2015/06/26 政治
【現地ルポ】2015年の沖縄戦終結・海兵隊、日米両政府、そして沖縄

2015年6月21日の夕方、沖縄本島の南部の那覇から中部の金武町に向かっている途中に雨がやんだ。二重の虹のアーチが空に架かっていた。日曜日の夕方に、キャンプハンセンと隣接している金武町を若い2人の海兵隊員たちは歩いていた。

 

 

「ハロー。調子はどうですか?アメリカの海兵隊員にインタビューしてるんですけど、インタビューさせてくれませんか?」

 

 

「どんなことが聞きたいの?」

 

 

「外国にいてどんなことを感じるのかとか。沖縄についてどう思うかとか。沖縄にいる気分はどう?」

 

 

「…最高だよ」と言ってサングラスをかけた21歳の海兵隊の男の子は笑った。

 

 

「だけど僕個人の意見が海兵隊全体の意見と取られると困るから、インタビューには答えられないよ。」

 

 

「個人的な感想でいいんですけど。2人はどこ出身なの?カリフォルニア?」

 

 

「違うよ。」

 

 

「ノース・キャロライナ?」

 

 

「…ノース・キャロライナの基地にいたことはあるよ。」

 

 

「沖縄で昔どんなことがあったかは知ってる?沖縄戦のこととか、ベトナム戦争のこととか。」

 

 

「知ってはいるよ。詳しくは知らないけど。…1つ聞かせて欲しいんだけど、君は海兵隊がここにいることに賛成なの反対なの?」

 

 

少し考えた。だけど別に彼らとディベートをしに来たわけではない。彼らがアメリカが中東でやってることとかについてどう思っているのか、わりにカジュアルに聞きたかっただけだ。

 

 

「僕らはいい人間だ。海兵隊は悪いことをしにここに来ているわけじゃないんだ。」

 

 

「沖縄の他にも海兵隊員として外国に行ったことはある?」

 

 

「アフガニスタンに9ヶ月いたよ。」

 

 

「中東では空爆とかをしてるけど、怖くないの?」

 

 

「行く前にナーヴァスな気持ちになりはするけど、実際に行ってしまうとなんてことないよ。慣れるんだ。だから怖くはないよ。」

 

 

「アフガニスタンではどんなことをしてたの?」

 

 

「…色んなことだよ」

 

 

パチンコ屋の外に4人の金武町の地元の人たちが並んで座っていた。海兵隊員にインタビューしに来たと言うと、あいつらはみんな若くて頭がバカで何にもわかってないから、偉い人に聞かないと駄目だよ、と彼らは口を揃えて言った。俺は金武町のヒッピーだ、とサングラスをかけたおじさんが言った。あの角にいるピンクのシャツの人に聞いてみな。何でも知ってるから、と彼らは声を揃えて言った。

 

 

ピンクのシャツの人に話しかけると、彼は自分はスペイン人だと言った。インタビューしたいと言うと、駄目だよ駄目駄目、と彼は言った。みんな平和が好きさ。だけど戦争は止められない。私たちは第3次世界大戦の目前まで来ているよ。彼はそう言って右手を顔の前に持ってきて、親指と人差し指をギリギリまで近づけながら、もうあとほんの少しさ、と言った。俺はこういう頭のおかしいことを言うから、インタビューなんか受けたくないんだよ、と彼は笑った。

 

 

町中を離れて港に行くと、地元の人に混じって海兵隊員が1人で釣りをしていた。

 

 

「何を捕まえてるの?」と聞くと「なんでもないよ」と彼は答えた。2本の釣り竿が海に向かっている。近い海は透き通っていた。遠くの海を見ると平安座島と宮城島の間の海を埋め立ててつくった沖縄石油基地株式会社の白い石油コンビナートがポコポコと並んでいるのが見えた。

 

 

 

 

2015年6月22日、沖縄のことが勉強したいとお願いして、慰霊の日の前日に、1943年戦時中に生まれた沖縄の建築家の真喜志好一さんの事務所を訪ねた。

 

 

真喜志さんは、カリフォルニア州のミラマー海兵隊航空基地に行ったときに得た、アメリカ合衆国海軍省のAICUZというプログラムについての書類を見せてくれた。書類の日付は1988年4月11日。

 

 

書類には海軍省が定めたアメリカ軍のルールがタイプされ、プログラムのできた経緯や目的、適用対象などが明記されていた。

 

 

AICUZプログラムは軍と軍所在地の地元のコミュニティーが健全に共存するための土地使用のガイドラインで、公衆衛生と安全を守ること、また民間人の侵入によって軍用航空設備のオペレーション能力を低下させないことを目的としてつくられた。軍用航空設備のオペレーションによって発生する騒音のレベル、事故の可能性、フライト許可を考慮し、近隣住民と軍施設が相互に許容することができる土地の使い方を推奨している。AICUZプログラムは、不適切な軍事基地開発や隣接する私有地での不法侵入が多発するようになったために必要となった。

 

 

AICUZの推奨するルールはアメリカ合衆国の国境線内、領土、委託された土地、所有している土地に適用される。また合衆国の海外での活動において、受入国が、合衆国のオペレーション能力と、基地施設のプランニングゴールを保護するためにAICUZプログラムの活動をサポートする場合は、AICUZは海外でも適用されるべきであるとされている。

 

 

アメリカ海軍省の作成した書類にはそうタイプされていた。真喜志さんはゆっくりと事実に軸を置きながら話した。

 

 

彼が見せてくれた普天間基地の航空写真を見ると、AICUZプログラムが定める安全基準を普天間飛行場がクリアしていないことがわかる。住宅、学校、病院、集会場などがあってはいけないとされるCLEAR ZONE(利用禁止区域)とAPZ(事故危険区域)に、宜野湾市の人々の生活の営みがあるのが見えた。

 

 

1945年6月、アメリカ合衆国は沖縄県中部にある宜野湾市の人々が収容所に入っている間に、ブルドーザーで人々の畑や住宅や学校や町役場を壊して飛行場をつくるために整地をし、12月に普天間基地が完成した。

 

 

2006年11月1日に宜野湾市長だった伊波洋一さんが、普天間飛行場の安全不適格宣言を行った。2008年9月24日には照屋寛徳議員が、2012年4月17日には糸数慶子議員がAICUZの安全基準の普天間基地への適用について、日本政府に文書による質問をした。質問内容はこのようなものだった。

 

 

①米軍は飛行場の安全基準(AICUZプログラム)を作成していることを承知か

②この基準を普天間に適用するとどうなるか

 

 

2008年10月3日に、麻生太郎総理大臣は「ご指摘の『AICUZプログラム』については、米側が作成し、運用しているものであることから、お尋ねについては、政府としてお答えする立場にない」と答えた。2012年4月27日には、野田佳彦総理大臣が「概念の存在は承知しているが、これらは米国政府が作成した文書における概念であり、その他のお尋ねについて、政府としてお答えする立場にない」と答えた。

 

 

一方で米軍はオスプレイ配備にあたって2012年4月に行った「環境レビュー2012.04」でクリアゾーンを認識している。

 

 

次に真喜志さんは辺野古新基地に関する歴史的経緯を話した。辺野古の新基地計画はベトナム戦争中、沖縄が日本に復帰する前の1966年に構想されたもので、辺野古は元々普天間の代替基地として構想されたものではなかった。辺野古基地は構想されたものの、アメリカは泥沼化したベトナム戦争での軍事費がかさみ、辺野古新基地計画が実現することはなかった。そして1997年に日米両政府は普天間の危険性を除去する為に、代替基地として辺野古に移設するいうレトリックをつくり、沖縄の世論を普天間反対/辺野古賛成派と辺野古反対派に分断した。その計画が今日まで続いていて、強引に建設工事を進めている安倍政権に沖縄県民は強く反対している。2014年11月の沖縄県知事選挙では、辺野古新基地建設反対派の翁長さんが、推進派の仲井真さんに10万票以上の差をつけて当選した。選挙で民意が出た後も、安部政権は沖縄の民意を無視して新基地建設を進めようとしている。

 

 

資料の写真を撮り、真喜志さんの事務所を後にする。とても蒸し暑い。資料を少し眺めた後、沖縄都市モノレール「ゆいレール」に乗って那覇空港の近くまで行き、タクシーで瀬長島に向かった。道は混んでいて時間がかかった。陸上自衛隊那覇訓練場のフェンスが左側に続いていた。フェンスの中にはピンク色の花を咲かせている木が並んでいた。

 

 

「あの木はなんていうんですか?」タクシーの運転手さんに聞いた。

 

 

「キョウチクトウっていう木だよ。アメリカが持ってきた木みたいで、基地の周りによく咲いてるよ。1年に2回くらい咲いてるな」と運転手さんは言った。

 

 

ラジオでは沖縄戦のことが流れていた。聞きたかったのでラジオの音少し上げて下さい、と運転手さんに頼んだ。

 

 

瀬長島は小さな島で、丘の上にホテルが建っていて、レストランや温泉があり、猫たちが気持ち良さそうに生活している。瀬長島は昔カーセックスのメッカだったと友人が言っていた。丘からは海と、那覇空港の第一滑走路と、海を埋め立てて建設中の那覇空港の第二滑走路が見える。第二滑走路にも反対したけど、体は1つしかないから辺野古に集中しているんです、と真喜志さんは言った。沖縄の人たちは日本軍にも殺されたわけですから、自衛隊にもやはり反対なんですか?と聞くと、彼らは鉄砲を持って一体何をしようとしているんだ、と彼は言った。

 

 

丘から次々と全日空やマレーシア航空の旅客機と自衛隊の航空機が飛び立ってゆくのを眺めた。那覇空港は軍民共用で、有事法があるので有事のときには軍用として機能する。今は滑走路が1本しかないので混雑している。

 

 

「那覇空港では1985年5月、着陸直後の全日空ジャンボ機に、離陸しようと滑走路に進入した自衛隊機が接触、全日空機のエンジン下部がもぎ取られる事故が起きている。幸いけが人はなかったが、一歩間違えば大惨事を引き起こすところだった。

2005年5月には、着陸しようと降下した全日空機が、滑走路上にとどまっていた自衛隊機のせいで直前に上昇し着陸のやり直しを余儀なくされた。

同年9月には、自衛隊機の左主脚タイヤがパンク。約50分間滑走路が閉鎖され、民間機の運航に著しい迷惑を及ぼした。」

と那覇空港について2008年7月30日に琉球新報が社説で伝えている。

夕日が落ち、温泉に入って、戦争のことを語るラジオがかかっているタクシーに乗って那覇市内に戻った。

2015年6月23日、70年前に沖縄戦が終わった日。慰霊の日。沖縄県では小学校、中学校、高校はお休みになっている。会社も休みのところもあるらしい。今年も平和祈念公園で沖縄県と県議会が主催の全戦没者追悼式が行われた。平和祈念公園に向かう車の中から遠くに積乱雲が見え、歩いて公園に向かう様々な地域からやってきた沖縄戦の遺族の会の人々の長い列が見えた。

平和祈念公園入り口では、市民が「『辺野古新基地建設』断念せよ!『安保法制』廃案!安部首相は『慰霊の日』参加資格なし」と書かれた横断幕を広げ、マイクを持ってスピーチをしていた。水色の制服の沖縄県警の若い警察官達が警備にあたっていた。警察官が200人くらいはいるように見え、市民をかなり警戒している。抗議活動に参加している人が横断歩道を渡ろうとすると、4、5人の警察官が彼らの体を掴んで囲む。苛立ちを隠せない市民の男性は駆け出す。”HENOKO BLUE” とプリントされたTシャツを着ている。何人もの警察官が彼を追いかけ、体を押さえつける。マイクや拡声器を持った市民の人たちを、柵の後ろに力づくに押し込む。そんなことが長い時間続いていた。

「あなたたち若い人が戦争に行かなくていいようにやっているんですよ!」と女性が若い警察官達に向かって叫んだ。

毎年こんな感じなんですか?と地元メディアの男の子に聞くと、毎年こんな感じですよ。だけど、今年は戦後70年の節目で辺野古のこともあるので、去年よりも少し激しいですね、と彼は言った。

沖縄タイムスと琉球新報が慰霊の日の号外を配っていた。まるで昨日沖縄戦が終わったみたいだった。12時に黙祷があり、平和祈念公園に集まった人々が1分間戦没者への祈りを捧げた。

日本本土から安部総理と政府関係者、翁長知事と沖縄の政治家、キャロライン・ケネディー駐日米大使、様々な立場の人々が式典に出席した。キャロライン・ケネディー駐日大使が静かに献花した。安部総理が戦没者追悼のスピーチをしていると怒号やヤジが飛んだ。カシャカシャと強弱や起伏を持ちながら鳴るマスコミの切るシャッター音は、どこか会場にいる人々の感情と呼応しているみたいだった。式典では1つ1つの言葉や人物にはっきりとした意味があった。

「国土面積の0.6%にすぎない本県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73.8%が集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や本県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再編に基づく普天間飛行場の辺野古への移設をはじめ、嘉手納飛行場より南の米軍基地の整理縮小がなされても、専用施設面積の全国に占める割合はわずか0.7%しか縮小されず、返還時期も含め、基地負担の軽減とはほど遠いものであります。沖縄の米軍基地問題は我が国の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべき重要な課題であります。特に、普天間飛行場の辺野古移設については、昨年の選挙で反対の民意が示されており、辺野古に新基地を建設することは困難であります。そもそも、私たち県民の思いとは全く別に、強制接収された世界一危険といわれる普天間飛行場の固定化は許されず、『その危険性除去のため辺野古に移設する』、『嫌なら沖縄が代替案を出しなさい』との考えは、到底県民には許容できるものではありません。国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎を築くことはできないのです」と翁長知事が「平和宣言」で述べると、大きな拍手が沸いた。

式典が終わった後、木陰で少し休んだ。体を少し休めないと暑さで倒れてしまいそうだった。いつの間にか両腕が日焼けで赤くなっている。

休憩した後、インタビューを始めた。最初にインタビューをした女性の名前は屋宜さんといった。沖縄出身、34歳。

慰霊の日を迎えるにあたってどんなお気持ちですか?

「3年連続くらい毎年来ています。毎年間に合ってないので、この式に間に合わなくて、今回は間に合ってきたんですけど…。なんですかね、いろんな問題があるんですけど、やっぱり辺野古基地の問題に関してなんですけど、基地撤退するっていう話で、それが結局辺野古に新基地をつくるっていうのはまた別の話で、結局基地は無くならないじゃないかって言いたいです。なんだろう、すごい…むかつきます。」

 

 

今年の慰霊の日はいつもと違いますか?

 

 

「年をとるにつれて、平和学習とかそういうので授業があったりして、関心を持つようになってったていうか、小学生の頃から、授業の一環で、平和の礎もそうですけど、ガマとかそういうところに体験しに行くっていうのが、毎年あるので、そういうのから関心を持つようになって。うちのお父さんが戦前生まれなんで、それで色々戦争体験みたいなのを聞かされるんですよ。お父さんの親からも色々聞いてたんで、うちの叔母のうちもやっぱり戦争での被害、被害というか弾の痕とか、仏壇に弾の痕があったりとか、今も残ってるんですけど。そういうの見たりしたらもうちょっと勉強したいなと思ってきて、おじーの兄弟で、ブーゲンビル島の戦いで亡くなった人がいるので、今日は、今日はというか、毎年1回は来て、花を手向けてはいるんですけど、ちょっと、もうちょっと、やっぱり、なんていうんですかね、沖縄の若い人たちがもうちょっと関心を持って、もうちょっと勉強してほしいなっていうか、関心をもってほしいなって思います今は。まだ関心持ってない人も多いと思うので、もうちょっと関心を持てば、もっと沖縄の未来が良くなるんじゃないかってすごい思います。基地に頼らずに自立した沖縄をつくりたいってすごい思うので。基地の中で働いてる人もいるし、その人達にとって基地が無くなったらけっこう困ると思うんですけど…」

 

 

そこまで言うと、彼女は泣き出してしまった。隣りにいた彼女の夫が、どうしたんだよ?と笑いながら彼女の肩を優しく叩いた。彼女の夫は熊本出身で、森内さんという名前。36歳。彼女と結婚するまで東京に住んでいた。

 

 

「僕は今年で移住して4年目なんです。結婚するにあたって移住したんですけど、それまでは旅行で来るから、基地問題とかいうのはあんまり、まぁ観光とかビーチぐらいしか行かなかったんですけど、移住してみて基地とか米兵っていうのが、密接に関わってきてる部分とか、米軍の人たちと関わる機会が多い。沖縄の人たちが思われている米軍の人たちっていうのは、多い部分が悪い部分だったりするんですけど、米軍の人たちのいい部分っていうのはあんまり取り上げられないから。関わってみると、全員が全員悪い人とはならなくて、実際いい人が多いけど、悪い人たちのことがピックアップされるのは米軍の人たちもかわいそうかなと思う。新しく基地をつくるっていうのは、平和を考えると矛盾してるかなって。あまりにも沖縄の人たちが抱えるリスクっていうのが高すぎると思います。東京に住んでいたので、子どもを育てるのも沖縄でって、地方でっていうのが強かったんですけど、実際住んでみるとなんか色々考えさせられますね、子どもを育てる上で。」

 

 

玉城さんという71歳の女性はこう言った。

 

 

「戦死したんですよ。私が3歳の時だから、父の顔は全然わからない。だから礎のところ、お参りに来たの。もう毎年来ていますよ。それしかできないから、お墓が無い。戦死してるから遺骨ないし。礎にしか名前載ってないから、礎にしかお参りできないの。毎年大体来てます。顔もわかんないし、全然面影ない。」

 

 

小瀬川さんという33歳の男性にマイクを向けると、彼が言葉の準備を心の中で整えている間に、彼の目が少しずつ潤んでゆくのが見えた。「自分らが戦争体験してる人たちじゃないんで、おじいちゃんおばちゃんからしか話は聞いたことないんですけど、やっぱり二度とあっては欲しくないかな…。何ができるかはちょっとわかんないんですけど。ちょっとでもこういう集まりとか参加したり、あとは自分が話できることは全部したのっていう、これから自分の子どもとか孫には伝えていきたいかなと思います。毎年やっぱ親とかおじいちゃんおばあちゃんと黙祷してってやってたんですけど、仕事してから火曜日しか休みがないので、こういう慰霊の日だったりっていうのはやっぱり仕事になっちゃって、今日はたまたまあたってたんで、もうこれは参加するしかないなと思って。戦争忘れたくないし、やっぱり繰り返さないようにしないといけないので、やっぱこれからもこういうことには敏感になって動いていきたいなと思ってます。近年特に心配っていう気持ちもあります。」

 

 

式典で歌を歌った合唱団のメンバーだった稲嶺さんという11歳の女の子は「戦争で亡くなった人たちのことを自分たちは知らないけど、平和ってとても大切なものなんだなって改めて思いました」と言った。

 

 

合唱団の指導をしていた小学校教諭の今井さんという48歳の男性は「今回子ども達がでることでやっぱり学校での、今回歌った子ども達以外からもかなり反響がありまして、とても注目されたなと。段々と沖縄でも戦争に関することが薄れていく中で、子ども達が出ることでまた家庭や地域で平和に関することとか沖縄戦に関することが話題に登るっていうことがまたとても大事なことなのかなと。やっぱり語り継いでいくっていうことが今後の課題ではありますので、そういう意味ではいい機会になったんじゃないかなと思います。私自身もやっぱりテレビや色んなところで沖縄戦だとか慰霊の日に関するテレビや新聞などを見て改めて考える機会になったのでとても良かったなと思っていますね」と答えた。

 

 

「毎年来てるんだけどね、ちょっと混んでね、12時が間に合わなくてね。追悼の言葉もね、はっきりね、おっしゃって、平和を願って、基地もなくしてこういう風にするって。拍手も沸いていたんですけど、これがまた拍手も大きくて、初めての県知事の挨拶としては自分たちも車の中で拍手しましたよ」と永山さんという79歳の男性は言った。

 

 

黒い服を着て母親と2人で来ていた東江さん(旧姓)という41歳の女性は、彼女自身の知っている物語を話した。「気持ちの切り替えができていない人もたくさんいらっしゃると思います。私が、もちろん復帰の後に生まれてるので、沖縄戦の実際はもちろんわかりませんが、父から聞かされた話は鮮明に覚えています。うん。父は10歳で沖縄戦を経験していまして、北部の激戦地だった伊江島出身なんですね。両親はもうすぐ麦の刈り入れ時だということで、子ども達だけ先に、やんばるに疎開させて、麦の刈り入れが終わったら必ず行くからということだったんですけど、伊江島でも戦闘が起こってしまって、その時にお母さんを亡くしたということでした。お母さんは壕の出入り口近くに座っていて、生き埋めになってってことを覚えています。何度もショベルカーで掘って探したけど、遺骨は見つかっていないという話とか、父の父、私の祖父は戦争は生き残ったんですが、その後の不発弾処理をする船が港で大爆発を起こしてしまって、そこで知り合いを迎えるということで港に行ってたことで爆弾事故で亡くなった。戦争を生き抜いた方も爆弾事故で亡くなったんだなということ。父の妹は収容所内で栄養失調で亡くなったという話を…」

 

 

サングラスをかけていたので目は見えなかったけれど、彼女の声が詰まって震えた。だけど彼女は止めずに話し続けた。

 

 

「そうですね、子どもの頃からよく聞かされてました。よく、今だったら私は、父はなんでこんなに酒飲むんだろうって思ってたけど、今だったら理解できます。戦争で両親を亡くして、高校受験に合格したけど、学費を出してくれる人がいなくて、高校進学を諦めた、ということと、やりたいことをやらずに青春時代を過ごしてしまったというのがあって、やはり酒に溺れてしまったのかな、と思います。酒を飲んで酔っぱらっていた時歌っていた歌が、ちょっとうろ覚えなんですけど、妹がお遊戯会か何かでちっちゃい時に踊った歌を酒を飲んで酔っぱらったら歌っていました。なので…70年って長いですけど、長く感じてない人もいっぱいいるのかなって思ってます。」

 

 

話し終わると、お母さんはいいの?と彼女は母親に尋ねた。私はいいのよ、という仕草をして、彼女の母親は穏やかに笑った。お菓子を持っていきなさいと言って、持っていた箱から3つお菓子取りだして私の手のひらに押し込んだ。

 

 

戦没者の名前が刻まれた平和の礎の周りを、太陽の熱と無数の死、今生きている人たちの透明な心、過去と未来と現在が混じって圧縮されたような濃密な時間が覆っていた。平和の礎の向こうには海が見えた。那覇市内の県庁まで出ている無料バスを待っている間に、サトウキビとピスタチオのアイスを買うとあっという間に溶けて、手がドロドロになった。バスに揺られて人々は眠っていた。ラジオでは「恋人のドン引きしたところ」と「慰霊の日」をテーマに女性パーソナリティーが明るい声でしゃべっていた。

 

プロデュース :蜂谷翔子
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