1984年に51歳の若さで脳腫瘍で没したフランソワ・トリュフォーの全23作品が、久々に東京で上映される。全作一挙上映となると、50歳の誕生日を記念してトリュフォー自身が日本に招かれた時以来だろうか? 1933年生まれのトリュフォーは、もし生きていたら81歳になるが、そういえば同世代のヌーヴェルヴァーグの仲間も「我々も車椅子のおじいちゃんさ」と笑っていたクロード・シャブロルも亡くなり、未だ現役のジャン=リュック・ゴダールは今年で84歳だ。
トリュフォーとその衝撃の長編デビュー作『大人は判ってくれない』は、フランスだけでなく世界の現代映画の流れを決定的に変えた。親に疎まれ勉強も出来ず、映画を見るだけが楽しみで、鑑別所送りになった少年が、その自分の少年時代を実体験者でしか分からないような描写で映画化し、若き天才と賞賛された。この「自伝映画のパイオニア」の成功こそが、映画を監督の個人的表現としての現代芸術と考える流れを決定づけた。
果たしてそれが映画という表現手段をいい方向に導いたのかどうか、今となっては真剣な検証が必要だろう。現代のフランス映画をみれば社会的な大きな構造を踏まえたスケールのある映画はどんどん減り、政治的な題材ですら妙に「個人」化してしまう「作家映画」と、大ざっぱなステレオタイプ構図で表層で戯れるだけの大衆娯楽作に二極分化してしまっている。あるいは例えば日本では、インディペンデントやドキュメンタリー映画が個人の小さな体験、主に家族との葛藤をいささか露悪的に映し出して同じような悩みを抱える観客の共感を狙う「セルフ」が主流になっている。そうした映画はしばしば、いわば「いいわけ」として作られ、「一生懸命に自己表現をしているじゃないか」という了解のもと作り手と観客の双方が「自分はこのままでいいのだ」と言い合える、中途半端なプライドを承認し合うための道具として消費されている。
不良少年がその体験を映画にすることで映画史上もっとも尊敬される監督になった映画史が、こうした流れの契機になったことは間違いあるまいが、製作から55年を経てあらためて『大人は判ってくれない』を見直すと、えらく困ったことになる。というのも、1950年代後半のフランスの子どもの在り方を捉えた映画が、まず今見ても圧倒的におもしろい。呆れるほど巧妙に出来ているのは、デビュー作だというのに巧過ぎるほどだ。
『大人は判ってくれない』は観客の同情を買おうとする承認欲求やいいわけなど一切感じさせず、子どもなら子どもの視点で等身大の共感を呼ぶだろうが、大人が見ると撮影当時25歳だった監督の視点とは思えないほど、大人の映画にもなっている。
トリュフォーが私生児であったことは、生前には殆ど語られなかったが、『大人は判ってくれない』には取り込まれている。妊娠した母が結婚した相手が戸籍上の父でトリュフォーという姓を引き継いだが、彼はユダヤ人の歯科医の息子だった。映画のなかでは、父はひょうきんで明るくやさしい人柄で、主人公アントワーヌが私生児であることは、子どもが見ているとほとんど気にしないか気づかないのだが、大人が見れば明白に描き込まれている。だからこそ実の父のようにふるまい、むしろ母よりも息子と仲良く見えることの微妙な関係が浮かび上がって来る一方で、アントワーヌの方でも実は自分が父の実子でないことを知っていながら隠してもいるのだ。
今でもパリは住宅事情のいい街ではないが、1950年代の庶民のアパートは相当に手狭で、アントワーヌは台所の一角が寝床だ。家出して親友のルネの家に泊めてもらうと、その家はとてつもなく広い。子どもでも階級差、相手が金持ちくらいは分かるが、大人ならルネの家庭が没落ブルジョワであることが丹念なディテールで描き込まれていることに気づくだろう。たとえば子ども部屋は確かに広いがなにか殺風景で、寝台の頭の上に飾りがあるのでなく、壁に白いペンキの線で描かれている。この親友の描写は、トリュフォーの自伝的事実と映画が最も異なっている点のひとつで、モデルになった親友は労働者階級で、トリュフォーの家族が裕福ではなかったものの母は没落貴族、父も出身はブルジョアだった。
いやもちろん最大の違いは、1933年生まれのトリュフォーが実際に『大人は判ってくれない』の年齢だったのは戦時下、ドイツ占領下とその直後だったのに対し、1958年に撮影され翌年公開された映画はあくまで現代劇になっている。発表されると同時に多くの著名人から賛辞を集めたなか、とてもユニークなのがジャン・ルノワールの言葉だ。「これは本当にひどい。現代のフランスそのものだ」。
監督自身の体験というふれこみで評判になり、ジャーナリスト達が両親との不仲を詮索し取材までしようとしていたなか、フランス最大の映画作家はさすがに見るところが違った。元の題材は監督の自伝であっても、映画それ自体はあくまで当時の、現代の話になっていることを見抜いた上で、「監督の自伝」ではなくそこに映し出された社会そのものを見て、その真実性を評価したのがルノワールであり、だからこそ作品の本質を突くと同時に、「映画とはなにか、どういう表現であるべきか」を考え抜いた上での賛辞だ。ルノワールは決して「自分のことを正直に描いて偉い」と若きトリュフォーを褒めたのではない。現代のフランス映画、当時のフランスの子どもを通じて社会を描いたものとして、賞賛したのだ。
個々のエピソードはトリュフォー自身の体験に基づくからリアルであると同時に、50年代に移し替えても通用する普遍性があり、純粋に「子ども時代の体験」とみなされる出来事だけで脚本が構成されている。共同脚本でベテランのマルセル・ムーシーがクレジットされているが、実際には教師と父親など大人の台詞の一部を書いただけで、構成も含めほとんどトリュフォーの単独オリジナルだった。つまり自分の話であるにも関わらず、徹底して冷静かつ客観的に映画としておもしろくなるよう、かつ現代に通じるものとして書き、しかもシーン構成はほぼ同じながら、完成した映画と脚本の印象はまるで違う。元はやんちゃな反抗期の少年達が大人の言いなりにならずに好き勝手に振る舞う、痛快なコメディ・タッチで書かれていたのだ。
このデビュー作からほとんどの場合誤解されて評価されていたことを、トリュフォー本人が気にしたようには見えない。逆にその後も、実は自分の私生活や実人生とはほとんど関係ない話を、彼自身が意図的にあたかも自伝的であるかのように見せかけたことすら少なくない。『大人は判ってくれない』のアントワーヌのその後を描く「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズはその後短編一本、長編三本が作られるが、トリュフォー自身の人生とまったく関係がないコメディだ。不倫メロドラマの題材がリアルで秀逸なサスペンスとして演出された『柔らかい肌』は彼が妻マドレーヌ・モルゲンステルヌと別離する時期と相前後して作られ、主演は当時の愛人だったフランソワーズ・ドルレアック、主人公夫妻のアパートはトリュフォー夫妻の自宅(今でもマドレーヌ夫人が住んでいる)と、これまた自伝性を誰もが疑いそうでいて、映画の中身はトリュフォー夫妻の離婚とまったく別の話、よく見れば映画向けに特化して相当にフィクション性の高いストーリー展開であり、トリュフォー作品中もっともフィクションとして完成度の高い映画かも知れない。映画の撮影現場が舞台で監督役をトリュフォー自身が演じた『アメリカの夜』も、個々のギャグやディテールのなかには実体験にヒントを得た逸話もいくつかあるものの、あの映画撮影風景は実際のトリュフォーの現場とはまるで違う。
むろん実は自伝的でなどなかったからと言って、トリュフォーの映画が私的・個人的な表現ではなかったということにはまったくならず、むしろ逆だ。自伝性を装ったことは自分の監督としての評価を安定させて、真に自分の興味と欲望に忠実な映画を作り続けられる状況を確保する、彼一流の戦略だったとすら言え、そうすることで彼は彼自身の感性がそこにのめり込める、自分が選び熱中し続けた題材の映画だけを(ほとんどの企画が着想から映画の実現まで数年がかりである)、作り続けられる立場を守り続けた。
「自分のやりたい映画を作ること、独立性を守って映画を作り続けること」、それこそがトリュフォーの目的だったのかも知れない。実は彼の23本の作品には一見して把握できるテーマや手法の一貫性があるわけでもなく、題材も純文学から三面記事をヒントにしたオリジナル脚本まで多岐に渡り、「トリュフォーらしさ」を定義するのは親しかった批評家にも難しい。逆にトリュフォーは「自分のやりたい映画」が「批評家が見た自分」の枠内に押し込められることを慎重に回避していた節すらある。そのためには自分の作家性を全面に押し出す必要があり、自伝性を装い個人的・私的な愛情の表現を装うのは、自分を守れる立場を演出する有効な手段だったのだ。
たとえば「自分が愛に恵まれない子どもだったから子ども好き」を装えば、いわゆる狼少年の教育実験に当ったフランス革命児の医師ジャン・イタールの手記に基づく『野生の少年』も映画化出来たし、地味な企画なのにヒットすらしている。だがトリュフォーは自分が親に愛されなかった息子だったから親に棄てられたのであろう野生児に同情したのでもないし、史実でも映画でも、イタール医師がその少年、アヴェロンのヴィクトールに愛情を持って引き取ったわけでもない。革命と啓蒙主義の時代の科学的・哲学的興味からの実験であり、トリュフォーが自らイタールの役を演じたのは、有名スターや名優が演じれば観客に自動的にそこに愛情を読み込んでしまう(ソ連のモンタージュ派が指摘したいわゆるクレショフ効果)のを避けたかったからだ。自分が子どもの扱いが苦手だと思っていたので(子ども好き伝説とは裏腹に、実際に不器用だった)、自分がやれば愛情のない不器用さの表現にしかならないだろう、と判断したのだ。監督としてまず興味を持ったのは、イタールがヴィクトールに言葉を教えようとするプロセスが、映画と写真映像における情報伝達の原理の裏返しになっていること、いわば映画記号論を映画にしようとするのに、これがうってつけの題材だったからだ。
23本、これほど自分がやりたい企画だけを撮ることができた監督も珍しい。いわゆる注文仕事的な作品でも、『アデルの恋の物語』のように元々自分が進めていて中座していた企画が、出資者の提案で復活・実現した例くらしいかない(アデル・ユーゴーの半生は元はジャンヌ・モローかカトリーヌ・ドゥヌーヴを想定して60年代半ばから準備された企画だが、当初の構想では製作費が膨大になると見込まれ実現していなかった。映画になったのはコメディ・フランセーズを脱退して話題になったイザベル・アジャーニを出資のユナイテッド・アーチスツが提案したからだ)。
なかには『突然炎のごとく』『柔らかい肌』『恋のエチュード』や『隣の女』のように登場人物にとっても、観客にとっても、なにより作っている側にとっても甘さのかけらもない、「やさしさ」とは無縁な、突き放して残酷で冷酷で厳しい映画や、こと恋愛映画では『暗くなるまでこの恋を』のように常識を超越した狂気や暴力性を突きつける映画も多い。それはただ、映画という表現がたかが作家一人の実生活から来る個人的な「思い」、私的な「悩み」を「やさしさ」や「共感」のオブラートで包んで観客に提示することで同情を誘えば成立するほど甘いものではないというだけのことであり、トリュフォー自身がそのことを誰よりも深く肝に銘じていたとしても驚かない。
10月11日-31日、角川シネマ有楽町にて
http://mermaidfilms.co.jp/truffaut30
『大人は判ってくれない』『突然炎のごとく』『終電車』Blu-ray 10月10日発売、株式会社KADOKAWA 角川書店