2015/05/21 国際
【ネパール大地震】ドキュメンタリーPART1:PBVネパール現地入り。カトマンズ市内で支援団体とのコーディネーションに奔走。

2015年4月25日にネパールの首都カトマンズからほど近い場所を震源とした、マグニチュード7.8の地震が発生した。ネパール地震の被害をリリーフするために世界中でたくさんの支援団体が動き始めた。

 

 

日本の311後に発足したピースボートの災害対策のスペシャリストのセクション、ピースボート災害ボランティアセンターからは、ネパールに2名が派遣された。セーフティー・オフィサーのサイモン・ロジャースと、インターナショナル・コーディネーターのロビン・ルイス。2人に同行して、私も取材のためにネパールへ。ロビンは日本とイギリスのハーフの、20代半ばの明るく情熱溢れる青年で、サイモンはオーストラリア人で家庭を持っていて、若い頃にオーストラリア軍にいたこともある。2人とも日本語と英語が流暢で、サイモンに限ってはオヤジギャグも完璧に習得している。

 

 

私たちの乗ったマレーシア航空の飛行機は、辺野古の新米軍基地問題が白熱している沖縄や、2014年の春に中国とのサービス貿易協定に反対する台湾の学生たちが立法院を占拠し、よく晴れた日曜日に50万人の台湾市民をデモに動員した太陽花学運の台湾や、街の3カ所の重要拠点を占拠して中国の政治家に影響されない普通選挙、本当のデモクラシーの実現を求めた雨傘革命の香港など、2014年に取材したアジアの地を飛び越えて、インドと中国というアジアの大国に挟まれている、国土が長方形の形をしたネパールへ。

 

 

機内で読んでいたマレーシアの英字新聞”Star-the people’s paper”によると、最後に瓦礫の中から人が救出されたのは4月30日の木曜日で、それ以降は誰も救出されていないと書いてある。ネパール政府は25日から1週間以上が経ち、瓦礫の下からの救出活動は諦め、郊外での救援へ注力。圧倒的なダメージの前に無力感を示すネパール政府に対して、人道問題担当国連事務次長のヴァレリー・エイモスは、どんな政府であってもこの困難の中で普通に立ち回ることはできなかっただろうと言っていた。ネパール政府は不足しているテントなどの物資を免税にし、被災したばかりのネパールの人々の都合などおかまいなしにやって来るモンスーンの季節に備え始める。

 

 

マレーシアで警備員として出稼ぎで働いているネパールの青年2人は、お金が無くて地震の後もネパールに戻ることができない。ネパール人の妊婦さんがイスラエル軍の救護施設で赤ちゃんを出産。瓦礫の中からお米の入った大きな缶が見つかる。マレーシアの寺院で大勢の人々が集い義援金を送り、そして1時間祈りを捧げた。新聞にはネパール地震を巡る様々なシーンが書かれていた。

 

 

飛行機が地上に近づくと、人々は小さな窓から地上の様子を熱心に眺めた。ネパール唯一の国際空港トリブバン国際空港には、支援物資や、マレーシアから到着したばかりのマレーシアの国旗入りのオレンジ色のベストを着たボランティアチームや、オレンジ色の布を纏った僧侶たちや、数人の西洋からやってきたヒッピーたち、そしてたくさんのネパールの人たちでごった返す。

 

 

空港で数枚のアメリカドルをネパールルピーと交換すると、無表情のネパール人の両替屋がカウンターに野菜の叩き売りでもしているみたいに分厚い札束を無造作にドサッと放り投げた。驚きの分厚さ。とれたてのニンジンの束みたいな札束は輪ゴムで止めてあって、札束の中央には深くホチキスまでしてあった。ホチキスの針はしっかりと札束を貫通していた。

 

 

空港の出口にはネパールに支援に来たNGOのために国連のレセプションセンターが設置されていて、数日間シャワーを浴びていないという、髭を生やしてポケットのたくさんついたベストを着ている国連レセプションのお兄さんが、コーディネーションがどのように行われているのか説明してくれた。全ての国際NGOによる支援のコーディネーションや情報交換とアップデート、クラスターミーティングと呼ばれる支援分野別のミーティングは、カトマンズ市内のUN Houseで行われている。

 

 

空港付近のホテルからはカトマンズの街が見えて、地震の被害らしきものはそこからは見えなかった。夕日の中、外で女性たちが水浴びをしていて、広場で少年たちがサッカーをしていた。ひっきりなしにいろんな車やバイクやトラックが走っている。大きな街だった。ホテルでは電気も水も問題なし。インドに少し似てる、とロビンが言った。夕方6時頃に地上階にあるレストランに行くと、レストランの窓から機体をフワフワと揺らしながら小さな空港に着陸中のオスプレイが見えた。

 

 

レストランで、ピースボート災害ボランティアチームが現地で協力連携しながら支援活動を行う、シャプラニールという日本の国際NGOのメンバーたちと会い、シャプラニールのカトマンズ事務所長の宮原麻季さんがまず地震が発生してからシャプラニールのメンバーが行ってきた支援活動の簡単な報告をした。

 

 

シャプラニールは5月1日と2日で、キルティプール市で500世帯に食料と医薬品を配布。国際NGOが勝手に行動すると結果として支援の効率が低下し、公平性が失われてしまうという懸念などから、ネパール政府は支援活動のコーディネーションに関する情報の流れや支持系統を1つにする、One Window Policyをとっている。シャプラニールはネパールの地元の人たちと連携しコンタクトを取りながら活動し、2日間でスピーディーに地元行政からキルティプール市での支援物資配布の許可を得ることができた。普段シャプラニールのバングラディッシュの拠点で活動している藤崎文子さんは、バングラディッシュで揺れを感じた後ネパールの地震の情報を得て、抗生物質や痛み止め、オーラルセラインをバングラディッシュで購入して、ネパールに自ら持ち込んだ。重量が超過していていたけれど、「ネパールに行くんでしょ」と言って空港職員は超過料金無しで医療品の入った箱を通してくれた。

 

 

特に足りていない物資はターポリンというテントを作る生地で、入手がとても困難になっていた。ピースボート災害リリーフチームとシャプラニールのメンバーは、ターポリンよりも建物の修理のためのキットか、少し時期としては早いけれども、中期的なシェルターとして役に立つトタンを配った方がいいんじゃないか?など、レストランで意見交換をした。食料などの物資はカトマンズ市内でも安定した供給あり。シャプラニールの次の支援先はヌワコット郡に決まっていた。そしてピースボート災害リリーフチームの2人もヌワコット郡での支援活動に協力することになった。

 

 

次の日5月4日は、サイモンとロビンと共にシャプラニール、UN Houseでのクラスターミーティング、CWIN、RRNなど、カトマンズ市内の様々な支援団体の人々と意見交換やコーディネーションに奔走。

 

 

UN Houseで情報交換をした、トラウマなどの心のケアを専門とするIsraAIDのメンバーは、311の時には日本でも被災者のメンタルヘルスのケアを行った。彼らは今回ネパールではまず緊急支援としてケガ人の治療などの支援にあたった。そしてこれから地震によって傷つけられた人々の心、感情的なもののケアをする、社会心理的なサポートに本腰を入れてゆく。

 

 

心に深い悲しみや強いストレスなどを抱えてしまったとき、自分が自分であることを受け入れて肯定することが大切です、それがこの活動にあたるときの私の基本です、と赤い淵のメガネをかけたIsraAIDのヘラさんは言った。地震があって、恐怖や悲しみを経験した人々は、地震の後に今まではそうでなかったのに手が汗ばむとか、悲しみに沈んでしまうとか、音を聞くとびっくりして飛び跳ねてしまうというような反応が起こることがあるけれど、それは普通のことで、頭がおかしくなっているとか、病気になってしまっているとか、異常なことではないのです、と彼女は言った。被災し、困難にさらされている自分のことを批判したりジャッジしたりしてはいけません、と彼女は笑顔で言った。

 

 

災害の後にトラウマなどの心のケアを持続的にするためには、コミュニティーセンターを作ったり、地元の人たちに心のケアの手法を教えて、ボランティアたちのトレーニングする必要があると、IsraAIDのヨタムさんは言った。物理的な側面ばかりが復興ではなく、311の時も被災した人々の心のケアは足りていなかったと彼は言った。彼は311後に東北で社会心理的なサポート、心のケアをする支援活動に携わった。そして東北での支援は今も続いている。311の時に活躍した日本人のボランティアたちもネパールに連れてくる予定だと彼は言った。ネパールの人たちを助けることで彼らは自信をつけることができ、ネパールの人々は日本人から新しいことを学ぶことができる。

 

 

子どもの権利向上のために1987年から様々な人道支援活動をしているネパールのNGOのCWINも、地震の後にすぐに動き始めていた。地震のときに建物から落ちたけれど生き残り、家族とバラバラになって警察に保護された3人の子どもたちをCWINは預かった。子どもたちの名前を公表し、カトマンズの市内の警察署を全てあたって、3人の子どもたちは全員家族との再会を果たすことができた。CWINの活動拠点には、他のNGOによって寄付された支援物資などが山積みになっていて、たくさんの若いネパール人のボランティアたちが物資を人海戦術で運びトラックに積み込んでいた。

 

 

クラクションの音が常に鳴り響くカトマンズ市内を車で走ると、ところどころに崩壊した建物や、テント生活の様子が見える。被害を受けたものと受けていないものが混在している。交通量も増え始め、オープンしている店の数も増えて、段々と表面的には日常の光景が戻ってきているとシャプラニールの藤崎さんは言った。だけど復興には長い時間がかかる。段階としてはまだ緊急支援だ。NGOだけではなくて、様々な国の軍人の姿も多く目に付く。トラックの後ろに乗った軍人。レンガを積み直す軍人。乾期のカトマンズで、ネパールの桜と言われる紫色のジャガランダの花があちこちで咲いていた。

 

 

PART2へつづく。

プロデュース :蜂谷翔子
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