐる映画であることも最初から印象づける。
今回のデジタル修復はなるべくデジタルっぽい平板な鮮明さの固い質感ではなく、本来のフィルム上映に近い、粒子のあるソフトな画調をなるべく再現しているが、それでも衣服の布地の質感などがフィルムに較べると際立って見えるデジタル映像の特徴は活きていて、そこに目を見張らされると同時に、公開当時には登場人物に併せて衣装を色分けするなどのスタイリッシュな表現(衣装デザインはワダ・エミ)がリアルではないと批判されもしたことが、まったくの的外れであったことが分かる。
「時代考証」を雇う必要もなく、描く時代を知り尽くしていた黒澤
二郎が羽織の下に身につけた小袖の凝った絞り染め、秀虎の白の羽織の襟の赤と金糸の凝った刺繍、二郎の正室お末の方の絞りに刺繍を組み合わせた辻が花のたおやかな風情、太郎の正室・楓の方(原田美枝子)の豪奢な錦の冷たい質感など、ぜいたく極まりない本物志向であると同時に、安土桃山時代の今から見てもアヴァンギャルドな着こなしを甦らせたデザインは、公開当時の日本人がなんとなく「これがリアル」と思っていたいわゆる時代劇風のお約束ごとよりも、遥かに歴史の実際に近い。
また確かに「女を描けない」と言われた黒澤の限界は、お末の方と楓の方、一族を皆殺しにされた恨みすら許し仏教に帰依する前者と、同じ恨みから九尾の狐の化身と言われるまでに化けた楓の方の悪女っぷりという極端な二項対立に還元された図式性にも見えてしまっているという批判もあり得なくはないが、とはいえ楓の方に銀を混ぜた黒と白の鱗文様の小袖を着せる選択からも、黒澤とワダ・エミが能や歌舞伎など日本の伝統文化に通じ、それを使いこなしていることが分かる。鱗文様は能と歌舞伎で、たとえば姫が巨大な大蛇に化ける『道成寺』などで使われる意匠だ。そして確かに、楓の方が蛇の化身、九尾の狐であるのはいわゆる傾国の悪女の図式そのままかも知れないにせよ、黒澤演出にかかると、その図式性を飛び越えて本当に怖い。黒澤は以前に、やはりシェイクスピア翻案(『マクベス』)の『蜘蛛の巣城』で山田五十鈴の動きに能の所作を取り込んでいるが、『乱』の楓の方もまた能の所作を踏襲しながら、様式性に留まらない生身の魔性がそこには現前しているのは、眉を落としお歯黒をした楓の方の能の女面のような顔と対をなすかのように、秀虎もまた能の般若面のような顔をしていることが、絶妙に作用しあっているのかも知れない。
君臨し続けるものの孤高、そして孤独
フランス側では母国が見捨てた世界的巨匠の大作を自らが支えている自負もあったのか、『乱』のメイキングをこれまた超一流の前衛映画作家であるクリス・マルケルに依頼した。黒澤明の頭文字をとって『A.K.』と題されたその作品でも、現場に超然と君臨する黒澤の姿は、「クロサワ天皇」と揶揄されて来たことがもはや揶揄ではなく現実がその風評を超越していたことを示している。若い頃の伝説になっているほどには、『乱』の現場の黒澤の姿は「怖く」はないが、敬意を込めて「先生」と呼ばれる黒澤には、もはやそういった直接的な威圧が必要ないほど、一見温厚でにこやかでも済まされる権威的存在に到達していたように見え、マルケルの捉えた黒澤の現場には、もはや宗教的と言っていいような崇高な集中力が張りつめていた。
その『A.K.』では、ナレーション(日本語版は蓮實重彦)でも言葉では黒澤が「先生」と呼ばれ敬愛を一身に集めていることが繰り返されつつ、クリス・マルケルの映像と構成は、その影にある黒澤明のある真実を、決して見逃してはいない。なるべく上機嫌に振る舞う黒澤の、時に見せる厳しさや憤怒も含めて、すべてが彼の自己演出でもあり、ある意味「大監督」の「先生」を演じなければならないことと、そして「天皇」「先生」として振る舞う表層の奥にある黒澤明という個が、孤高であり孤独であること。
その孤高は『乱』の主人公.一文字秀虎の絶望的かつ実存的な孤高、絶対的な悲劇としての孤独にも重なる。『乱』には厳密かつ華麗な映像美に満ちあふれながら、その奥底にはある諦念が流れている。人の世とその命運を真摯に見つめるときに否応なく必要とされる冷徹さ、それを突きつけられながら、我々が現代の社会で活きるときにその自覚すら避けなければやっていられなくなる隠された空虚感が、この映画には表層ではなく底流にあって、直接目には見えずとも決して隠されていない。死すべき存在たる人間の、根源的な悲劇の感覚の底流こそがこの傑作の中核にあり、その意味で『乱』の本質は恐ろしく空虚でもある。通常の社会的な倫理観では許し難いことかも知れないが、30億近い(あるいはそれ以上の)巨費と膨大な人々の努力が結晶した壮絶な迫力と、円熟の極致ならではの奔放にして厳格な美学を発散しながら、『乱』という映画はそのテーマが空虚であるだけでなく、映画そのものがある空虚さを体現しているのだ。ここで言う「空虚」とは、仏教の般若心経にいう「色即是空」の「空虚」であって中立的で超越的、絶対的なそれであり、普遍的であるが故に30年を経てもおそろしく現代的である。
いや『乱』は(筆者が公開当時まだ少年でよく分からなかったことを勘案しても)、30年を経たからこそ今、巨大な傑作にして、偉大過ぎて尊大であるしかなかった芸術家の、いわば遺言、華麗さのなかに秘められた真摯な告白としての真価を発揮するのかも知れない。
それにはふたつ理由がある。まず現代の映画界には、このような映画は世界中のどこでも、決して作れないことだ。映画界の産業的基盤や構造がもはやこんな大作を許さないだけではなく、当時でさえ黒澤明の破天荒ですらある巨匠っぷりがなければ絶対に出来なかった作品が『乱』である。そして映画の世界に限らず、黒澤明、あるいは秀虎のようなあまりに人間らしいが故に通常の人間を逸脱した巨人が、もはや現代の世界では生きていけないこと。それがこの映画を一文字秀虎=黒澤明という巨人の壮麗にして壮絶な葬列と生け贄の儀式とも言える、死に取り憑かれたものにしている。だからこそ『乱』は、戦争すらマンガチックな語彙かCGIめいたイメージでしか語られ得ず見せられない現代において、人の死、つまりは人間の生存そのものすら、皮相な記号に換言されてしまいがちであることの巨大な罪を、21世紀の観客に鋭く突きつける。