投稿者/みずしままさゆき(http://taidan.org)
去年の話になるが、野暮な仕事を頼まれミャンマーに行くとこになった。ぼくにとってはこれが海外初体験。一番初めが、まさかミャンマーとは思いもよらなかった。初体験とは、予期せずやってくるものなのだろう。ところで、野暮な仕事とは映像を撮ることであったのだが、そんな映像もほぼお蔵入り状態である。しがない映像屋の扱いなんてそんなもんだ。
仕事で撮った以外にもいろいろとカメラを回していたので、その現地の映像を交えてミャンマーについていろいろと思考したいと思う。
アップしているのは、撮ってきた映像をもとに編集をしてみたものなのでご覧いただけたら幸いだ。
2012年の10月までは、空路で日本からミャンマーへ行くには、北京やシンガポールなどを経由しなくてはならなかったが、いまでは成田からの直行便で行くことが可能になった。なぜ、そのようになったかは、ミャンマーの政治的なスタンスが変わったことが起因している。
ここで、ミャンマーの歴史をざっくりとまとめよう。
11世紀に、現在ミャンマーの人口の7割を占めるビルマ族による統一王朝バガン王朝が成立する。そこから、いっきに19世紀まで飛ぶが、3度にわたるイギリスとの戦争での敗北を経て、1886年に英国領インドに組み込まれ植民地となってしまう。このさいに、ビルマ族は、最下層へとおいやられるようになっていく。
しかし、第二次世界大戦がはじまる中で、独立の機運が高まるようになる。アウサン・スー・チーの父である、アウン・サンは反英独立運動のリーダーとして活躍していた。しかしながら、亡命を余儀なくされる中、日本の軍事支援をこぎつけることになる。そして再び、ビルマに戻り、後に「三十人志士」と呼ばれる独立運動を進める若者を率いて、海南島にて日本軍の軍事訓練を受ける。
その「三十人志士」と日本軍らにより、1942年、当時の首都ラングーン(現ヤンゴン)を制圧し、いよいよ独立国家誕生かと思われたが、そこは当時の情勢なのだろう。実質、日本が主権をとるという形で、独立が認められた。
当然、不満を持っていた、アウ・サンら。日本の戦況が悪くなる中で好機を狙い、反日統一組織を結成し、イギリスに寝返り、日本軍からビルマを奪還する。
だが、ここでまた独立の夢はついえる。イギリスが、独立を認めなかった。
アウ・サンらの粘り強い交渉により、1948年にビルマ連邦としてついに独立が認められるようになる。(だが、その前年にアウ・サンは暗殺されてしまっている)
ようやく、独立国家として歩みだしたかと思えたが、内乱に次ぐ内乱により、1962年に軍事クーデターから、軍事社会主義政権がはじまり、外資企業や外国人を追放する経済政策が始まる。この極めて、閉鎖的な状況の中で、1987年には国連から、後発開発途上国と認定される。
この軍事社会主義政権の中で国民は不満を募らせ、1988年に大規模な民主化運動が始まる。そうした流れの中で、登場するのがアウサン・スー・チーである。
アウサン・スー・チーは、父のアウ・サン死後、母とともにインドに渡る。そこから、イギリスのオクスフォード大学に留学し、さらにアメリカのニューヨーク大学で学ぶ。その後、国連にて働き、1972年イギリス人の男性と結婚し2人の息子を授かる。
そして、1988年4月に母の病気を見舞うため、祖国であるビルマに戻ることになる。そこで目にした現状から、民主化運動へと関わるようになっていき、その年の7月に、独裁政治を続けていた、ネ・ウィン議長が辞任する。こうして、ミャンマーに健全な民主主義が生まれるかと思った矢先の9月に国軍が武力により民主化を弾圧。ソオマウン大将を議長とした議会が設立され、新たな軍事政権が誕生する。
アウサン・スー・チーは、この状況下で、民主化を訴え全国を遊説するが1989年7月に自宅軟禁されてしまう。その後は、何度か釈放と軟禁を繰り返すことになる。
この軍事政権は、2007年10月に、テイン・セインが首相に就任すると徐々に民主化の道へと歩み始める。2010年11月にはアウサン・スー・チーが軟禁から釈放され、2011年3月にテイン・セインがミャンマー大統領に就任し、軍主導の政権から新憲法に基づいた新政府へと移譲され民主化されていく。
この民主化に至った経緯は、米欧による経済制裁や、それに伴い依存せざるを得なかった中国からの脱却、そして、アウサン・スー・チーによる民主化を訴える発信などが一つの要因とされている。
ここまで、ざっくりとではあるが、ミャンマーの歴史をまとめてみた。他国の歴史を知ることは学校の歴史の授業などで学ぶこと以外に、そう機会はないだろう。興味のないことを知ることは、新たな発見と驚きをもたらしてくれる。
さて、ここからは、そんな民主化が進んでいるミャンマーの現状を、撮影してきた写真を交えて紹介していきたい。
※あくまで元首都であるヤンゴンの様子である
この写真をみて分かるように、現在ミャンマーは急速に発展している。それは、天然ガス、宝石(サファイヤ、翡翠etc.)などの資源、安価な労働力など海外企業にとって魅力的なことがたくさんあり、民主化されたことで一気に資本が流れ込んできためである。
宝石を売る人たち。これらを買う人の多くは、海外からの観光客である。
商店街のようなお店とショッピングセンター。著作権的にNGなものが多く売られていた。どちらも、外国人観光客でにぎわっていた。
新聞を売る青年。車は、日本車が多く、中には中古のバスで日本語表記のままのものがあった。日本語表記だと、安心度がまし、より高値で売れるらしい。
ミャンマーで有名な観光地である「シュエダゴン・パゴダ」。日没ぐらいに行き、最後は夜景を楽しむのがお勧めだ。
※その他、よりくわしい街の様子などは、冒頭に載せてある動画をご覧いただければ幸いだ。
ミャンマーの美女を紹介したが、頬に白っぽいなにかを塗っているのがみられるだろう。
これは、ミャンマー式の化粧であり、お洒落な行為なのだそうだ。
この塗っているものは「タナカ」と呼ばれるものである。由来は「タナカ」という名前の木からであり、それをすりつぶし粉末状にしたものを塗っている。
(↑こちらがタナカの木、Wikipediaより引用)
また、ミャンマーの人たちはとてもシャイな人が多かったが、ひとたび打ち解ければ気丈な笑顔で返してくれるとても優しい人たちであった。
この犬の名前はまだない。名もなきまま死んでいくのだろう。それが野良犬の宿命だ。
いまでは、日本で野良犬を見かけることはそうないだろう。ぼくが小さいころ住んでいた田舎では、ごく稀にみることがあったのだが、最近はからっきし。それは、日本が先進国たる所以なのだろう。
さらに、先進国の犬は、洋服を着ている。着ているといっても犬が自ら着るというわけでなく、人間が着せている。本来は毛皮で覆われていて、それが、衣服の代わりとなっているのにも関わらず。
そんな疑問を感じ、犬に服を着せている友人数名かに、「なぜ」だと聞いたことがある。たいがい“寒そうだから、可愛いから”という回答であった。それは、その人自身の思いで、そこに犬の気持ちは入っていない。
だから、そういう場合、その友達がいなくなったすきを見計らい、その犬の服を脱がせ、ゴミ箱に捨てるという行為をぼくはよく行う。友達には相当非難されるが、犬は“喜んでそう”だった。
“~そう”というのは、勝手な思い込みであるためそこに根拠はない。そこに違和感という疑問が生じれば、それを調べ、正しいか、正しくないか考え根拠たるものを探すだろう。だが、勝手な思い込みが多数派になれば、それを疑問に感じないという、空気が産まれ、正しくなる。いや、正しそうになる。
なにが言いたいかというと、友達の服を着させている犬から、服を脱がせてゴミ箱に入れるという行為も多数派になれば、非難されずに正しくなるだろう。
だから、みんなで犬の服を剥ぎ取ろう。そして、犬本来の姿に戻してあげようではないか。
なんて、出鱈目な持論を言って、おしまい・・・。(そういえば、実家で飼っていた犬に、服を着せたことがあった。当時は、犬用の服があるとは知らず、自分が着ていて着られなくなったTシャツを無理やり着せようとした。相当嫌がってキャンキャン吠えて、噛みつかれた。でも、犬が好きである。そして実家の犬は洋服を着せている笑)
終わり
小原 祥嵩著「ミャンマー経済で儲ける5つの真実」(2013年)
投稿者/みずしままさゆき(http://taidan.org)