70年代後半に大流行した少女マンガ『ベルサイユのばら』は時代遅れで存続が危ぶまれていた宝塚歌劇を復活させた舞台にもなったが、実写の劇映画版もあることは、今日ではかなり忘れられている。それもヴェルサイユ宮殿で大規模なロケ撮影を行い(ほぼ史上初)、監督は『シェルブールの雨傘』のカンヌ・グランプリ監督ジャック・ドゥミ、というえらく豪勢な話だった。
日本がバブル時代に突入しようとしていたその前夜である。三越デパートが同宮殿の鏡の間を借り切ってパーティーを催し、日本人観光客がパリのルイ・ヴィトンで行列を作り、日本マネーが世界に威力を発揮し始めていた。裏を返せば、金の力で人種差別と白人コンプレックスをはねのけようとしていた日本でもあり、映画『ベルサイユのばら』は、そんな時代の産物である。
当時のフランスから見ればしょせんはマンガ、それも多分に日本人のファンタジーでしかない物語の映画化で、どうせ日本以外で公開される見込みもないのに英語での撮影を押し付けられたジャック・ドゥミは、『シェルブールの雨傘』に続いて『ロシュフォールの恋人たち』をヒットさせた絶頂もつかの間、アメリカ進出作『モデル・ショップ』が酷評され不入り、念願の企画『都会のひと部屋』がなかなか実現しない中、やはり英語で撮った『ハメルンの笛吹き』など、注文仕事的な企画をこなそうとしては芳しくない評価に終わるなど、もう映画が撮れない状況に近かった。「フランスが舞台の日本のマンガの映画化」という、スノッブな批評家がせせら笑いそうな “不名誉” を引き受けたのにも、背に腹を替えられない事情があったからでもある。
だが英語や原作の物語の制約、最初から本国フランスで評価される可能性がもの凄く低い企画であったものの、予算は潤沢だし(だからこそ「金のため」とますます酷評されるリスクはあるとはいえ)、あらすじさえ追えば脚本も含め作品自体の中身はほぼ自由で、そしてヴェルサイユ宮殿でのロケなど大規模で恵まれた撮影条件はドゥミにとって、なによりもフランス革命を題材にした映画を作るチャンスだった。
「Lady Oscar」の題名で完成した『ベルサイユのばら』が当時はまったく無視されたのは、単に製作をめぐる背景事情が招いた誤解と過小評価故に過ぎない。これはまぎれもなくジャック・ドゥミの映画、両性具有的な性的なファンタジーを少女向けに甘ったるいオブラートで味付けして結局は女性蔑視で去勢する原作とは似ても似つかぬ、ドゥミならではの「革命映画」だ。
やはり注文仕事、こちらはシンガー・ソングライターのドノヴァンのための企画だった『ハメルンの笛吹き』も、ドノヴァンという人気歌手がいたことも忘れられた今見ると、夢見がちな映画の名手が有名なおとぎ話を映画化したスター歌手映画の予断予想を覆す。ジャック・ドゥミの『ハメルンの笛吹き』は、中世を舞台にしながら驚くほど現代的な政治的先鋭性を持ち、ヨーロッパの権力の偽善と人種差別、ヨーロッパ世界の野蛮性を告発する恐るべき映画なのだ。
この有名な昔ばなしの背景となるペストの流行と、それが産んだパニックの描写がまず極めてリアルで、ドゥミは疫病を科学の叡智で克服しようとするユダヤ人の学者とその弟子の、足が不自由なみなしごの少年を実質の主人公に設定する。ハメルンの街はペストに怯える庶民を平然と無視する領主と教会の権力闘争に明け暮れている。疫病がついに街にも到達すると、人々を死から救う特効薬を調合する一歩手前だったユダヤ人科学者は、逆に黒死病を流行させた魔術師との濡れ衣を着せられ、火あぶりに処されてしまう。そこ至る権力抗争の陰謀と、社会が暴発させる人種差別の過酷さ、そして暴力の迫力は凄まじい。偽善の固まりに過ぎず、恐怖と威圧で人々をひれ伏せさせようとする教会、良心よりも自己顕示欲や嫉妬が優先されるいやらしい高僧たちの衣装は赤を基調とし、乱暴で権威ぶりたがるばかり、まだ幼い娘を政略結婚させようとしている領主の側は青のトーンのデザインで統一され、ドゥミ一流の色彩感覚は政治的かつドラマチックなその意味付けも明白に、鋭い批評性を発揮する。このドゥミの映画世界では、笛吹きが子どもたちを連れて去るのは、汚れた大人たちの偽りと暴力の世界から連れ出すことなのだ。
『ベルサイユのばら』の日本の出資者たちは、『シェルブールの雨傘』の淡いブルーと鮮やかなピンクで彩られたで悲恋物語や、やさしいパステルカラーとまばゆい白が印象的なビジュアルで幸福感に溢れるように見えた『ロシュフォールの恋人たち』から、いわば少女趣味的なものを期待してドゥミを起用したのだろう。だがその期待通りの色彩感覚は健在に見えながら、『ベルサイユのばら』の視覚コンセプトは「マンガが原作」の様式的な人工性を、堕落して旧弊な道徳に囚われた貴族社会の非人間性への風刺として読み替える、むしろ色彩設計の徹底され尽くした映画演出の計算というべきものだ。
ドゥミと同世代のいわゆるヌーヴェルヴァーグで、フランス映画は一気に「インテリが作る芸術」の傾向に突っ走った。その同世代のなかでただ一人労働者階級の出身(父はロワール河畔の農村からナントに出て金属加工の労働者になり、懸命に小金を貯めて自ら小さな自動車修理工場を開いた)で、他のヌーヴェルヴァーグの監督の多くが大学で哲学や政治学、法学などを修めていたのに対し、美術学校で学んでいる。その時の同級生でもっとも重要な創造上のパートナーとなった美術監督のベルナール・エヴァンが、二人で作り上げた色彩のドラマのビジョンに従ってヴェルサイユ宮殿の内装に手を加えることを粘り強く国と交渉した。そうやってドラマチックな目的で誇張され様式化された映画だが、その様式化のベースはあくまで当時のロココ絵画などを参照にした、綿密な歴史考証に基づき、さらに現代的に読み替えるビジュアル設計だったのである。ドゥミもエヴァンも二人とも18世紀のフランス美術と建築を学生時代に勉強し尽くしてもいたし、フランス革命の理想主義はドゥミのような労働者階級にとってこそ、20世紀の戦後になっても重要なものだった。フランスはまだまだ厳格な階級社会であり、学生達が革命を語り合った60年代から70年代前半にかけては、フランスのブルジョワジーの最盛期でもあったし、だいたいそうやって革命を夢見た若者のほとんどもまた、ブルジョワの子弟だった。
『ベルサイユのばら』は子どもが女ばかり産まれる貴族が業を煮やし、末の娘をオスカルと名付け男として育てることから始まる。オスカルは男としてルイ16世の宮廷、とくに王妃マリー・アントワネットに使える近衛兵になり、革命の激動に巻き込まれて行く。しかし原作では革命はいわば背景に過ぎず、むしろ宮廷の豪華さや恋愛の戯れが憧れの対象であり、「オスカルはアンドレの妻になりました」という一見恋愛の夢の成就、その実あきれるほどに男尊女卑な結末を迎えるのに対し、ドゥミの脚本はこの構造を物語レベルでも視覚演出でも徹底して換骨奪胎する。オスカルは宮廷と貴族の社会そのものが欺瞞であり、自分は女なのに男であることを親に強制された欺瞞の、二つの偽りに囚われながら、原作の「男まさり」ではなく、女性としての強さを秘めた人物になった。それは最初は強情な、並外れた頑固さ、偽りの立場だからこそ強迫観念的に忠誠心が人一倍強い性格として現れているが、次第に彼女は自分が囚われている欺瞞、自身の存在がとりわけ偽りであるからこそ、宮廷全体がそこに染まったまま現実を見ようともしない偽善に、誰よりも敏感になって行かざるを得ない。しかし偽りの自分を守らなければならないことから、自らもそこに目をつぶろうとしてしまう。
バスチーユ牢獄が民衆に襲撃され、国王側がその民衆に発砲する様が壮絶に描かれる壮大なアクションの展開こそ、ドゥミ演出の白眉だ。ドゥミは宮廷側の不自然で毒々しくすらある、色彩が個々のシーンごとに統一された儀礼的で人工的な世界に対比される、人間らしさと自然さを体現する民衆の側からこそ革命を描く。彼らはただ権力の犠牲になるのではなく、その権力の暴力に立ち向かう率直さに満ちている。そしてオスカルと恋人のアンドレは、そのなかで自分たち自身を再発見するのだ。
革命に立ち上がった民衆に埋め尽くされた街に二人が飲み込まれるラストは、決して原作の「オスカルはアンドレの妻になりました」ではない。二人は激動の時代のなかで、それぞれに一人の人間としての自我を取り戻し、真の自分のあるべき自由な姿を求めて歩き出す。自己克服と自己実現、あるいはそれが不可能となる幻滅こそが、ドゥミのほとんどの映画に一貫するテーマであり、恋愛がドラマの基軸に置かれるのは、愛に命をかけられるかどうかで人間の真実が問われるからに他ならない。
ジャック・ドゥミは今でももっとも人気があるフランスの映画監督の一人だが、もっとも誤解されきちんと評価されていない作家かも知れない。華やかで夢いっぱいのミュージカル、甘い音楽に彩られた悲恋物語(『シェルブールの雨傘』)あるいはラブコメ(『ロシュフォールの恋人たち』)とのみ見られてしまいがちな有名作に隠されているのは、人間を翻弄する運命の過酷さであり、そのなかで自分が自分として生きることの難しさ、運命の皮肉や迷いでそれを失ってしまった者達の後悔だ。
『シェルブールの雨傘』がカンヌで高く評価され、甘い悲恋物語であるかのように世界に受け入れられ、ミシェル・ルグランの音楽と共に大ヒットした時、ドゥミははっきりこう言っている。
「これは戦争に反対する映画です」
当時の戦争とはフランスが植民地アルジェリアの独立を阻止しようとしていた戦争、それがフランス自身の自由や独立の理想の裏切りでもあったことにこそ、ドゥミは敏感に反応していた。フランス革命で民主主義の母国と胸を張る、自由・平等・友愛を国是とするフランスと、アルジェリア人の独立を阻むため自国の若者たちを犠牲にするフランスの、どちらが真実で、どちらが偽りなのか?偽りと真実の関係性はドゥミ映画の基本構造であり、それは常に人物たち自身が真実に生きられるかどうかに結びついている。
「あなたなしには生きていけない」とカトリーヌ・ドゥヌーブが歌う、一見甘味に見えるこの物語は、実は現実の冷酷な厳しさで偽りであるはずのことを強要していく。まだ10代で妊娠した、幼く弱い彼女は、永遠の愛を誓ったはずの自分を貫くことができず、あっけなく母親の世間体と、経済の圧力に負けてしまう(夫となるのは、ドゥミのデビュー作『ローラ』の主人公ロラン・カサールだ。そして遺作となった『想い出のマルセイユ』は元は初老のカサールが故郷ナントに帰る話で、イヴ・モンタンが参加したことで、モンタンが自分自身を演じ、彼の育ったマルセイユに舞台が変更された)。
『ロシュフォールの恋人たち』は運命の恋の相手を夢見る若者たちが主人公だが、全編を通じて繰り返されるのは皮肉な運命によるすれ違いであり、すれ違いと気まぐれとコンプレックスで運命の恋を逃してしまった母ダニエル・ダリューと楽器商のミシェル・ピコリこそが真の主人公とも言える構成になっている。一方でドゥミは、ドゥヌーヴと実の姉フランソワーズ・ドルレアックの演じる運命の恋に憧れる双子の姉妹も、シングルマザーである母も、現代的なバイタリティに溢れ、運命を受け止めながら自分を貫ける元気で賢い女性として演出する。
この傑出した天才の本性は、『ベルサイユのばら』を経てやっと実現した念願の『都会のひと部屋』にこそある。『シェルブールの雨傘』同様にすべての台詞が歌、全編が音楽の「ミュージカル映画」…ではなく、明確にオペラ映画として構想され、運命の愛がわずか48時間で死による結合に至る壮絶な古典悲劇の構造を持つと同時に、舞台となるのは1955年のナントの大ゼネストの政治ドラマでもある。冒頭からいきなり警察機動隊が「立ち去れ、家に帰れ」と怒鳴り、「私たちはここを通る、決して去らない」と歌うデモの女たちと「俺たちは自分の権利を守るためにここにいる。自分の権利と妻と子どもたちの権利、そして子どもたちの子どもの権利を」と歌う労働者たちの大合唱が始まる。
構想から時間が経って映画が実現したのは1982年、社会党政権の成立で新たな時代、新しい社会を夢見がちだったフランスに、結果としてジャック・ドゥミが突きつけてしまったのは20世紀の西洋文明を毒し続けた階級闘争のドラマであり、運命的な愛、宿命の愛は、死に至ることによってこそその人間社会の矛盾を超越する。これは本来の意味での「ロマンチシズム」の究極であり、それに20世紀的な具現の形を与えたのがドゥミの映画なのだ。
『都会のひと部屋』はドゥミのもっともパーソナルな作品であり、鮮烈で構築的な色彩設計に構成された空間と、音楽と運動つまり俳優の動きの振り付けとキャメラ移動の結びつきで構成される時間の完璧な融合、そして自分が自分として生きる欲望をめぐる人物たちの葛藤の明晰な表現、その総合が作り出す壮大にして狂気のレベルまで凝縮されたビジョンについて、親しい関係者は「ジャックがやりたかった映画がもっとも完成された作品」と口を揃える。
それが当時まったく評価を得られなかったことは、監督としてのジャック・ドゥミのその後を「呪われた」ものとしてしまった(興行的・批評的な失敗はロシア革命を舞台とした大メロドラマ『アヌーシュカ』などの企画の実現をますます阻むことになり、59歳の早過ぎる死に至る)だけではない。未だに彼のほとんどの映画がうわべだけ、一面的にしか見られていない状況が続いている。
『都会のひと部屋』こそがドゥミのもっともドゥミらしい映画であることに気づくと、『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』の二大人気作も見方ががらりと変わるはずだし、『都会のひと部屋』と同じくドゥミの生まれ故郷のナントが舞台の珠玉のデビュー作『ローラ』が、決してただ恋人の帰りを待つけなげな女をめぐる夢見がちな映画などではまったくない(むしろ戦後のフランス人の抱えていた「夢」を冷ややかに分析さえする映画だ)ことも見えて来るだろうし、当時まったく無視され今もないがしろにされ続けている『モデル・ショップ』『ハメルンの笛吹き』そして『ベルサイユのばら』も、初めてその本来の映画作品として見られるようになるに違いない。
最後に付言するが、大ヒットした『シェルブールの雨傘』がドゥミにとってフランスのアルジェリア戦争に対する異議申し立てであり、戦争が戦地でない場所ですら人間性を奪っていたことの告発であったのと同じ意味で、ロサンゼルに招かれて撮った『モデル・ショップ』は、ヴェトナム戦争についての映画だ。
『シェルブールの雨傘』においては、アルジェリア戦争の結果、銃後のフランス本土でも「愛」は不可能なものとなり、恋人達は自分が自分として生きる可能性も奪われてしまう。この名作は「悲恋物語」ではなく、現代における愛の不可能性と魂の堕落、あきらめと後悔の物語なのだ。そして『モデル・ショップ』で、ドゥミはヴェトナム戦争がその銃後のアメリカ社会においても、その本来の人間性を奪い蝕んでいたことを静かに浮かび上がらせる。ラストにヴェトナム帰還兵の主人公が言う、「人はいつだってやり直せるはずなんだ」。これはドゥミの投げかける人類の最後の希望の言葉なのか、それとも実はやり直せない現実を前にした絶望の裏返しでしかないのか?それはこれから、ジャック・ドゥミを再発見する現代の観客の一人一人に任されている。
ちなみに『ローラ』の続編でもある『モデル・ショップ』のヒロインは同じくアヌーク・エメで、相手役の、最後に「人はいつだってやり直せるはずなんだ」と呟く主人公は『2001年宇宙の旅』で人気の出たゲイリー・ロックハートが演じているが、ジャック・ドゥミがこの役を演じさせようとした俳優は、当時まだ無名のハリソン・フォードだった。
展覧会『ジャック・ドゥミ、映画/音楽の魅惑』
東京国立近代美術館フィルムセンター展示室、12月14日まで。
9月27日(土)『ベルサイユのばら』特別上映、11時30分~ 15時~
http://www.momat.go.jp/fc.html
特集上映『ジャック・ドゥミ、映画の夢』
アンスティチュ・フランセ東京にて開催中。
以後横浜、京都、大阪、九州の各支部にも巡回予定
www.institutfrancais.jp
『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』DVD&Blu-ray
発売 ハピネット・ピクチャーズ
http://www.happinet-p.com/jp3/