J-WAVE「JAM THE WORLD」が戦後70年をテーマに特集する特別企画〈Beyond 70+ いつまでも戦後であるために〉 。
この番組でナビゲーターをつとめる私は米軍基地問題と向き合い続けてきた沖縄の歴史を知るために、先日、元沖縄県知事の大田昌秀氏をはじめ沖縄戦を体験した方々の元を訪ねた。
大田さんは1925年生まれの90歳。
学徒兵として沖縄戦の戦場に駆り出され、およそ20万人もの人々が犠牲になったといわれる過酷な戦闘状況の中でなんとか生き残った。
戦後は、研究者として、そして政治家としてこの基地問題に関わり続けてきた。沖縄の米軍基地の歴史と内幕を一本のタイムラインで途切れることなく語ることができる数少ない人物だ。
「沖縄戦の場合は法律もないまま、法的な根拠もないまま全ての学校の10代の若い生徒たちが戦場に出されて、過半数が犠牲になったわけなんですよね。私たちはですね、銃1丁と120発の銃弾と、2個の手榴弾を持たされて、半袖半ズボンで戦場に出されたわけですよ」
普天間基地辺野古移設の問題を考えるには、戦前、戦中、戦後の歴史を紐解かなくては問題の本質はなかなか見えてこない。
読者の皆さんが歩むそれぞれのタイムラインとの接続をはかるため、まずは大田元県知事の証言をシェアしたい。