2015年4月25日にネパールでマグニチュード7.8の地震が発生。死者の数は日が経つにつれて増加し、2度目の大きな地震もあり、最初の地震から1ヶ月経った今ではネパールと近隣のインドや中国での死者の数が9000人近くになっている。ネパール国内外の政府やNGOやボランティアの連携による人道支援活動が続く最中、失われた様々なものを内包したまま表面的には新しいネパールの日常生活の風景が姿を見せ始めている。
5月5日、日本からネパール入りしたピースボート災害リリーフチームのサイモン・ロジャースとロビン・ルイス、南アジアを拠点に人道支援活動をしている日本のNGOシャプラニールのメンバーと共に車に乗り込み、首都カトマンズから北の方角にあるヌワコット郡に向かう。運転は地元のドライバー。前日の4日は1日カトマンズ市内を奔走して情報交換やミーティングを重ねた。5月5日は現地入りし、物資配給の前段階の現地調査が主な計画。
よく晴れているネパールの乾期の1日。道路には信号がほとんどなく、クラクションが常に鳴り響く。ところどころに倒壊した建物。バイクや人を満載した色鮮やかで埃っぽい3輪の車や中型のバス、SUZUKIと後方の窓に大きく書いてある白いタクシーや、エキゾチックなデザインが施してある大きなトラックが走っている。インフラへのダメージは比較的少なく、カトマンズ市内での物流に影響はそこまでなかったため、前日に行ったスーパーの棚にも生活物資は揃っていた。支援が必要なのは車の行くことが難しいエリアや、情報の少ないエリア、被害が大きいけれど遠いところ。ある外国の記事は、ネパールに住んでいるチベット難民たちは社会的に「透明」なので、彼らに支援の手が届くのかを懸念していた。人は「透明」になってしまうこともある。
ダイナミックな山道が多く、山の斜面にはたくさんの段々畑が見える。隣りに座っているおしゃべりの14歳のニシム・グルンはヌワコット郡に行くのは初めて。NHKが「ネパールの国民的バンド」と紹介した彼女の父親、「ネパッテ・バンド」のアムリット・グルンさんは5月5日にはチャリティーコンサートの為に日本に、そして母親は同じ車の中で支援活動のためにヌワコットに向かっている。
「ヌワコットに向かっているけどどんな気持ち?」ニシムに聞いた。
「初めてだからとても楽しみ。」
「ヌワコットでは何をするの?」
「困っている人たちを助けに行きます。」
「地震の後にどんなことを思った?」質問の度に、頭が切り替わって声や表情が少し変わる。
「地震が来たとき、今が全ての終わりなんだと思った。だけど私は生き残った。だから地震の後、自分が生きていることにとても驚いた。人の人生は不確かで、自然はもっと不確かなんだと思った。…なんか深いこと言っちゃった!」と言って彼女は笑った。
ニシムは4月25日に地震が起きたとき、カトマンズ市内の家のベッドの上でカサンドラ・クラレの「インファーナル・デヴァイス」の2巻を読んでいた。家が揺れ始めたとき、彼女は「地震だ!」と叫んで机の下に隠れた。最初の30秒の揺れがとても強かった。それからニシムは家の外に駆け出して、揺れが止まって我にかえると、小説だけが彼女の手に残っていた。
私たちを乗せた車は、店が並ぶ山間の休憩所にとまってしばし休憩。パラソルのついた白いテーブルに座り、紅茶やコーラやジュースを飲み、川魚の揚げ物や豆料理を食べる。テーブルの横で小さな子がバケツに入った皿を洗っている。店の子だろうか。ネパールの支援活動に入っているイギリス兵たちが店から出てきて横を通り過ぎる。地震が起きた後、普段は外国人が少ないネパールは、世界の軍人やNGOのライブ博物館のようになっている。
「ここでイギリス兵を見るなんて、なんかすごい変な感じ」とニシムが言った。
ヌワコット郡の郡庁所在地のビドゥールに到着して、色鮮やかなホテルにチェックインする。僕らが来た時は僕らがお金を払ってホテルの部屋に泊まって、宿主は余震が恐いからって言って外で寝てたよ、と地元のNGOの男の子が言って笑った。ホテルのすぐ横の建物は派手に倒壊していて、部屋の電気は使えたけれど水は出なかった。トイレも流れない。地震の前から地元で社会活動をしている現地のSWI(ソーシャル・ワーク・インスティテュート)のナマラジ・シルワルさんと顔合わせをして、支援活動の段取りを話し合い、さらに山の上の方にある村へ車で向かう。彼はヌワコット郡出身者。ナマラジさんのように地元のコミュニティーと信頼関係があって、村や人々のことをよく知っている人の力が無いと、外部から来たNGOが支援をしたいと思っても、なかなかうまく支援をすることができない。最悪の場合は準備や情報不足の状態で物資を不平等に配布することでコミュニティー内の人間関係を壊してしまったり、地元の人々に人道支援がネガティブな影響を残してしまうこともある。なのでSWIのナマラジさんは大活躍をする。
村に入ると、村のたくさんの大人と子どもが、村の様子を見にきた私たちと一緒に歩き回る。村には54世帯が暮らし、地震の後で屋内に住んでいるのは4人だけだと村の人は言った。まだテントをつくるための物資は届いていない。政府から1世帯2000ルピーを受け取っている。約2000円。この村の人たちはミジャールというカーストに属している。
スレンダーなクールビューティー、16歳のニータは、地震があってから学校に行けないと言った。政府は5月15日に学校再開とアナウンスをしていたけれど、壊れてしまって安全面から言って開校できない学校がネパール中にある。彼女は普段学校に1台しかないスクールバスに乗って、山の下の方の学校に通っている。彼女は中立的な目でずっとNGO達の現地調査の様子を見つめていた。
まだこの村に支援が決まっていないので、現地調査で質問をするときに、過剰に期待をさせてしまうような質問の仕方はよくないとサイモンは言っていた。何が足りていないのですか?と聞いても、それを配給する能力が支援側にないときもある。現状を把握するための適切は質問も難しい。
「今日は何を食べましたか?」とシェア・ザ・プラネットの筒井さんが聞く。それから次に「昨日は何を食べましたか?」と筒井さんはシンプルな質問をした。
「ダルバートというお米です」と自分の壊れた家の前に建っている男性が言った。家族は妻と2人の息子との4人家族。
「1ヶ月後、また元のように家に住めるかどうか、1ヶ月後のことを想像できますか?」と筒井さん。
「ダメダメ。まずは家を解体しないといけないから。一ヶ月後はとても住めないよ」と村の人。
「解体して1から全部建て直し?どのくらいかかるの?」とサイモン。
「人手があれば3ヶ月。人手があればね。」
私たちは村の様子を見て、聞き取りをしながら歩く。この村では地震の後に例年よりも湧き水の量が増えて、村の人たちは不思議がっているという。
「この村の壊れている家全部見たいの?」と村の子が英語で言った。
「うん、そうだね」と私は答える。
次に行った村は、昔はみんな靴職人だった。だけど今は靴をつくるのにお金がかかり過ぎて採算が合わないのでもうつくっていない。村から帰るときに、村の女性が地面に入った数本の地割れを指さして、それから山を指して、地面があっちの方からずっとこっちまで割れているんだよと教えてくれた。見てみるとたくさんのヒビが地面に入っていて、小さな蝶々がその上を舞っていた。
地震があったときに赤ちゃんを地面に落としてしまって、しばらく赤ちゃんの意識が無くなったけれど、今は元気になったという人。地震の時に、村を囲んでいる木々が大きく揺れているのを見て、自分の義理のお母さんが死んでしまうかもしれない!と自分の命のことよりもお母さんのことを考えたと話す人。マレーシアに出稼ぎに行っている息子が送ってくれたお金で家を建てたけれど、息子が帰って来る前に家が地震で壊れてしまったという人。家の壁に入ったヒビを見せてくれる人。村の人々は私たちに色々なことを語った。ロビンは聞き取りをし、彼らの言葉をメモし、写真を撮った。
物資として1番足りていないのは、ターポリンと呼ばれるテントの生地で、それはカトマンズ市内にいたときからわかっていた情報だった。家が全壊していなくても、余震を恐れて暮らすたくさんの人々がテント生活をしている。ターポリンが足りないことをわかっていてNGOが手に入れようとしても、テントの生地はどこに行っても手に入らなかった。ネパールには普段からあまり優秀とは言えない小さな国際空港が1つしかなくて、外から物資を供給するときのスピードは遅く、キャパシティーが低い。できることとできないことがある中で、丁寧できめの細かい支援をすることに現場の支援者達は集中する。3つの村での現地調査を終えた頃に日が落ちて、村の人が紅茶を出してくれる。ナマラジさんは、自分の結婚はインターカースト、異なる階級の女性との結婚だったんだと話している。「変わっているし、大変な結婚だったよ」と彼は言う。彼の奥さんもソーシャルワークの仕事をしている。みんな腰掛けて一息。その家の庭からは連なる山が見えて、虫の声が聞こえる。みんな長いモンスーンの季節、雨期が近づいていることを知っている。
車で山道を降りて、ビドゥールに戻る。壁がピンク色のレストランでみんなで明日の配布の打ち合わせと食事をする。レストランには他にもNGOの姿があった。打ち合わせと食事が終わったあと、近くのエメラルドグリーンのホテルまで歩きで戻る。静かな瓦礫の影が見え、ネパール版コカコーラの宣伝看板が見える。髪の長い女の人が気持ち良さそうにコーラを飲んでいる。エメラルドグリーンの部屋でカメラのバッテリーを充電し、耳元で鳴る蚊を1匹退治して、明日のために眠りにつく。
PART3へつづく