皆さんがもつ横須賀のイメージはどんなモノがあるでしょうか?
私が住む横須賀には、美味しい魚や新鮮な野菜が手に入り、
たくさんの自然と歴史があります。
そしてたくさんの自然がある一方で米軍施設、自衛隊施設、
核燃料の製造工場、神奈川県の産業廃棄物の最終処分場など
いろんなものが混在しています。
すごく不思議で複雑な町です。だけど大好きな場所でもあります。
そんな横須賀の歴史を少しずつですが紐解いていきたいと思います。
まずは私もよくいく観音崎。
ここには雄大な自然と大きな歴史の跡が残されています。
観音崎は三浦半島の中央部 東京湾側に突出した岬です。
その為、東京湾防備の重要地点として、明治13年〜28年の間に
日本軍により観音崎各所にレンガとコンクリートによる15カ所の
近代的砲台が築かれました。
これらの砲台は日清日露戦争時代に活躍したものでその砲台の跡が
神奈川県立 観音崎公園敷地内に今も尚たくさん残っています。
観音崎公園は、昭和50年に完成した広さ70.4haを持つ
県下最大の公園で、東京湾を眺められる豊かな自然と共に日本で
最初の洋式灯台などがあります。また東京湾海上交通センターや
横須賀美術館などもこの公園の敷地内にあります。
この公園を含む観音崎一帯は、明治14年に要塞となり、砲台等が
築かれ戦争が終わる【昭和20年(1945年)8月15日】まで一般の人は
立入禁止でした。
そのため豊かな自然と砲台等の跡が今でも残されています。
横須賀美術館の裏手から入るとすぐに三軒家砲台跡地があります。
敷地内にいつくかある砲台跡の中でも、
この三軒家は砲台以外の弾薬庫など掩蔽部も原型に近い状態で
しっかりと残されています。
明治17年作られた北門第一砲台は日本最初の洋式砲台です。
同年に北門第二、第三、明治20年に南門第一、明治26年に
南門第二砲台が作られ、明治29年に三軒家砲台、大浦堡塁砲台
そして腰越堡塁砲台が作られました。
実際にこれらの砲台が直接戦争に使われたというわけではなく
あくまでも防備としての役割を果たしていたと言います。
神奈川県立 観音崎公園 パークコーディネーターをされてている砂川副所長の
お話も交えながら、一緒に観音崎の歴史の跡を覗いてみてください。