彼はある朝目覚めて、選挙に出るしかないと思った。何の変哲もない統一地方選挙が終わって間もない4月末の朝だった。彼は障がいのある子どもたちを預かる福祉施設の運営をしながら厚木市で生活している。昼間は子どもたちとボールを蹴って遊んだり勉強を教えたりして時間を過ごし、夜は友人とご飯を食べながら政治の話をするといった生活がここのところずっと続いていた。眠っている間に考えが整理されたせいか、その春の朝に前々から思っていたことが胸にこみ上げてきて、今が行動にうつす時だと彼の中で折り合いがついていた。
いつの間にか「普通」に働くことのできない若者や障がいのある子どもたちの将来の雇用をについて考えるようになり、今ある既存の社会の労働システムの中に彼らを押し込むことは答えではないし、お金だけ支給する福祉も間違っていると思った。前々から、障がいを持った人たちが月給10万円以上のお金を必ず稼げる施設をつくってやろうと思って彼は動いていた。当事者のことを理解した上で柔軟にクリエイティブに仕事をつくることが必要だと思った。まだ存在していないものをつくる必要がある。
高田まさのりは元々厚木という町がとても好きだった。厚木には大人数のアクティブな仲間がいて、10年前からずっと厚木でイベントをうっている。イベントをやるとき、地元のために「町おこし」をしているという意識がいつも彼らにはあった。イベントの中心はヒップホップ音楽で、彼らがイベントをうつと600人くらいの人たちが遊びにきた。イベントで出た収益を使ってデザイン性の高いTシャツや帽子をつくって配ったり、BBQを開いたりして、収益は全てイベントに来てくれる人たちに還元した。一生懸命つくったものを全部無料で配って、自分たちはチュッパチャップス1本も買わなかった。たくさんの人たちがやってきて厚木で時間を過ごした。彼はいつか市から声がかかるだろうと思っていた。若者達の声を市政に届けてくれないか。だけどそんな声は掛らなかった。
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高田まさのりは1987年に生まれ、3人の姉をもつ末っ子として育った。彼は引っ込み思案でなかなか友達をうまくつくることができなかった。初めて友達ができたのは小学4年生のときで、同じクラスにいた同じ名前の男の子が彼に話しかけた。同じ名前だから仲良くしようと彼は言った。内気な高田まさのりと対照的にもう1人のまさのりは活発で人気があった。高田まさのりは最初は余計なお世話だと思っていたけれど、結果的に彼のおかげで学校生活に馴染むことができた。彼は何かあると必ず高田まさのりに声をかけて、いろんな場面で彼を仲間に入れた。
ヒップホップを聴き始めたのは中学時代で、アメリカのAtomosphereみたいなアーティストの曲を好んで聴いた。音楽は大きくて混沌とした世界に住んでいる彼にある種の基軸や視点を与えた。好きなアーティストがいれば、彼らがどんな場所でどんな境遇や条件の中で生きているのかを調べたり読んだりした。そして彼らがつくり世の中に送り出した音を聴いた。音には説得力があった。どんな音にどんな社会的な背景があるのか自分なりに理解していった。人々の苦労を知り、自分の置かれている境遇というのは他の多くの人々のそれと比べればずっと恵まれているもので、自分はまだまだだと思った。音楽が展開した世界と自分の生活や存在を重ねて、自分を鼓舞して向上させようとした。自分は音楽に救われたと感じることもよくあった。
音楽やダンスをしていた厚木の仲間の中からはメジャーデビューする仲間もいた。高田まさのりはオーガナイザーとして厚木でイベントをうち続けた。大学時代はサークルにも入らずに、音楽とイベントと「町おこし」をした。
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2011年、3月11日に地震が起きたとき、彼は海老名という町の映画館で友人と2人でヒューマンドラマ系の映画を観ていた。プロジェクターが揺れて、観客がざわついた。数人の人たちが席から立ち上がり、男の人が「見えないじゃないか!」と叫んだ。するともっと大きな揺れがきて、人々が出口に向かって動き始めた。映画館には避難経路というものがあるはずなのに、そのうちの1つは塞がっていて、観客達は1つの出口に群がり、誰かが転んでけが人が出た。一緒にいた友人も焦っていた。彼はパニックになっても仕方ないし、できることもなかったので映画館の座席に座っていて、人が少なくなってきた頃に劇場から出た。
メルトダウンのニュースが入った後、彼はすぐに夜行バスに飛び乗って広島の友人のところに避難した。電車のダイヤが乱れていたので、動いている電車を乗り継いだり、徒歩で移動したりして、なんとか夜行バスのバス停に辿り着いた。友人は広島市内の原爆ドームの近くにあるアパートに住んでいて、彼は1ヶ月半そこで持ってきた仕事をしたり、行ったことのない宮島に行ってみたりした。
311についてどう思ったかというのはあまり上手く思い出せない。911のときに、2機目の飛行機がビルに突っ込んだ映像をテレビで見たときと似た印象を受けた。これも人災なんだな、と思った。避難先の広島市は311とは全然関係ないみたいだった。コンビニには煌々と灯りがついていて、「関東から来た」と言うと、「大変だったね」と人々は言った。あっさりとしたものだった。関東では物資が足りていないと聞いたので、彼はロウソクや水を買って厚木の仲間のところに送りまくった。
原発事故に関する情報が全く出てこなくて、情報の代わりに噂が飛び交った。何が本当なのか全くわからなかった。アメリカやコロンビアやスイスの友人たちから「大丈夫か?」とか「復興を祈る」というメッセージがFacebookで届いた。「大丈夫か?」と聞かれて、「テレビではただちに影響は無いって言ってるから大丈夫だって言ってるよ」とよくわからない返事を書いた。だけど本当に大丈夫なんだろうか?自分が何が起きているのか全くわかっていないという状況の中で、無知であるということは罪というか、無知であることは馬鹿なのかもしれないと思った。このまま何も知らないまま生きていくのか、それともこの先もっと知る努力をしながら生きていくのかという2択が頭の中に浮かんだ。
広島市から厚木市に戻ると、厚木の町の様子は全く変わっていなかった。全く変わらないということが強さなのか弱さなのかはわからないけれど、なんていう人の適応力の高さだろうと思った。放射能のことで活動をしている人も一部いたけれど、大多数の人たちは何事も無かったかのように、必死に生活していた。
仲間と会って、東北に寄付をするのかしないのか、東北に行くのか行かないのかという話をした。彼はしないことに決めた。東北に復興支援で行った仲間は、東北の様子は「すごいよ」と言っていた。その友人は瓦礫撤去の作業を最初はしていたけれど、そのまま東北でインフラ整備の仕事についてしまった。結局復興もお金儲けに繋げられてしまうのかと思った。自分が東北に行っても何も解決には繋がらないような気がした。
被災地という新しい空間ができて、そこに住めるのか住めないのか、食べ物が食べれるのか食べれないのか、そういうことをもっとはっきりさせる必要があるような気がした。わからないことが多いのに、政府は原発を再稼働させようとしていた。彼の中で不信感が募った。
311を経験して、情報は特定の場所にしか集まらないことに彼は気づいた。普通に何も考えずに生活をしていたら質のいい情報を得ることはできない。彼は311の後、情報を求めて日本政策学校というところに入った。そこを卒業した後は炉端政治塾で政治を学び始めた。炉端政治塾にはインスピレーションがあった。講師を呼んで話を聞いてみんなで議論をし、それから何かしらの行動を起こすという循環がそこにはあった。TPPに反対している女性は、北海道中の組合に声を掛けて集会を開いたりしていた。市議選に挑戦する人もいた。ある人が「TPPの違憲訴訟やりましょうよ!」というとそれが実現した。積極的に得た情報を元に考え、話し合い、行動に移す、そういう場所だった。
彼はやはり障がい者の雇用づくりがしたかった。10年間厚木で「町おこし」をやってきて、自分にしかできないことが絶対にあるという確信があった。なぜ自分にしかできないのか?それは世代的センスの問題であり、リアリティーの認知能力の問題であり、現場を知っている人間の感情であり、また個人的な視点や感性や生き方の問題でもあった。自分に特に人と比べて突出した能力があると思ったことは無かったけれど、厚木で自分がやりたいと感じていることは、自分にしかできない。
2011年の選挙のときに候補者について調べてもみたけれど、その時は自分が1票を投じたいと思える人を見つけることはできなかった。20代の声を汲み取ったりとか、福祉のことを真剣に考えてくれる人は、彼には見つけることができなかった。自分がやりたいと思っていることを実現するには、自分がやるしかないんだと思った。
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彼が小学校時代に初めてつくった友人のまさのりは、大学時代に精神を病んで大学を中退した。それから友人は仕事をすることも、友人関係をつくって普通に社会生活を送ることもできなくなった。友人は仕事をすごくやりたがっていた。いろいろと試してもいた。だけど彼はそれをすることができない。一緒に時間を過ごすために彼を無理して連れてきた時は、彼は30分くらい箸を持ったまま静止していた。友人は高田まさのりの運営する福祉施設にきて仕事を少し手伝ってくれたこともあった。だけど彼にはもう「普通」の人と同じように継続的に仕事をすることができなくなっていた。今友人は週に何回かデイサービスに通い、仕事はせず、外には出歩かず、親と一緒に住んでいる。
今の社会には「普通」の人と同じように生活をすることが困難な人が世の中にたくさんいるという認識も足りないし、認識がないから受け皿もあまりない、そして様々な人間を内包することのできる柔軟で人間的な福祉システムが存在していない。当事者不在でトップダウンで福祉政策を進めると、結局当事者は社会からどんどん孤立して、今でも弱い立場が更に弱くなってしまう。彼はお金を支給したりするだけのネガティブな福祉ではなくて、もっと人を根源的に生かすことのできる福祉を模索して実現したい。今の現状ではできないことが多すぎる。
高田まさのりは、自分は営利目的に物事を考えるビジネスマンにはなれないと思う。思考回路や優先順位が異なる。人間はみんな違った考え方をする。教育は頭を一定レベルまで上げて、形を揃えて刈り込んで押し込むみたいな機械的な作業ではないと彼は思う。その人の持っている「なにか」をなんとか見つけだして、その「なにか」引き出して、発育させる作業をしたい。
彼は行動に移った。
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インタビュー/執筆:蜂谷翔子
ドキュメンタリー/LLOYDFILM