2015/08/03 政治
【戦後70年】戦後70年を求めてやってきた香港のメディア人たちと巡る沖縄

7月16日。安保法制が衆院で強行採決され通過する。7月15日と16日のことを記録・取材した記事を書き8bit Newsに投稿(http://8bitnews.org/?p=6122)。18日に滑り込みで飛行機に搭乗して沖縄へ。自分の席を見つけると隣りはアメリカ人だった。水の入った水筒を2本座席の前のポケットに差し込んでいる。東京から那覇に1人で旅をし、水分補給に気を使うアメリカ人はきっと海兵隊員だろうと思って、飛行機が羽田空港を飛び立つときにやる、例の日米地位協定に基づいた急旋回を終えた後に話しかけるとやっぱり海兵隊員で、彼は1人で富士山に登った帰りだった。

 

 

海兵隊員マイクは31歳、ノースカロライナ州出身。高校を卒業してすぐにアメリカ軍に入った。家族の中に軍人もいたし、その頃は集中して大学で勉強できるほど集中力や忍耐力のようなものが無かった。だけど何もしないわけにもいかないし、軍に入れば食えないということはないので彼は軍に入った。

 

 

マイクは今までアメリカ本土、フィリピン、沖縄、イラクなんかの基地に務めてきた。沖縄には4年間住んだ。今は沖縄南部の裏添市にあるキャンプキンザーの基地の中に住んでいる。基地の中には無料で住めて、基地の外に住むときも住宅手当が出たりする。特に家族のいる軍人は基地の外に住むことが多い。沖縄本島には「外人住宅」と呼ばれる住宅がたくさんあって、沖縄の建物とはつくりが違うのですぐにわかる。昔「外人住宅」だった建物をカフェにしたりしているお店もある。彼の沖縄での軍人生活は残すところあと1ヶ月で、その後はアメリカ本土の基地に配属されることになっている。

 

 

彼はイラク戦争真っ最中の2004年には中東にいた。任務としては武器弾薬の管理や輸送なんかを担当していて、戦地で直接活動するコンバットの仕事と比べてぐっと危険度は低く、基地が攻撃されたこともあったけれどそれは大したことはなかったと彼は言った。攻撃って…誰から?と聞くと、イラクからだよ、と彼は大手の取引先の会社の名前でも言うような感じで言った。

 

 

マイクは高校卒業以来13年間ずっと軍に務めてきたから、そろそろ何か違うことをやりたいと考えていると言った。オフィスで仕事をするのは嫌だから、木で家具をつくるとか、農園をやって野菜や花をつくって売るとか、アウトドアで仕事をしたいと彼は言った。自分の中にあるやりたいことのイメージについて話すときの彼の表情は、想像力を膨らませているときに人間がする表情になっていて素敵だった。飛行機の窓から夕日が差し込んでいる。

 

 

私はサンディエゴに住んでいた頃、中東でのコンバット中に友人を亡くしたアメリカ人兵士と会ったことがあった。友人とバーで飲んでいたら、その兵士は1人でバーにやってきて、私の友人に一目惚れをした。彼はバーのカウンターで戦友が死んだこと、そしてその友人は兵士としてとても優秀だったというようなことを話した。優秀な兵士が戦死したからショックが特に大きかったのだろうか。彼は今は休暇中だけど、またすぐに任務に戻らないといけないと言っていた。彼は何かを考えていて、表情は不安そうだった。だけど私の友人を見るときの彼の表情はとろけていた。戦地に戻る前に、誰か美しい人を抱きたいと彼は思っていたのかもしれない。だけど私と私の友人は少なくとも当時は軍人嫌いだったし、友人には恋人もいた。だけど目の前に戦友を亡くした軍人が現れたとき、私たちはとりあえずミラーボールが回り音楽が流れているダンスフロアで彼と一緒に踊った。それは多分2012年あたりの出来事だったと思う。多くの犠牲者が出て、イラクに大量破壊兵器は結局無かったことがわかった後で、アメリカのやっている戦争のことなんて誰も気に留めていないような時期だった。

 

 

2015年7月18日、偶然飛行機の席で隣りになった海兵隊員マイクの戦争経験は全然違っているようだった。のんびりとさえしている。私たちは約3時間の飛行中ずっと話し続けた。マイクは窓側の席、私が真ん中で、通路側の青年は眠りこけていた。そんなに長い時間話していられたのは、私たちが一般論を避けて、世の中に渦巻いている大衆感情や世論傾向に巻き込まれないように気をつけながら、あくまでも個人的に話したからかもしれない。

 

 

戦地にいるときイラク人とも友人になれるのかと聞くと、答えはYesだった。イラクには自分の娘を彼と結婚させたがったイラク人の父親もいたと彼は言った。それは嬉しいお世辞だったけれど、きっとその父親は自分の娘がアメリカ人と結婚すればよりオポチュニティーやチャンスに恵まれ、ベターなライフを得ることができると考えていたからだと思うから、それは同時に悲しくもあったと彼は言った。そういうとき彼は「それは嬉しい話ですが、僕らは今戦争とかで忙しいので娘さんと結婚することはできません」とやんわりとオファーを断った。

 

 

私たちは聖書の話もした。マイクはキリスト教も仏教もイスラム教も全て良い宗教だ、だけど宗教というのはその目的を考えると逆噴射していると言った。宗教は「原罪」みたいな心理トリックを利用して人間を縛りコントロールするような側面を持ちながらも、実際聖書には素晴らしい知恵や、興味深い逸話や、善良な人間になるためのヒントみたいなものが溢れている。だけどキリスト教徒たちの中には洗礼を受けたあとに、洗礼を受けていない人たちよりも自分たちのほうが上だと思い込んだりする人たちがいる。そういう行動を聖書は注意しているのに。そして歪みが生まれる。僕はキリスト教はけっこう好きだ。だけどキリスト教徒が好きかどうかはまた話が別だ、と彼は言った。彼は記憶の中からオールドイングリッシュで書かれた祈りの言葉を引っ張りだしてきて私に教えてくれた。素敵な言葉だった。

 

 

日本の安保法制のことは彼は知らなかった。彼の周りでもそういう話はあまりされていないと言った。もっとトップのレベルの人間がそういう話を知っているだろうと彼は言った。キャンプ・フォスターが沖縄の全ての基地の本部だから、きっと話を聞くとしたらそこだと思うと彼は言った。

 

 

中国のことは脅威だと思うか?と聞くと、「まぁね」と彼は言った。「だけどどの程度のレベルでかというのはわからない。君はどう思う?」と聞かれて、情報が少ないから、どの程度の脅威なのか判断することが難しいと私は言った。

 

 

結婚はおすすめだ、と彼は言った。彼は3年前に結婚をした。奥さんとはサウスカロライナ州の基地で出会った。自分の好きなことをしているといい相手に出会うことができる。相手はオープンな考え方ができて謙虚な人がいいと彼は言った。彼らには生まれたばかりの1人の息子がいる。ベイビーボーイは完璧だよ。何の問題もない、ナチュラル、自然そのものだと彼は言った。キリスト教の筋書きによると、僕らは生まれながらに原罪を背負っていて、罪から救われるためにいろいろなことをする。だけど僕の生まれたばかりの子どもには罪なんて全くないよ。おそらく僕にはあるとしてもね。罪から救われて死んだ後に天国に行けて、天国には黄金でできた道とかがあるという話になっているけど、僕はそもそも黄金はそんなに好きじゃないし、もしも僕が普通の道がよかったらどうしてくれるんだ。天国には死んだ親戚とかがいて、そこで苦痛のない素晴らしい時間が過ごせるみたいなことになっている。だけどもし苦痛がなかったら他の感覚もない。僕にとっては地球上での今が全てだ。先のことはわからない。愛する人たちとは今一緒に時間を過ごす、それが僕にとっては重要で価値があることだ、と海兵隊員マイクは言った。飛行機が那覇空港に着陸し、荷物を取って、またいつか会いましょうと言って私たちは別れた。

 

 

 

 

Radio Television Hong KongというTV局でHong Kong Connectionという番組の制作をしているメディア人3人組が、戦後70年の特集番組をつくるために沖縄にやってきたのは、7月22日の夕方、私が沖縄のミュージシャンの喜納昌吉さんにインタビューをしているときだった。

 

 

自分は政治家である以前にミュージシャンで、政治はアーティストがやるべきだと言う喜納さんに、私は音楽側の切り口から色々と質問をしていた。「地球が主人公」「すべての武器を楽器に」と喜納さんは言う。辺野古新基地の問題も安保法制と足並みを合わせるように重要な局面を迎えている。知事の権限で行える、辺野古埋め立ての「承認取り消し」が、今翁長知事が日本政府に対してかざしているカード。カードを使うタイミングがとても大切。

 

 

安保法制に関しては、これだけの人が反対しているのに政府が強行しようとする、日米安保という統治機構の歪んだヒズミを見る、そしてそのヒズミの底辺で蠢いているのが沖縄であり辺野古新基地問題だと喜納さんは言った。そして辺野古の問題は日本の運命を図る問題だから、全国で辺野古の問題は応援するべき。それは党利党略でやるものではない。「地球が主人公という姿勢に戻って運動をしないと不幸な結果に終わると私は見ている」と喜納さんは言った。

 

 

国際通りにある喜納さんのライブハウス「チャクラ」が新装オープンした18日のライブで、喜納さんは自分は「ウヨク」でも「サヨク」でもなく、強いて言えば「ナカヨク」と言い、演奏すると日本人の客の半分が帰るという朝鮮民謡「アリラン」を歌い上げた。喜納さんが「アリラン」を歌うと、38度線で隔てられている韓国の人、北朝鮮の人、両方とも涙を流すらしい。「チャクラ」のオープニングにはお客さんが一杯に入っていて、中にはアメリカ軍の高官たちもいたし、沖縄戦を生き延びた人も来ていた。沖縄の政治と文化と歴史と現実が密に練り込まれたような独特な空気。喜納さんが生まれた沖縄中部の街コザでライブをやっていた頃、うちなんちゅもヤクザも警察もアメリカ兵もみんな喜納さんのライブにやってきて踊った。楽しかったなぁあれ、と喜納さんは言った。

 

 

香港からやってきたコンパクトなメディアチームは、2人の女性TVプロデューサーのギリアンとファニーと男性カメラマンのビリーという構成。1997年7月1日にイギリスから中国に返還された香港の人たちは、英語の名前と中国語の名前を両方持っている。彼らは日本で戦争を経験した上の世代と若い世代両方にスポットを当てるために、私(28歳)が沖縄で取材しているところを取材しつつ、自分たちの取材も行うという計画。多くのTVの取材には時間に制限があるので、ある程度撮りたいものや番組の型や筋書き的なものがある。リベラル人権派系のマスコミによる戦後70年特集、という感じ。

 

 

香港のメディアチームも喜納昌吉さんにいくつか質問をした後、私たちは那覇の街に出かけて夕食を食べながら取材計画を練った。小さな焼き鳥屋の席に座ると、香港では家賃が高いからこんなに席の少ないバーだと経営が成り立たないとか、この手羽先は香港で食べたら8ドルくらいするとか、香港の生活事情がこぼれる。

 

 

 

 

7月23日は琉球新報新聞博物館にて取材。香港メディアチームはNHKの百田直樹さんが沖縄の新聞2社は潰れたらいいと発言したこともしっかり知っていた。博物館は戦時中にガマの中で印刷されたというハードコアな戦争を伝える記事や、戦後の沖縄の歩み、復帰から現在の基地問題まで、琉球新報の語ってきた沖縄の歴史に溢れている。日米の軍事植民地としての政治的地位の低い沖縄の現実がイヤでもわかる。香港メディアチームが取材をしていると、丸眼鏡をかけた琉球新報の記者さんがやってきて、彼らは逆取材を受ける。

 

 

それから沖縄国際大学へ移動。タクシーの運転手さんは、普天間飛行場は「かかず高台」からよく見える、沖縄国際大学は普天間基地のほんとにすぐ横にあるよ、と運転しながら教えてくれる。

 

 

香港メディアチームは「独立」を学問として研究している友知政樹教授の待つ部屋へ行った。友知教授は英語が流暢なので、私たちは終止英語で話した。教授は数理行動科学の博士号を持っていて、元々は経済学を教えていた。友知教授は沖縄の新聞を開き、2つの世論調査の結果を見せてくれた。まず1つ目は、沖縄により「自己決定権」があるべきだと思うかどうかという問いに対する世論調査で、約80%があるべきだと答えている。2つ目は沖縄は独立するべきかという質問で、こちらに対しては賛成は10%以下しかない。「自己決定権」の拡大が「独立」だという見方をすると、この2つの世論調査の結果は矛盾している。そして「独立」について具体的に学んだことがある人とそうでない人の間では答えが異なり、学んだことがある人は独立した方が良いと答える割合が高くなる、つまり、私が言おうとしていることは、教育が大切だということです、と友知教授は言った。何かについて学び考えたことがあるか、それともないかが人間の意見形成に影響する。

 

 

友知教授の部屋の壁にはマルコムXの写真や膨大な独立に関する日本語や英語の本。スコットランド独立に関する住民投票があったときは友知教授自らスコットランドに足を運んだ。スコットランドには石油があるから経済的にも独立可能という説が強かったが、沖縄にも海のような石油と違って減らない観光資源があり、しかも地理的にもアジアの複数の巨大なマーケットに囲まれている。沖縄の経済全体を100とすると、基地経済の占める割合は約5%にまで落ちている。経済的な観点から言っても独立は夢ではないと教授は言う。友知教授の属している2013年に設立された琉球民族独立総合研究学会は、沖縄が日本の一部のままでは自己決定権のない植民地状態から脱却することができないという懸念から「琉球独立を具体的、客観的、国際的に議論し、研究成果を積み上げ、それを実践活動につなげて琉球の独立を実現すること」を目的とした学会。会員資格は琉球人(琉球民族)に限定されている。

 

 

友知教授から渡された資料には、沖縄の政治的地位の向上のために行われてきた活動が掲載されていた。例えば、沖縄選出の参議院議員の糸数慶子さんは琉球人として国連で4つのことを訴えた。「①琉球の民意の尊重②辺野古新基地計画の撤回と抗議する市民への弾圧停止③普天間基地の即時封鎖・撤去④高江ヘリパッド建設工事の即時中止と計画の撤回。」

 

 

国連は2008年に琉球民族を「先住民族」として認めている。国連にとって「先住民族」という言葉は「国連憲章や市民および政治的権利に関する国際規約および経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約の共通第1条において自己決定権を有する人民」という意味。日本政府は琉球民族を「先住民族」と認めていないが、アメリカと中国は琉球民族を独自の歴史、文化、制度、言葉、風習などを持つ「先住民族」として認識されている。国連は2008年に日本政府に対して「琉球民族を国内立法下において先住民と公的に認め、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告を行っている。

 

 

1879年に日本政府が琉球王朝を武力をもって併合した「琉球処分」のあたりまで遡ると、琉球国はそれ以前は主体的に米国、フランス、オランダと修好条約を結んでいた独立した国で、国際法上琉球は日本の一部ではなかったという歴史的事実にいきつく。明治政府の警察や軍隊が首里城を囲み「沖縄県」設置への同意を尚泰王に迫った日本政府の行為は「国の代表者への強制」にあたり、国際法上は不正な併合だったという見方がある。1980年に発効され、81年に日本が加入したウィーン条約法条約の51条は、国の代表者への脅迫や強制行為の結果結ばれた条約や合意は無効と規定している。

 

 

友知教授との対話の中で、香港のTVプロデューサーのギリアンは沖縄・琉球の「独立」についてはいまいち腑に落ちていない様子だった。そんなに軍事基地がイヤならば、沖縄を離れればいいのではないですか?と彼女は友知教授に聞いた。沖縄は我々の土地で、出てゆくべきなのは私たちではない、と教授は答えた。もし独立して米軍基地が無くなったら、地理的に重要な場所に位置している沖縄は中国に侵略されるとは思わないんですか?と彼女が聞くと、歴史的な観点から見れば、琉球・沖縄は日本とアメリカに侵略されたことはあっても、中国から侵略されたことはない、と教授は答えた。だけど中国は変わりました、と彼女は言った。中国においての民主化運動は武力で弾圧された。1989年。天安門事件。中国共産党は軍を使って民主化を求めてデモをしていた自国の学生や一般市民を殺した。

 

 

一通り話が終わったあと、香港メディアのファニーが、教授は経済学を専門にされていたのになぜ今は独立のことに取り組んでいるのですか?と聞くと、なぜなら僕は怒っているからです、と教授は短く答えた。

 

 

沖縄国際大学のバルコニーから夕日に照らされる普天間飛行場を眺めると、24機のオスプレイはどこかに出払っていた。米軍のヘリが沖縄国際大学に落ちた現場と、保存されている壊れた建物の壁を見た後、私たちはタクシーに乗り込み那覇へ戻った。飛行場を大学や普通の建物からこれだけ近いところにつくるのは違法なので、普天間は法的には「飛行場」ではなく「施設」とされているらしい。アメリカの国内の基準AICUZに照らし合わせても普天間は安全基準をクリアしていない。タクシーの中で「台湾や沖縄は島だけど、香港は中国と陸続きだし、香港が中国から独立するのは不可能だわ…」とギリアンは言った。

 

 

那覇に戻った後、私たちは2013年の参院選に立候補し、17万票以上を獲って落選したミュージシャン三宅洋平さんを訪問した。彼の新しい「アジト」に行くと、三宅さんは自身が2011年の原発事故後に沖縄に移住してから始めた野外音楽フェス「残波JAM」のアーティストのブッキングをしていた。香港メディアの質問に三宅さんは英語で答えた。東アジアにおいて平和協定をつくる必要性や、地球温暖化の問題に大いに関心を持っていることや、日本という国に対して持っている複雑な感情などについて話した後、ファニーに歌をリクエストされ、三宅さんは311の後に書いた”Gypsy Song”を選んだ。311の地震の後すぐに東京を離れる判断をし、デマを流してみんなの不安を掻き立てていると友人に非難されたことや、放射能について話すことが当時とても困難だったことを香港の3人に語った。三宅さんはジプシーになることを恐れるな、縛られずに自由に生きろというメッセージを込めてこの曲を書いた。三宅さんはカメラを見て言葉を放った。「僕は沖縄に住み、毎日毎日世界平和協定ができるように祈っています。それはすごく難しいことに聞こえるかもしれない。だけど僕は実はそれはとても簡単なことだと思っている。『革命』と言うととてつもなく大きなことのように聞こえるかもしれない。だけど僕らにはそんな大袈裟で巨大なキャンペーンはいらない。僕らが普通の人間として、普通に生活したいと願ったならば、誰が戦争なんてしたがるだろうか?誰が原発なんて欲しがるだろうか?」そう言って三宅さんは歌い始めた。

 

 

歌い終わった後、やっぱり音楽がないと駄目だな、と彼は言った。翌日には緑の党の総会に出る為に東京に行くと三宅さんは言っていた。

 

 

 

 

7月24日、香港メディアチームは早朝から辺野古新基地反対の抗議行動の続いている辺野古へ行き、戦争経験のある90代のおじいさんの取材をした。そのおじいさんは今は歩くことができない。おじいさんは足の傷を見せるときに、自分のオムツの姿をさらした。ギリアンは、2度と会うことのないかもしれない初対面のおじいさんが、戦争を語るためとはいえメディアにそんな姿を見せることや、自分が彼の取材をすることで何かしらの期待をさせてしまうような気がして心苦しくもあると言った。

 

 

辺野古での取材の後に、嘉手納にある沖縄防衛局でのデモの取材をした。炎天下で約360人の参加者たちは手を繋いでヒューマンチェーンをつくって防衛局の建物を囲み、ウェーブをしたり、スピーチをしたり、歌を歌ったりした。

 

 

「どこの軍隊も無差別殺人。生活・自然をこわす戦争は国によるテロ。絶対やってはいかん。

日米の占領軍へ。琉球の土地・人権・自治を返して。」と書かれた黄色い旗に、「反戦平和」と書かれた赤いハチマキをした64歳の看護婦の池原順子さんは、琉球は薩摩に侵略されたままで、沖縄防衛局は、「防衛局」ではなくて「占領局」だと言った。日本は沖縄をアメリカに提供していて、沖縄は日米安保の鎖に縛られている。鎖を解いて出て行って欲しいと彼女は言った。

 

 

池原さんの父は10代のときに長崎市の三菱の造船所で働いていて、敗戦直前の1945年8月9日に長崎市には原子爆弾が落ちた。造船所は原爆の爆心地から近いところにあったけれど、原爆が落ちたときは彼は船の底で作業をしていたから無傷だった。だけどそれから半年そこで生活をしていたので間接被爆をした。彼女は父親の被爆手帳見たことがある。彼は長崎から沖縄に帰ってきてからは個人タクシーの運転手をしていた。

 

 

嘉手納において、アジアの非暴力・非戦・非核の組織をつくってほしいと彼女は言った。ナイチンゲールは敵味方区別せずに治療をしたけれど、私は殺し合いをさせないナイチンゲールになりたいと看護婦の池原さんは言った。

 

 

23歳の仁尾淳史さんは、今年の1月からずっと沖縄で抗議行動の現場をツイキャスで生中継している。(https://twitter.com/atsushi_mic)この日の防衛局での抗議行動は彼のツイキャス中継を通じて800人近い人の目に触れた。生の映像が見れること、起きていることが人々の目に触れることが重要と彼は言った。ツイキャスを見て現場に来てくれる人もいる。今の安倍政権が「おかしい」ことは支持率が示していて、安倍政権は国民に対するクーデターをやっていると彼は言った。

 

 

防衛局の前で普久原恒勇さんの「優しい心を武器にして」を歌い上げた49歳の泰真実さんが初めて抗議行動に参加したのは、2012年に市民が普天間基地を封鎖したときだった。市民が普天間を取り囲んだとき、アメリカ軍の兵士が腰の銃に手を当てて威嚇しながら歩いてきた。彼がそのアメリカ人の目を見た時に、その軍人の目は彼には人殺しの目のように見えた。それから心配になって彼は抗議行動に参加するようになった。

 

 

何かあると基地の周りは変化すると泰さんは言う。911があったときは、厳戒態勢が敷かれて基地に近づくことができなかった。その秋には観光客が減って、装甲車の色がモスグリーンから中東使用にするためか砂漠色に変わったりしていた。泰さんは病院で働いていて、患者さんから沖縄戦のときに肉親同士が殺し合った集団死の話など、戦争体験を遺言としてたくされることもある。泰さんは今年の1月半ばにキャンプシュワブに新基地建設のための資材が運び込まれ始めてから辺野古を離れられず、テント村で寝泊まりをすることも多い。

 

 

昼食に沖縄ソバを食べた後、嘉手納基地が眺められる「道の駅かでな」に行き撮影。観光客や大きなカメラを持って何かを待っている人たちがいる。

 

 

埋め立てが予定されている大浦湾のある名護市まで運転してくれたタクシーの運転手さんは60歳で、長山さんという名前だった。運転しながら本島の北部に差し掛かると、しきりに緑や海が綺麗だから撮影するといいと勧める。大浦湾が一望できる丘に着くと、長山さんも一緒に高台に登った。台風が近づいているからか、大浦湾にはオレンジ色のフロートがあるだけで、フェリーも海上保安庁もいなかった。カメラマンのビリーは静かな大浦湾を撮影する。日米両政府の計画が進めば、海は埋め立てられ、V字型の2本の滑走路が出来る。辺野古新基地は、ベトナム戦争時代からあった計画で、戦争が泥沼化して軍事費がかさんで当時は計画を遂行できなかったので大浦湾は生き延びた。

 

 

ベトナム戦争の頃は、米兵がかわいそうだったな、と長山さんは言った。米兵の死体を綺麗に掃除して氷詰めにしてアメリカに送り返すバイトがあって、日給が$20だった。新車が$1000で買える。そのバイトをした長山さんの友人は3日でそのバイトを辞めた。

 

 

私たちは名護湾のすぐ側のホテルにチェックインした。夕食に出かけると、夏休みに入っているからか居酒屋は混んでいて、ビーチに行くと波が死んだ珊瑚の浜にあたってキラキラと音がした。

 

 

 

 

7月25日。台風接近の影響で強い風が吹く中、うるま市石川へ。「沖縄のいろんなことについて『ゆんたく』(おしゃべり)の場や機会をつくっていく、沖縄の学生有志団体『ゆんたくるー』」の玉城愛さん(20)の取材。彼女の出身校は宮森小学校といって、1959年にアメリカ軍のジェット機が墜落して大惨事になった小学校。学校には「仲よし地蔵」と「平和の鐘の塔」があり、生徒達の手形の焼き物でできた低い壁に「平和の鐘の塔」は囲まれている。当時小学5年生だった玉城さんの手形も残っている。「仲よし地蔵」には犠牲になった方々の名前と事件の概要が書かれている。

 

 

「1959年(昭和34年)6月30日午前10時40分、嘉手納基地所属のF100ジェット戦闘機が2時限目終了後の楽しいミルク給食時間に、ここ宮森小学校に墜落、死者は小学生11名、一般の人6名、合計17名。重軽傷者220名余、住宅27棟、公民館一棟、3教室を全焼、住宅8棟、2教室を半焼させた。10時36分に整備終了後のテスト飛行で嘉手納基地を飛び立った飛行機は、一旦東シナ海へ向かうが真栄田岬上空でエンジン異常が発生。パイロットは嘉手納に引き返そうとするが、太平洋に向かえとの指示に従い、具志川上空でパラシュートで脱出救助、無人の飛行機はくしくも石川に向かうことになる。わずか4分間の飛行であった。沖縄においては第二次大戦後の基地災害では最も大きい事故で、世界の航空史上、まれな大惨事として国内外に大きく報道された。」

 

 

悲惨だ。

 

 

この土曜日には野球少年たちが試合をしに宮森小学校に来ていた。ユニフォームを着た体格がバラバラでまだ声変わりのしていない地元の野球少年たちはジェット機事故のことを知っていた。野球少年たちは手形に自分たちの手を当てて遊び始める。

 

 

玉城さんによると、宮森小学校の子ども達は4月に入学して、ジェット機墜落事故のあった6月30日、つまり1学期のうちに式典があり、写真展も開かれるので、みな学校の悲しい歴史について学ぶ。2年生と6年生の犠牲者が多かった。「ひまわり」という映画では630のジェット機墜落事故がストーリーになっていて、能年玲奈さんが出演している。

 

 

彼女は大学生になってからは夏休みと春休みには「小さい島」から出るようにしている。沖縄で社会問題を考えるのと、県外に出て社会問題を考えるのは違うのでおもしろいと彼女は言う。この夏休みには福島に行く予定。

 

 

玉城さんのおじいさんは2人とも戦争に行った。今帰仁村に住んでいる大正11年生まれのおじいちゃんは激戦地の1つになった伊江島に戦いに行った。今はおじいちゃんはボケはじめていて、パズルみたいに言葉をしゃべるから、彼女は注意深く話を聞き逃さないようにしながら、おじいさんの記憶のピースを組み立てる。

 

 

お父さんが釣り好きだから辺野古のあたりを通ったことはあったけど、抗議することには偏見があったので、実際に足を運んだことはそれまでなかったけれど、去年の9月の終わりくらいから辺野古に行き始めた。9月半ばに辺野古で県民集会があって、彼女は学生代表でスピーチをした。彼女が違和感を覚えるのは、ゲート前で時々米兵に対して「ゴーホーム」とか、「ファックユー」とか汚い言葉が飛び交うことだった。だけど人権も憲法も適用されずに、女性が米兵から何かされても基地に入ったらもうわかんなかったとか、アメリカ人の犯罪がゼロに戻ってしまう社会に生きてきた人たちの歴史を辿ったら、抗議してる年配の人たちの気持ちも彼女にはわかった。

 

 

「ゆたくるー」には「リーダー」はいないけれど、「最終決定者」がいる。玉城さんは「最終決定者」の1人。彼らは沖縄でも日本本土の学生と連携した抗議団体をつくろうかとも考えている。SEALDs琉球とか、今みんなで考えているところ。

 

 

玉城さんの同世代が沖縄でも本土でも安保や辺野古に反対する行動をしていて、沖縄出身者としてどんな気持ちで行動していて何を目指しているのか?と玉城さんに聞くと、「(『ゆんたくるー」自体は賛成・反対を表明していないけれど)私自身は反対の意思を社会へ示していますし、沖縄に漂っている、政府に背く社会的発言=異質的、という雰囲気を変えたいって考えています。米軍基地も安保法案も戦争に繋がる一歩になってしまう。私は、日本は敗戦を迎えて70年経った今、なにを学んだのか、どの様な被害を受けたのか、ニホンジンは考えなければならないと思います。仲良しの国が攻められた、という例を出す人がいますが、攻められない工夫、外交を考えるべきであるとも考えています。ただ、戦争しなくないんです。人の命を奪いたくない、人に命を奪われたくない、奪う手伝いをしないという気持ちが強いです。沖縄は日本の中でもテロに狙われやすい場所だと思うし、米軍基地を抱えている沖縄に住んでいるからこそ危機感があります。学んだり聞いたりすればするほど危機感がたかまっていきます」と彼女は答えた。

 

 

取材が終わった後、玉城さんは私たちを地元のビーチカフェに連れていってくれた。海はエメラルドグリーン色をしている。ウェイトレスのお姉さんが「愛ちゃん何してるの?」と聞く。「宮森小学校を案内したり、取材を受けたりしていたんです」「あら愛ちゃんそんなことできる?」「うん、できます」と玉城さんは答える。「外人住宅」を改装したカフェで、冷たい飲み物を蓋付きのジャーに入れて出してくれる。食べ物は丁寧に調理されていてとてもおいしい。ランチを食べながら、今日は久しぶりに映画を見に行くかもしれません、と玉城さんは笑顔で言った。

 

 

 

 

沖縄を離れる夜、軍民両用の那覇空港から羽田に飛び立つと、街の灯りに縁取られて、沖縄本島の輪郭がはっきりと見えた。第二次大戦のとき、たくさんのアメリカ軍のパイロット達も同じ景色を見たのだろうと思った。小さな島だ。電気は那覇のあたりが一番明るい。人の営みのあるところは明るくて、森や米軍基地のところは真っ暗なので、夜の空からも街と基地を見分けることはとても容易だった。日本人の使っている電気の色は白い光、アメリカの施設の電気はオレンジ色をしている。

 

 

香港のメディアチームは8月半ばに今度は東京に取材にやってくる。日本の戦後70年の姿を求めて。

プロデュース :蜂谷翔子
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