現代フランスを代表する映画作家のひとりアルノー・デプレシャンがアメリカで撮った新作のテーマは、原因不明の精神症状に悩むネイティヴ・アメリカンの精神分析…と普通に紹介してしまうと、日本では誰も見に行かない映画になってしまいそうなだけでなく、この『ジミーとジョルジュ』(原題「ジミー・P ある平原インディアンの精神分析」)という素敵な映画の魅力が、まったく伝わらないままになりそうだ。
まず大方の予想に反して、この映画は「アメリカで撮られたフランス映画」にも見えないし「フレンチな独創性を交えたアメリカ映画」でもなく、ましてヴェンダースの『パリ・テキサス』やセルジオ・レオーネの『ウェスタン』のようなヨーロッパ映画によるアメリカ映画へのオマージュでも、アメリカ映画や西部劇への憧れのヒネリを加えたヨーロッパ映画でもない。
『ジミーとジョルジュ』はアメリカ映画そのものであり、強いて言えば「こんな素直にすがすがしい、良質なアメリカ映画はかつて確かにあったが、今はほとんど作られていないじゃないか」とまず思ってしまうのが、このデプレシャンの新作が現代映画としてとてもユニークなところだ。
いやこれはアメリカ、とくにハリウッドがアメリカ映画を作れなくなっている現代に作られた、数少ない真正のアメリカ映画ではないか、とすら思える。
映画のストーリー自体は確かに、精神分析の話だ。第二次大戦中にフランスの前線で頭蓋骨骨折の重傷を負ったジミー(ベニチオ・デル・トロ)は、戦後も頭痛や視覚の異常など、脳が原因と思われる症状に苦しんでいた。姉の世話になってその農場を手伝いながら暮して来たが、症状は農作業が出来なくなるほど重くなる。居留地があるミネソタ州の病院では対応できず、彼は軍が第二次大戦で心や脳に傷を負った兵士たちのために運営している病院に送られる。だが医師たちは回復していない脳の損傷などは一切見つけられず、一般的な戦争トラウマとしても説明出来ないジミーの症状を、「統合失調症(つまり先天性の脳の欠陥で治療不能)」と診断しそうになる。この診断が確定すれば、ジミーは半永久的に精神病院の隔離病棟に閉じ込められることになる。
そこで登場するのが、一応はフランス人ということになっているニューヨーク在住の精神科医…なのか人類学者なのかよく分からないジョルジュ・ドゥヴルー(マチュー・アマルリック)。ジミーはネイティヴ・アメリカンで白人とは違った文化的背景を持っているので、その文化を知る専門家が呼ばれたのだ。軍の医師たちが白人モデルの診断基準で統合失調症の可能性を判断した兆候を、ジョルジュはネイティヴ・アメリカンが夢判断の文化を持つこととの関連で解釈し直し、ジミーの症状が心因性で後天的なもの、つまり精神分析で治療可能だと主張する。そしてジョルジュに問われるままに、自分の夢や過去を語り始めたジミーは…
…と、あらすじから説明しようとすると、なにしろ実話でドゥヴルー自身が書いた治療報告の論文が原作になっているので、これまた映画それ自体とはズレて来てしまうから困る。論文は相当にうさん臭い面もあるドゥヴルーの自己顕示の書でもあるわけだが、映画の方は見方・視点が違っていて、ジョルジュ・ドゥヴルーは観察者/治療者ではなく、ジミーと対等な一人の人物になるのだ。
マチュー・アマルリック演ずるこの人物が、ポリティカリー・コレクトネスの時代以降のアメリカ映画ではめったにみかけなくなった、かつてのアメリカ映画ではおなじみだった「ヘンな外人」そのものなのが、ひたすらおかしい。エキセントリックで訛りがあって妙に気難しかったり、アメリカ人から見れば常識外れで、たいがいは小男。観客の笑いをとりながらも実は学者としては天才だったりして本質を見抜いている戯画的なヨーロッパ人の役というのは、古典ハリウッド映画では定番だった。
そういう人物はたいがいハンガリー辺りの出身で実はユダヤ人という裏設定が多かったのだが(演じているのもユダヤ人の身体的特徴が目立つ性格俳優が多かった)、ジョルジュ・デヴルー自身がカトリックに改宗してフランスに帰化しているものの、実はハンガリー系ユダヤ人だったりするのだから、もう黄金時代のアメリカ映画のステレオタイプにぴったりな設定になるのを、アマルリックがこれまたそのステレオタイプ通りに滑稽に演じていて、彼が精神科医なのか人類学者なのかただのヤマ師なのか、見ている観客にも分からなくなる。現代の映画だと「差別だ」と批判されるのを恐れてめったにやらない表現なのだが、それが差別的にも見えず、純粋になにか「かわいい」、確かにほとんど「マンガみたい」な人物で「滑稽」なのが、この映画の場合には(あるいはかつての良質なアメリカ映画ではいつもそうだったように)まったく否定的だったり蔑視するニュアンスを含んでいない、なにか見下げた感覚は一切なしに、ただ「おかしい」、「おもしろい」という映画的価値を発散しているのだ。
寡黙で大柄なベニチオ・デル・トロとまるでマンガみたいなマチュー・アマルリック、このどっちもチャーミングな男達のキャスティングのコントラストが素晴らしい。ジミーの診断が始まってまもなくジョルジュが大風邪を引いてしまい、熱があるのに精神分析をやっている時なぞ、ジミーの方がジョルジュの病気を心配している。翌日ジョルジュの風邪が少しよくなり、セッションが終わったあと、病院の院長がジミーに声をかける、「新しい医者はどうかね?」。ジミーは「だいぶよくなったみたいだ」と答える。もう本当にどっちが患者か分からないのだが、子どもの頃に父が死に、気性の激しい母に見捨てられた末っ子で、気丈な長姉に育てられ、特に病気になってからは彼女に頼りきりだったジミーは、この時をきっかけに、ひたすら受け身なだけではない、自分の意思と責任の感覚を少しずつ育んで行くことになる。
この映画におけるジミーの精神分析とは、ジミーが封じこめて来た自分を取り戻す旅路であり、そのジミーを見守る医師がいるのではなくジミーとジョルジュの二人三脚の旅として演出されているのが、デプレシャンの映画が「かつてあった様なすがすがしいアメリカ映画」となった最大の理由に思える。この心の旅路におけるジミーの自分探しとは、突き詰めれば自分がネイティヴ・アメリカンであることを受け入れることでもあり、それを手助けすることは、亡命ユダヤ人の確信犯的根無し草ジョルジュがアメリカ社会のなかに自分の居場所と役割を築くことでもある。
ジミーにとってアメリカのなかに自分を取り戻すことには自分の民族的出自の自覚が不可欠であり、それを促すジョルジュ本人にとっては、アメリカのなかでの自分の確立とは逆にユダヤ人でありハンガリー人であることを棄てることである。この正反対の「自分探し」を同時に内包してしまえるのが「アメリカ」であり、しかも一方でジミーたちネイティヴ・アメリカンは過去にそのアメリカにこそ滅亡寸前まで追いつめられ、今でも差別は続いている。それでもジミーがアメリカという社会のなかで自分自身であるためには、ネイティヴ・アメリカンである自分という自覚が不可欠だし、アメリカ社会自体がそのことでジミーを勇気づけようともしているのだ。こうした矛盾をも併呑しつつすべてを受け入れる理想主義の国であり続けようとすることこそが「アメリカ」の本来であり、アメリカ映画とはそういう「アメリカ」をこそ表象するものだったからこそ、アメリカだけでなく世界中に受け入れられたのだ。
かつてのアメリカ映画が「ヘンな外国人」をステレオタイプで滑稽に見せていたから差別的、西部劇がネイティヴ・アメリカンの土地であった西部をアメリカが征服したことの正当化・英雄化だから差別的で、現代のポリティカリー・コレクトネスに目覚めたアメリカ映画はその差別性を払拭した、とみなすのは一面的で表層的でしかない。時にやり過ぎなほどコテコテに戯画化された演技の、たいがいは小男の、訛りが強い、エキセントリックな「ヘンな外人」は、確かにハンサムな主役スターに較べて滑稽に見える点では差別的だが、決して「劣って」いるわけでなく、そのおもしろおかしさも含めて存在を全肯定され、場をさらいさえするのが本来のアメリカ映画だった。
西部劇の最高峰とされるジョン・フォードの『駅馬車』『捜索者』のどちらでも、敵役として白人の安全を脅かすのは確かにインディアンだが、彼らは「敵」であり「他者」であっても、「悪」ないし「下等」な者としては描かれていない。むしろこれらのフォード映画のジョン・ウェインは白人よりインディアンに近くその知恵や文化を学んでいるからこそ強いのだし、90年代の白人の主人公がインディアンの側に立って戦う『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』の方が妙にインディアン側に配慮していてなにか奥歯にものが挟まったような感がある。ほぼ同じストーリーを1949年に映画化した『折れた矢』で白人である主人公ジェームズ・スチュアートの恋人になるのはインディアンの女性で、彼女が白人に殺され復讐に燃える彼を「今はお前個人の復讐よりも平和の方が大切なのだ。彼女の死を無駄にしないためにもこらえて欲しい」と諭すのが、アパッチ族の大首長コチーズという、遥かにラディカルに反差別の構造を実は持っていた(『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』でケヴィン・コスナーの恋人になるのはインディアンに育てられた白人の女だし、高潔に平和を説き続けるのはあくまで主人公だ)。
かつてのアメリカ映画の実際の製作現場は、確かになにもかもがスタジオで美化再現され、スターたちの華麗さを中心に映画の商売が構成される、徹底的に人工的な商品でもあったし、現場の人間関係に差別がなかったわけではまったくなく、ハイリウッドの映画人達が差別などまったくしない聖人だったはずもない。それでも世界を魅了したアメリカ映画それ自体には、映し出すものの存在を決して否定せず、世界の存在のすべてをまず肯定しその魅力を最大限に誇張すらしようとする根源的な善良さがあり続けていた(作品が作り手を越えていた、とも言える)。
アメリカ映画という20世紀の神話体系の根本にある精神とは、その映す現実が常にその理想と矛盾することを自覚しつつ、それでもあくまでその思想は信じ続けるアメリカという理想主義国家の矛盾すら肯定する信念であり、たとえばアメリカ民主主義をもっとも楽天的に称揚したフランク・キャプラ監督は大恐慌の時代にこそ大活躍したし、その映画のなかでももっとも純粋なアメリカ讃歌である『スミス都へ行く』はワシントンの政治腐敗の物語でもある。その腐敗に絶望的な闘いを挑んで議会で24時間マラソン演説に挑むジェームズ・スチュアートは、最後に「守るべき価値がある唯一の信念とは、すでに失われた信念かも知れない」と呟く。これこそがかつての「アメリカ」と「アメリカ映画」の根幹にあった精神であり、そのロマンチシズムこそが世界の観客に、自分の生きる現実の世界がいつか少しは良くなるかも知れない、そのために努力して生きてみようと言う真正の夢を与えたのだ。
アメリカが本来ならすべての人類を受け入れるもっとも理想的な大地でなければならないという、実は建国当初からそもそも不可能だったかも知れない理想を、それでも信じ続けることでしか前進し得なかったのが本来の「アメリカ」であり、現実と常に矛盾しているからこそあえてその理想を受け入れ、失敗や裏切りを告発しながらも、その矛盾すら含めてすべてをスクリーン上に受け止め、不可能な理想をそれでも信じ続ける確信に裏打ちされた堂々たる表現で、世界の存在そのものを肯定し美化さえして映し出して来たのが、かつてのアメリカ映画の持つすがすがしさと複雑さだった。
むろん今のアメリカ映画はそういうものではないし、今のアメリカがすべての人類を受け入れるもっとも理想的な大地でなければならないという信念を持っているのかどうかすら疑わしい。恐らくは1960年代の半ばを契機に、世界の存在そのものを肯定し美化して映し出そうとするアメリカ映画の、矛盾を自覚的に内包していたからこその健全なイノセンス(あるいは、ハリウッドのスターもまた固有の個性を最大限に強調した特殊な個人でありながら全人類の表象でもあるという矛盾した存在でもあった)は潰え、90年代の半ば以降はアメリカ映画の魅力の最大の支えであった善良さ、人間性の全肯定(悪人や仇役ですらその存在と魅力は否定されず、むしろ強調さえされた)ですら、物語的にも映像表現的にも、ハリウッドから失われて来ているように思える。
かつてアメリカ映画をアメリカ映画たらしてめいた本質とはなにか?ひとことで言ってしまうなら、世界と人間の存在に対する無限の信頼、「世の中は大変だ、悲劇も多い。それでも、にもかかわらず」という全肯定だった。今日のハリウッド映画産業は、むしろその世界の実存に背を向けるかのように絵空事の夢や分かり易いファンタジーの世界を志向し、実在よりもCGIの合成する映像や脚本家のイマジネーションや技巧に優れた俳優の作り込まれた演技を「善」ないし「価値あるもの」として信じ込もうとしている。実話やリアリティがベースの話でも、現実にはあり得ない明瞭な図式化をしないと観客が受け入れないと思い込んでいる映画産業は(ハリウッドに限らない)、もはや観客すら信頼していない。それはかつてのハリウッドのスターたちが、観客の愛情を全面的に信頼し、自分が自覚できる以上に奥深い自分自身の本質を、深い欲望の部分まで、役柄を通してスクリーンに全面的にさらけ出していた本質的なイノセンスとは、正反対のやり方に思える。
そんなかつてアメリカ映画がアメリカ映画であった特質を、いかにもかつてのアメリカ映画的なおおらかであっけらかんと、堂々と再現してしまったのがこの『ジミーとジョルジュ』なのである。その映画は自分が奥底に隠していたもっとも深い自分自身を、相手を信頼し、そして自分自身への信頼を取り戻すことで、深くさらけ出して行くプロセスとしての精神分析映画の形態を持っている。
この映画が本当に映し出している物語とは、ヨーロッパ人のネイティヴ・インディアンに詳しい医師がネイティヴ・アメリカンの患者を精神分析で治療する「反差別」「人種の違いを越えたヒューマン・ストーリー」ではない。出身も性格も見た目も正反対な二人の男が偶然のように出会い、深く交流し、さりげない友情を育む物語であり、運命の巡り合わせで出会った自分とまったく異なった他者をお互いに受け入れ合うことでこそ、自分とは何者なのかのアイデンティティをあるいは取り戻し、あるいは再定義する物語なのだ。
自分とはまったく異なった相手を、だからこそ受け入れかけがえのない仲間とすること(同じような似た者どうしでくっつくのなら簡単だし、「○○人の国」の同質性でつながるだけなら、「アメリカ」が独立する必要すらなかった)、そしてその善良さを踏みしめてこそ自分が自分自身であろうとすること、これこそが「アメリカ」の本質であり、かつてアメリカ映画がアメリカ映画というなんだかんだ言っても素晴らしいものであったことの、もっとも根本的な理由だった。
いやアメリカに限らず映画というメディアそのものが、本来ならば世界の存在、わけてもキャメラの前にある自分(作り手、そして映画を見る観客)ではない他者を、その問題や誤り、時に罪すら映し出しつつも、その存在自体は決して否定せず受け入れる善良さにこそ、映画表現の本質があったはずだ。その意味で『ジミーとジョルジュ』は現代の、ひたすら他者に対する疑心暗鬼と自己中心主義、安易な自己肯定のための自己欺瞞やその裏返しとしての他者排除が跋扈する世界には不釣り合いなほどにイノセントな人間讃歌、世界の存在それ自体への讃歌であり、今どき場違いなほどにナイーヴな映画讃歌でもある。
この良質で無邪気な善良さを受け入れられるかどうかは観客次第でもある。ある意味まるで現代離れしているのだから、性に合わない人が多くても不思議ではない。だがたまには、ここまで真正のイノセンスに身を任せ、人間性というものを全面的に信頼するのも、悪くはないのではないか。
2015年1月より、シアター・イメージフォーラム他全国で公開
公式サイト http://kokoronokakera.com/
監督・脚本 アルノー・デプレシャン
出演 ベニチオ・デル・トロ、マチュー・アマルリック
参考:『スミス都へ行く』(1939年)監督フランク・キャプラ 脚本シドニー・ブックマン 出演ジェームズ・スチュアート、ジーン・アーサー、クロード・レインズ DVD発売ソニー・ピクチャーズ・エンタイテインメント・ジャパン
『駅馬車』(1939年)監督ジョン・フォード 脚本ダドリー・ニコルズ 出演ジョン・ウィエン、クレア・トレヴァー、トーマス・ミッチェル DVD発売 東北新社
『紳士協定』(1947年)監督エリア・カザン 出演グレゴリー・ペック、サム・ジャッフェ、ドロシー・マクガイア DVD発売20世紀フォックス・ホームエンタテインメント
『折れた矢』(1949年)監督・脚本デルマー・デイヴス 出演ジェームズ・スチュアート、デブラ・パジェット、ジェフ・チャンドラー DVD発売20世紀フォックス・ホームエンタテインメント
『捜索者』(1956年)監督ジョン・フォード 原作アラン・ルメイ 脚本フランク・S・ニュージェント 出演ジョン・ウェイン、ジェフリー・ハンター、ヘンリー・ブランドン、ナタリー・ウッド DVD発売ワーナー・ホームビデオ
『シャイアン』(1962年)監督ジョン・フォード 原作マリ・サンドズ 脚本ジェームズ・R・ウェッブ 出演リチャード・ウィドマーク、キャロル・ベイカー、ドロレス・デル・リオ、サル・ミネオ、リカルド・モンタルバン、ギルバート・ローランド DVD発売ワーナー・ホームビデオ
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