2014/12/10 政治
沖縄ー千葉ルポ⑪1970年のコザ暴動から今週の日曜日の衆院選まで

「ハロー。こんにちは。どこから来たんですか?」

 

 

晴れた午後に琉球バスに乗り込むと、沖縄人(うちなんちゅ)か大和の白髪の女性がバスの前方に1人、グレーの帽子をかぶった黒人紳士が後方に1人座っていた。私は黒人のおじさんの座っている席から通路を挟んで隣りの席を選んで腰掛け、バスが走り出してから彼に話しかけた。

 

 

「カリフォルニアだよ。サンディエゴという街」彼はゆっくりと落ち着いてしゃべる男だったけど、声が聞き取りにくかったので、私は体の左側半分を座席から通路に突き出しながら話を聞かなければならなかった。

 

 

ユニバーシティー・アベニューと42番ストリートに住んでいたと彼は言った。私もサンディエゴに住んでいたことがある。どういうわけかサンディエゴに住んだことのある人はけっこう世の中に多いらしく、初対面でサンディエゴに住んだことのある人間に会ってもあまり驚かなくなった。ユニバーシティーアベニューは店の多い大きな通りで、サンディエゴに住んでいた頃よく遊んでいた。彼が住んでいた頃はわからないけれど、今は移民が多い、俗に言うゲットーと呼ばれる類いのエリアだった。移民の出しているレストランには安くておいしいところが多いので、友達とよくベトナム料理やソマリア料理を食べに行った。それからTOWER BARというすごくおいしいブラッディー・マリーを出すダイブバー(労働者階級の行く汚めのバー)がある。

 

 

彼は元々はミズーリ州で生まれ、軍に入隊してカリフォルニア州のキャンプ・ペンデレトンへ行き、それから沖縄へと派兵された。今は嘉手納基地で働いている。カァディーナと彼は発音した。

 

 

「私は沖縄に来て2週間でベトナムへ行った。1967年にベトナムで撃たれて病院に入って、治療してからまたベトナムへ行った」彼は自分の人生において自分が地理的にどう移動してきたのか正確に話した。

 

 

「今日はどこへ行く?」

 

 

「コザへ行きます」

 

 

「なぜコザへ行く?」

 

 

「1970年にコザ暴動という暴動があって、その話を知っている人達を見つけて話を聞きたいんです」

 

 

「コザ暴動か。それが起きたとき私は岩国の基地に配属されていた」

 

 

「そこで暴動のニュースを聞いたんですか!?」と、コザ暴動のことを彼が知っていたので私は少し興奮して聞いた。コザ暴動はうちなんちゅがアメリカに対して起こした暴動だけど、当時アメリカでは黒人も白人から激しい人種差別を受けていたので、沖縄にいた黒人と白人の間でも闘争があった。

 

 

「特に気にとめなかったよ。私は若かった。わかるだろ?私はイワクニにいて、ジャパニーズガールフレンドがいたんだ。もし人々が殺し合いたいなら勝手にやればいい」そう言って彼はトランペットのように朗らかに笑ったので、私も一緒に笑った。

 

 

「沖縄と日本は完全に違う。沖縄は……とてもポリティカル(政治的)だ。私たちは日本のことをメインランド(本土)と呼ぶ」と彼もまた他の沖縄にいるアメリカ人たちのように、当たり前のことのようにそう言った。なぜアメリカ人にわかるのに、多くの日本人にはそれがわからないのだろう?

 

 

私たちは会話を続け、バスの運転手は街と基地の混在する沖縄の町並みを走り続けた。

 

 

「奴らは人の頭をちょん切ったりしている」と、中東のISISのことを口にしたとき、彼の表情は少し険しくなった。バスの中で会話を始めてすぐに私は彼は知的な人間だと思ったけれど、現在の戦争について語るときの彼からは、その知性の代わりに何か違うものが取って代わるような感じがした。それはアメリカ合衆国の「正しさ」や「正義感」や「愛国心」かもしれないし、彼には「世界の警察」の一員としての自負や誇りがあるのかもしれない。

 

 

彼は嘉手納基地に行く前にこっちの基地でちょっと用事があるからと言って、北前というバス停で降車した。バスの西側は普通の町で、東側は金網と基地だった。「話せて楽しかったよ」と彼は言って、私たちは軽く拳をぶつけあってサヨナラの挨拶をした。大きな手だった。座席から立った彼の体は座っていたときの印象よりも数段大きく、腰が曲がっていた。彼はゆっくりと小銭を1枚ずつ運賃箱に入れてバスを降りた。

 

 

 

 

沖縄本島の中部にある沖縄市のコザでバスを降りて、今は寂れて静かな銀天街という商店街のアーケードを歩いて抜けた。そこにあった小さな公園のベンチで、金城さん(65)は1人日向ぼっこをしていた。

 

 

彼にコザ暴動について聞くと、当時は「絨毯洗濯屋だったわけよ。照屋に住んでた。19、20歳くらいだった」と話だした。

 

 

「あれから何にも起こらんよ。黒人街が無くなっただけでよ。(コザ)十字路も変わってきてる。こっちの方もみんな住宅街になるらしいよ。古い家を壊して」

 

 

私は何を聞いていいのかわからなかったので、基地はどう思いますか?と聞いた。

 

 

「わからん。ははは。今の翁長知事よ、立てたよ。あれ立てればどうにかなるだろう」

 

 

期待してるんですか?

 

 

「してるよ」と少し楽しそうに言ったあとに、「なくはならんよ」あまり調子を変えずに付け加えた。私がお礼を言って立ち去ると、彼は気持ち良さそうにベンチに横になって緩やかな午後の太陽を浴びた。

 

 

 

 

「コザ暴動を起こしたのは昭和32年生くらいの人だ。(当時自分は)子供だから、寝てるさね。夜中だから。翌日だけど、その現場行ったらバスも車も燃えてたよ」とコザ暴動のことを話してくれた銀天街の飲み屋で飲んでいた仲程さん(52)は子供の頃、白人と黒人がけんかをするのを不思議に思っていた。生まれた頃から彼の周りには外国人がいたから、外国人が悪いものという認識はなかった。

 

 

お腹が空いていたので、私はオリオンビールと麩チャンプルーを注文した。

 

 

「『くろんぼとしろんぼのケンカ』って作文書いたら賞もらったよ。小学校2年だから人種差別のこと知らないさ。MPって知ってる?MPが来るでしょ、(犯罪起こしても)向こういったらすぐ釈放だよ白人は。日常茶飯事」     彼が子供の頃、同じ沖縄市内にある今の胡屋のゲート通り(空港通り)は白人の地域だった。パークアベニューや、私たちが飲んでいたコザの銀天街は黒人の町だった。

 

 

「こっちは黒人の町だから、黒人街だから白人が来たらもう殺す。半端じゃない殺すほんとに。小さい頃に白人が来たら、ちょっとした英語はわかったから、『やられるよ』って、したら上の方にいったらもうやられてるわけ。血だらけよ。白人はピースで通そうとしてた。黒人はブラックパンサー。こうやって合図があったわけよ。これができんかったら…」

 

 

話しながら、彼は沖縄北部の名護で釣ってきた鰡(ボラ)の刺身を振る舞ってくれた。

 

 

「オリオンビールの味がするかもな」

 

 

名護にはジュゴンがいるだけではなく、オリオンビールの工場もあるらしい。ヌーディストビーチなんかもあったりして。

 

 

 

 

コザ暴動は色んな風に語られる。うちなんちゅが轢かれたことがきっかけだったと言う人や、元々は人種差別をめぐる黒人と白人の闘争から始まったという人もいる。沖縄の人達と黒人達はどちらも社会的に不当な扱いをされていたので、彼らの間には通じるものがあった。コザ暴動のときも、うちなんちゅは白人の車は燃やしたけど、黒人の車は燃やさなかったという話も聞く。仲程さんと同級生の名嘉山さん(51)は、コザ暴動についてこんな風に語った。

 

 

「沖縄人がさ外人に殺されたり傷害やったりしても警察が取り締まらなかったわけ。外人が沖縄の人ひいてもMPが来ても釈放だよ。こんなのが立て続けにあったときがあったから、たまたまコザ暴動起きたときに、クリスマス前なわけさ。年末なわけ。忘年会とかいろいろ重なって、たまたま土曜日だったわけ。土曜日の夜なわけ。年末のまた週末、忘年会もあるから。だから沖縄の人がひかれたわけ。車でひかれて。MPも呼んで、沖縄の警察も呼んだけど、結局アメリカの勝手、外人の勝手。返そうとしたから、沖縄の人もう酔っぱらってるから、みんなで囲んでから逃がさないように逃がさないように。アメリカを逃がさないようにって、だんだんだんだん野次馬が増えて、殺せ殺せってなってから、MPが軍に連絡して、それでもおさまらないわけ。もううちなんちゅは興奮してるから、何十名から何百名、何千名になってるわけ。これでもう燃やせ燃やせってなって、MPの車ひっくり返して火つけて、もう回りにあるYナンバーみんな火付けた」

 

 

 

 

私は銀天街の飲み屋を出て、胡屋まで歩いて行った。途中で公明党の事務所を通りかかった。沖縄では知事選の興奮が覚めやらないうちに衆院選が始まっていた。

 

 

 

 

昔は黒人の縄張りで、ベトナム戦争時代に異常な景気を経験していたというパークアベニューも、今は銀天街と同じようにシャッターの閉まる店が目立っていた。シャッターを降ろしていないレストランでは、白人の女性と黒人の男性が1組デートをしていた。

 

 

クリスティーという女性はニューヨーク出身で、沖縄で空軍に4年間勤めていたが、より良い仕事がイタリアの軍で見つかったからそちらに移る。アメリカ人がたくさんいるので、沖縄にアメリカ人としていることは特に不自然だとは感じない。

 

 

まだ沖縄に配属されてから1年未満の男性は、沖縄で特に嫌な思いをすることはない。ここでの生活はOKだと感じている。     イラク戦争や中東のことについて聞くと、2人とも苦笑してコメントを避けた。

 

 

私は「気持ちはわかります」と言った。戦争の話はあまり楽しい話ではない。

 

 

 

 

昔白人の地域だったというゲート通りにあるバーに入って、カウンターに座ってウィスキーのジンジャエール割りを頼んだ。そのバーには軍人を引退して今は近所で飲食店をやっている2人のアメリカ人男性と1人の日本人女性がいた。2人は私が沖縄で出会った中で日本語を流暢に話す最初のアメリカ人で白人だった。

 

 

関西出身の色白のバーテンダーの女性(42)は元ポールダンサーで、美人と可愛いいの中間くらいの顔立ちをしていて、切れ長にアイラインを引いた目がチャーミングで、声は落ち着いていて柔らかい葉っぱのようだった。

 

 

「一回関西に戻ったんだけど、なんか関西弁で話しても関西弁じゃないとか言われたりとか、住み心地が悪かったんだよね。私元々東京好きで行っちゃってるから、好きでそのまま長く住んじゃってるから、一回戻ってみたけどなんか違うと思って。だけどずっと東京で住めるかっていったら段々疲れてきちゃって、で沖縄に、昔の仲間がみんな沖縄に住んでて。のんびり暮らしてるよーって」と彼女は言った。とても感じのいい人だった。

 

 

12月9日から、お酒やバーに行くのが解禁になって、アメリカの軍人の人達もバーで飲めるようになるから、きっとこの辺りも変わりますね?と聞くと。

 

 

2年間のバーの禁止はとても長かったらしいですよ。アメリカ人のお客さんが減って。地元の人は解禁になったら商売が繁盛するかもしれないと期待しているみたいですよ、と彼女は言った。

 

 

 

 

ピザ屋をやっているスティーブ(50)は、1982年から、32年間沖縄にいる。最初の6ヶ月は車が無かったからつまらなかったが、車とアパートが手に入ってからは楽しいばかりだった。普天間に駐在していた。

 

 

「歴史的に言っても、歴史は本土と沖縄で違った風に展開している。本土は本土で、沖縄は沖縄。どちらとも日本人だけど、人々は完全に違った考え方をする」と彼は話し始めた。

 

 

「なぜあなたにとっては本土と沖縄の違いがそんなに明らかなんですか?」

 

 

「沖縄はまだ過去に起こったことに対して怒っている。だから敵対心、もしくは憎しみ、もしくは差別がある」

 

 

「アメリカ人として差別を感じる?」

 

 

「君はおもしろいやつだな。君はどう思う?君は日本に差別があると思うか?」

 

 

「はい。もちろん」

 

 

「なら君の目は開いているね。そう、もちろん差別はある。まさにその通り。そしてそれは決して変わることがない。俺はリアリストだ。わかるか?もしこっちでいいことがあっても、あっちでは悪いことがある。人々はまだ目を閉じている。人種が何であろうと関係ない。肌の色は違ったりするけど、みんな中身は一緒さ。みんな人間だ。日本語では『十人十色さ』。そーよ。つまりそういうことだよ。これは大きな映画みたいなもんで、みんな自分の役を演じている。いろんなキャラクターがいる。それがこの世界で生きる唯一の方法だよ」

 

 

「人々は自分の役を降りることはないと思う?」

 

 

「それは彼らが、僕らがどんな風に育てられたかによって決まる。社会は変わっている。今の子供達は僕や君と同じようには育たない。今の親は君の両親が君を育てたのと同じようには育てない。わかるだろ?自分が不当に育てられたり扱われたと思う人達もいる。彼らは自分の子供にしつけをしなかったりする」

 

 

「違う質問をしていいですか?選挙では辺野古が争点だった。だけど沖縄にいるアメリカ人の多くは沖縄の人々が新しい基地をほしがっていないことを知らなかった…」

 

 

「わかった。うちなんちゅは基地を減らしたいと思っている。市街地にある普天間基地を無くしたい。だけど僕が1982年にここに来たときは、エアフィールドへの入り口のあたりには家は無かった。普天間は米軍基地になる前は日本軍の基地だった。戦争の後にアメリカの基地になった。以前は普天間の周りには家も学校もなかった。何も無かった。だけど段々と人々は普天間飛行場の周りでレストランとか服屋みたいな商売を始めてお金を儲け始めた。それは1982年の話だけどね。その頃の日本は今の日本とは違った。そんなわけで、普天間飛行場を囲むように街ができていった。そして今それが問題とされるようになった。つまり、あの街は基地のせいで成長した街だ。普天間はコザとはまた違う。コザはパーティーの街だった。どんなことでもできる、素晴らしい街だった。ここに来たとき僕は18だった。目が開いたよ。沖縄に来た最初の日、飛行機から降りて僕はここにいた。あそこのストリートだよ」

 

 

「コザに起きた変化には驚いている?」

 

 

「ひどいよ。街は死んだ。なんてことだ。ここは沖縄の夜の街だった。他の場所にはない特別な何かがここにはあった。60年代からこの街はずっと変化してきたけど、この街は何かの病気にでもかかって死んでいっているみたいじゃないか。僕は土地や建物のオーナーが悪いと思っている。経営がまずい。米兵に対する寛容さもなくなってきた。

 

 

1ドルが280円くらいだった。真夜中までは何も起きない。そして真夜中から朝までずっとパーティー。24時間さ。昔はケータイは無かったから、ケータイ代みたいなものを払うかわりに、外に出て、ここで一杯、あっちで一杯やるのさ。外に出なければ人に会えなかった。人間は顔を合わせてしゃべる方がいいだろう。今の人はスーパースマートフォンがあるから、あまり外に出ない。人々は昔はもっと入り混じってお互いよく付き合っていた。ほら、今だって俺はケータイなんか持ってない。手ぶらさ」

 

 

「スティーブさん。ラストネームは何て言うんですか?」

 

 

「俺のピザ屋に来たら教えてやる。それまではピザ男・スティーブだ」

 

 

 

 

私は沖縄での滞在を終えて、成田空港に飛び、期日前投票をする為に地元の千葉県に戻った。こっちでももちろん衆院選をやっていて、選挙資金の豊富な政党や宗教団体のCMが新聞やテレビに流れていた。

 

 

私の実家の最寄り駅の改札を出てロータリーに出ると、調度候補者が演説をしていた。千葉県9区、自民党公認、公明党推薦の秋本まさとしさん(39)だった。「まっすぐ、景気回復」とオレンジ色が基調のチラシに書かれていた。彼は几帳面に、丁寧に、5年、10年後にはやってくるという水素社会について演説していた。バスを待っているおじさんと私が主なオーディエンスだったけど、きっと彼はオーディエンスがゼロでも1000人いても同じように演説したのではないかと思った。     演説が終わるのを待って、私は秋本さんに質問してみた。

 

 

沖縄の民意は辺野古新基地は反対といい、自民党としてはそれを無視して強行に辺野古埋め立てを進めるとしてますが、それについて秋本さん自身はどうお考えですか?

 

 

「普天間っていうのはやっぱり世界でもトップクラスの危ない空港だと思うので、普天間を固定化するっていうのは絶対にあっちゃいかんなーって、私は沖縄を見てきましたから、そう思いますね」

 

 

選挙の結果を無視して辺野古基地をつくることに関しては?

 

 

「選挙の結果を無視してと言っても、あの選挙が辺野古をつくるかという選挙だったのではなくて、沖縄知事を選択する選挙であったわけで、その前の時点で辺野古の埋め立ての承認、公有水面の埋め立ての免許というのは出してる訳だから承認は。私は争点になっていないという風に思ってます。もう出た許可に基づいて粛々と工事を進める。しっかりと移設に向けて着々と準備を進めていくこと、これは必要なことだと思います。地方選挙で争点にしても国策に関わる部分なので、既にもう答えが出てるものを地方選挙で争点にして、そういう「民意」ですというのは、私は少し馴染まないんじゃないかなと思います」

 

 

秋本さんが、辺野古埋め立てに関して、自民党で今回の知事選に破れた仲井真さんや菅官房長官が使ったレトリックをほぼそのまま使ったことと「馴染まない」という言い方をしたのが印象的だった。確かに「国策」を曲げるのは自民党らしくない。

 

 

私がお礼を言って歩き出すと、秋本さんと運動員はオレンジ色に青で「秋本まさとし」と書かれたのぼり付きの自転車を漕ぎ出し、粛々と選挙運動を続けた。

 

 

原子力発電も国策、辺野古も国策。なぜ国策は軍や武器と繋がるものばかりなのだろう。地球や人類を何度も何度も滅ぼすことができる武器や兵器をつくり続ける、そしてそれが「普通」となっている状態は「文明の無意識」だと沖縄知事選挙に出馬したミュージシャンで平和運動家の喜納昌吉さんは言っていた。

 

 

「民意」を背負って当選を果たし、今日12月10日に知事に就任する翁長雄志さんは、強行な大和の中央政府やアメリカを相手に、どうやって辺野古埋め立てを止めるのだろうか?

 

 

何はともあれ、戦争経済から抜けられない人類がこの先どんな運命を辿るにしても、今週の日曜日の衆議院選挙の投票には行かなくてはいけない。香港では普通選挙をしたいが為に、香港市長や中国共産党を相手に雨傘革命のリーダーの1人、18歳のジョシュア・ウォングがハンストをしていたし、日本の学生だって寒い中、特定秘密保護法に反対するデモをやっている。

 

 

大衆と共にある英雄のような候補者がいてもいなくても、選挙は行くに越したことは無い。

プロデュース :蜂谷翔子
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