今回の福島取材では、元原発作業員の門馬清さんと行動を共にした。動画には、津波に流されてしまった彼の家の跡地と、2年ぶりに息子さんと訪れた彼の様子が映し出されている。
門馬さんは福島県浪江町出身で、もうじき60歳を迎えようとしている。幼い頃からこの浪江町で育った。高校を卒業した後は、職を探しに一度上京した。ところが、「なんだかせかせかしている」都会の空気に馴染むことができなかった門馬さんは、地元に戻り福島原発で働くこととなる。地域の主要産業は原子力。仮に福島原発で働かなくとも、多くの周辺産業は原発ありきで回っているところが多い。小学校の頃には福島原発の見学が行われたというこの町は、原発は日常の一部だった。
震災の時、門馬さんは福島第二原発(2F=に・えふ)にいた。安全を祈願した決起大会のような、「安全大会」を開いていた最中だったという。門馬さんは自宅に戻るために、車で沿岸部の浪江町に向かった。そのときは、ちょうど津波が押し寄せてきた時間帯だった。フロントガラスから見える住宅や立ち往生していた車は、「洗濯機の中のように」、全てひっくり返りながら流されていった。そして門馬さんの車にも水が押し寄せてきたとき、「(死ぬことが)決まったと思った」と、門馬さんは感じた。しかし門馬さんの車は、奇跡的に転覆も浸水もせず、2km近く流されただけで済んだそうだ。今振り返っても、とても怖い経験だったという。
一方、そのとき自宅には、ご高齢の母親が一人残されていた。お母さんは体が弱く、地震のあとも家の中で待機していた。そしてテレビで津波の映像を見、自分の家にも津波が押し寄せてくることを知った。このときお母さんは、もはや逃げることは叶わないと悟り、こたつに入りながら編み物を始めたという。腹をくくったお母さんだったが、義理の弟が車で大急ぎで助けに来てくれ、ぎりぎりで生き延びることが出来た。ただ、海のすぐそばにあった自宅は流されてしまった。
この日、門馬さんが自宅の跡地を訪れたのはおよそ3ヶ月ぶり。息子さんと一緒に来たのは2年ぶりになるそうだ。検問を通過すると、道の両側には震災当時から変わらぬかたちで、倒壊した家々が見える。原発事故の影響で3種の警戒区域に指定された浪江は、今なお住むことが許されていないため、がれき撤去のあと手付かずになっているためだ。そのまま数分車を走らせると、途中から建物がほとんどない、原っぱのような場所に出る。津波で流されてしまった地域らしく、辺り一帯には野草が生い茂っている。新しく建設されている焼却炉を横目に、さらに海に近づいていくと、そこに門馬さんの自宅跡はあった。残されているのは、家の土台だけだった。門馬さんの家はわずか数十メートル先には海があり、海が本当に身近にあることと、津波の際はどれだけ危険になるかが想像された。
門馬さんはこのとき、コンクリートに刻まれたはずの息子さんの手形を探していた。幼少期の息子さんがつけた手形は、門馬さんにとって宝物だったという。転がってきたゴミや草木を靴で払いながら、足元に目をやる門馬さん。海沿いで風が強く、目を細めながら探していた。私たち取材班がラジオ福島の方から説明を受けている中で、門馬さんは一人、10分近くにわたって手形を探した。しかし、この日に見つかることはなかった。
こうした語り尽くせない背景を持って、この日門馬さんは元あった家を訪れ、そして仮設住宅に帰っていった。共に訪れた私たちでさえ、そのときのことを今語り尽くすことはできないし、こうした背景を知り尽くし得ない。だからこそ私たちは、想像力を持って震災と向き合うべきだと痛感した。
ところで、ミュージシャンである息子さんの歌「NEGAI~願い~」の中に、ある一節の歌詞がある。「また暮らしたい いつかきっと みんなで笑うために」。私はこの歌詞を聞いた時、純粋に「まだその気持ちが残っているんだ…」と感じた。発見と驚きと深い悲しみが混じった、ゾクゾクするような気分だった。故郷への思いは、今でも残っているのだ。私はこの息子さんの歌詞を、どうしてもお父さんである門馬さんの背中に投影してしまった。
(インターン=飯塚)