1945年の8月6日にアメリカ合衆国が広島に原子爆弾を落とした。死亡者の正確な数は今でもわかっていない。広島市のホームページには、「放射線による急性障害が一応おさまった。昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています」とある。70年の時が経ち、8月6日になると原子爆弾が落とされた街には世界中の人が訪れるようになった。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と書かれた原爆死没者慰霊碑は昭和27年、1982年の8月6日に設立された。今年、人々は献花をするために炎天下、慰霊碑の前に長い長い列をつくった。
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慰霊碑の近くで小さな写真を持ち、奥さんに写真を撮ってもらっていた男性の名前は仙田紘一郎さんといった。年は72歳。奥さんの名前はあつ子さん。モノクロ写真に写っている軍服姿のお父さんの名前は仙田晴雄さん。数年前に亡くなったお母さんの写真はカラー写真で、お母さんは和室に座っていて笑っている。お母さんが亡くなったのは93歳。写真の中の軍服を着ているお父さんが亡くなったのは30代半ば。
仙田さんのお父さんは戦地には行かなかったけれど、原爆で亡くなった。2歳だった息子の仙田さんは大阪にいて、お父さんは広島にいた。仙田さんは父さんの顔も全然知らない。
戦争終わって70年。
「そりゃもう(原爆は)熱かったって聞きますわ。みんなその川にね、飛び込んで水飲んだりってね」と仙田さんは言った。
原爆で亡くなったお父さんからは当然長い間連絡は無かったし、骨も出てこなかった。仙田さんのお母さんはお父さんが戦死したという情報をもらうために2、3年役所に通ってやっともらった、と言っていた。それからお母さんはずっと1人で子どもを育てた。両親のことを話すとき、仙田さんは涙で言葉につまった。
それから昭和15年11月にお父さんが友人の黒川君、古野君、近藤君、藤井君と一緒に写っている「召集解除記念」の写真を見せてくれた。
「戦地行ってないからね、家のもんもみんな死ぬことないやろと思っとったらしいんが、これやからね」と言って空を指差した。
「まぁ親父、おふくろ、ようね、頑張って育ててくれて、今は幸せです。子どもや孫に恵まれてね、いい奥さんやし」と行って仙田さん夫婦は笑った。
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今90歳で車椅子に乗っている浅野幸子さんは、原爆が落ちたときビルの2階にいて、窓から入ってきた原子爆弾の光と風が顔に当たった。顔と背中を火傷した。彼女はもはや階段ではなくなってしまった階段をズルズルと滑り降りてビルの外に出て、自分の家の方に歩き出した。外の様子はわからなかった。とにかく真っすぐ自分の家の方に歩いていかなければいけないと思った、と浅野さんは言った。
浅野さんを助けてくれたのは同じ職場の女性だった、それからさらに助けの手が増えた。爆心地を通らなくても行ける、爆心地の逆の方向にあった久保さんという上司の方の家に行った。おかげで傷は負ったけれど放射能や二次災害を避けることができたのだと思う、久保さんの案内が無ければ命は無かったんじゃないかと思う、と式典に一緒に来ていた浅野さんの娘さんが言った。
爆弾が落ちた後は、3ヶ月くらい高熱が続き生死を彷徨っていた。体中に火傷をしていたから病院に通わなければならなくて、足をケガしていたので病院に近い姉の旦那さんの旅館に住み病院通いをした。火傷のせいで腕を袖に通すことができず、浴衣を羽織って病院に行く浅野さんの姿を人々は「奇異」な目で見ていた。彼女のお医者さんのいた地域では原爆の被害を受けた人は比較的少なかった。だからか自分に注がれた人々の「奇異」な人を見る視線の感触を彼女は覚えている。
左腕の半袖を少しめくって、浅野さんは原爆で受けたガラス傷を見せてくれた。「2針縫いました」と彼女は言った。ぱっくりと傷ができて、縫ってもちゃんとは治らないけど、縫ってみましょうということで腕を縫った。それが彼女が持っている「外から見える傷」。背中には今も火傷の痕とガラスの破片による切り傷がある。背中に火傷とガラス傷があるわよ、と浅野さんはお母さんから聞いた。何年も経ってから体からガラスの破片が出てくることもあった。
浅野さんは東京で浅野さんのことを被爆者として差別しなかった男性と結婚をし、今は曾孫もいて穏やかな生活をしている。被爆手帳を持ってがんセンターに行くと、皮膚に少し異常があったりすることもあるけれど、他の被爆者の方と比べれば幸せな方だったのではないかと思います、だけど未だに夜にうなされることもあります、と母の物語を受け継いでいる浅野さんの娘さんが言った。
浅野さんは娘と孫と曾孫と式典に来ていた。
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「広島県原爆被害者団体協議会」の「被爆体験を語り継ぐ会」の会員の77歳の大隅勝登さんは、この日の朝5時半から原爆についてのあれこれを案内をしていたので、式典が終わった後に一休みしていた。彼は各地からやってくる修学旅行生に被爆体験の話をしたりする。
「小学校の2年生のとき、のこと…を、まだ覚えてるよ。ピカッて光ってドカーンてなって、ギャーーっと物が降ってきて、『傷もぐれ』になって。」と彼は話した。
「『傷もぐれ』?」と聞くと、大隅さんは、帽子をとって頭を触り、「このへんから…このへんから…」と言って自分の胴体を触った。そして「最終的には舌癌」と言って舌を出した。舌の形が少し変形している。「で、リンパ節の病気。それから肝臓癌。でも生きてるよ、3回も手術してるのに。大丈夫」生きる気持ちがないと駄目、と大隅さんは言った。
「修学旅行生が各地から来るじゃない。中学、高校…大学が来んのよ」大学生に一番知って欲しいのにと大隅さんは言った。
「伝わっていると思いますか?」と聞くと「思わん」と大隅さんは即答した。
「何が伝えるために足りないんでしょうかね?私は『はだしのゲン』とか読んでたんですけど」
「その通りよ。本気で読むかどうかしかないのよね。人間がどうじゃろうか言うのは、資料館行って見るのに限るよね。」
「原爆が落ちた後の広島での生活っていうのはどんなものだったんですか?」
「あとは、ひもじいばっかり。ものを食うもんがない」と大隅さんは言った。
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長い間8月6日の平和式典には来ていなかったけれど、79歳の柴田雅子さんは今年は早朝から式典を訪れた。広島市が父の名前を公式に記帳したからだった。彼女の父は直接体に火傷を負ったりはしなかったけれど、広島市内で原爆にあった。
「お父さまの名前が記帳されたときはどんなお気持ちでしたか?」
「そうですね。なんだか初めて広島市民になったような感じがしましたよね」と彼女は言った。これから彼女は今は資料館に展示されている父の写真を見に行く。父は109歳まで生き、去年の11月に亡くなった。
「今平和について思うことは?」
「みなさん原爆に遭われて、亡くなられた方たくさんいらっしゃいますので、今も苦しんでいる方がたくさんいらっしゃるのでね、少しでも幸せに元気で生きてほしいなと思いますよね」