21世紀の幕開けとなった2001年9月11日の米同時多発テロは、芸術家にも強烈な衝撃を与えた。現代音楽の父カール=ハインツ・シュトックハウゼンが「今世紀でもっとも重要な芸術表現」とつい本音を言ってしまって大スキャンダルになったが、直感的にアルカイーダの強烈な「表現」の前に「先を越された」と実は思ってしまった表現者は、決して少なくあるまい。飛行機が世界貿易センター・ビルに激突し、端正なバランスでシンプルに直立したモダンなデザインの超高層ビルが呆気なく崩れて行く映像は、「表現」として確かにこの上なく強烈な効果を持ち、しかも当時5000人と言われた犠牲者の数にも関わらず(実際には3000人台だった)、その破壊の映像にはある種の美的感性と麻薬的な魅惑すらあった。
あたかも唐突に、偶発的にさえ見えたからこそ衝撃的だったあの映像は、実は巧妙に演出されていた。一機がひとつのビルに激突するだけなら、たまたま居合せたカメラで慌てて撮るくらいしか映像は残り様がない。だが世界貿易センターは二つのビルから成り、一方に飛行機が激突するとテレビのカメラはずっとその両方に向けられる。そうして世界中に一方のビルが煙をあげる映像が生中継されているのを見計らって、絶妙なタイミングで、固定されたキャメラの、全体像を写す画面にもう一機の飛行機がフレーム・インし、もう一方のビルに激突する。報道する側が誰かの直接の指示を受けたのでもなんでもないのに、すべてがアルカイーダの巧妙な演出の下に起こり、同時進行で映像となり、テレビを通して世界中で目撃された。
あれから13年、あの映像を表面では拒絶したかの様に装いながら、実はそれに取り憑かれていた世界は、どう変わったのだろう
我々はポスト9.11を乗り越えることが出来たのか?それとも次から次へと破壊の映像が提供される洪水のなかでただ「忘れた」、潜在意識の奥に押し遣っただけで、未だあのイメージのインパクトに実は支配されているのだろうか?
得体の知れないままに名前だけが世界のメディアを闊歩した、幽霊めいた組織アルカイーダであったものは、今は「イスラム国」、ISISと呼ばれ実態ある国家的領域さえ支配し、従来の国境・国家観を明らかに脅かしている現実の政治勢力に変貌している。
アルカイーダは巧妙に演出された破壊のイメージで世界を亡霊のように裏から、ダイレクトに人々の心に入り込むことで支配した。「イスラム原理主義」、あたかも一部の極端な信仰心であるかのような話は、まやかしのイメージでしかない。実は世界中の人間の意識が、世界貿易センターに飛行機が激突するあのイメージの衝撃にこそ支配されてしまったのだ。
一方、今では国家的実態を持つまで成長したイスラミズムの、その現実の政治権力の実態を伴った映像が、倒壊する世界貿易センターのイメージや、オサマ・ビン・ラディンの顔写真のように世界のメディアやネットを占有し、世界中の人間の脳裏に刻み込まれることはない。国際メディアやネット上では、「イスラム国」という新たな歴史のフェーズは意味がよく分からないから需要がないとでも言うのだろうか、イスラエルとパレスティナのガザ戦争という、従来型の対立が激化した戦争にばかり、興味関心が傾きがちだ。こうして明らかな政治的実態を持つISISの方が、まるで幽霊かなにかのように、漠然としたものとして受け取られがちなのも現状だ。
9.11はイメージの産業の中枢にあった映画の世界をとりわけ動揺させた。ロバート・アルトマンが「アルカイーダはハリウッドがさんざんやって来たことを現実で再現しただけだ」と切り捨てたことに、実はすべては凝縮されているわけだが、まず直接に起きたこととして、例えば当時編集中だったマーティン・スコセッシの『ギャング・オブ・ニューヨーク』は、ラストの現代のニューヨークのスカイラインに世界貿易センター・ビルを含めるかどうかも含め、アメリカという社会を形成した背景にある暴力の問題とどう向き合うか、この新たな時代に極度な暴力描写とはいえあくまで演じられたものをどう提示するのかの模索で編集期間が延長され、約一年公開が遅れた(編集スタジオが事件現場の近くで、という一部報道は間違い)。
南北戦争の時期のニューヨーク、暴力と貧困とそこに鍛えられたからこそのバイタリティに彩られた裏のアメリカ建国叙事詩であったこの超大作も含め、2001年冬シーズン以降2002年に公開されたアメリカ映画のほとんどは、9.11の前に撮影されていたり、ポスト9.11の最初のヒットシリーズになった『スパイダーマン』など、脚本も企画もアイディアそのものからして9.11以前のものばかりだった。80年代後半からあまりに製作費が肥大した結果、一本の映画が数年がかりの大事業になってしまっているハリウッドの弱みが、唐突な大事件にまるで小回りが利かない形で、露骨に出てしまった。
アメリカ映画が9.11と向き合うにはまだ数年、たとえば2005年のスピルバーグの『ミュンヘン』を待たねばならない。
『ミュンヘン』で、スピルバーグはあえて世界貿易センター・ビルがラストに映し出し、大変な論争を巻き起こすことになる。ミュンヘン・オリンピックでPLOの武装集団「黒い九月」がイスラエル選手団を虐殺したことに報復するモサドの暗殺作戦を冷徹に描いたこの映画は、それがまさにイスラエル国家によるテロルだったのではないか、との疑問を強烈に突きつけた上で、このラストに至る。あえて世界貿易センター・ビルを見せることで「敵側」ではなくこちら側のやったことこそが9.11に繋がったのだとも考えられることを、数年経っても多くの人は受け入れようとしなかった。自分もそこに所属し依存する国家にはなんらかの正当性があり、テロ集団とは違うはずだと、どうしても信じたかったのだ。そのハタ目にはあからさまな国家の自己イメージと実態の差異は、アメリカの意図に反し(その実アルカイーダの巧妙な演出に乗せられて)、冷戦終結後の世界のアメリカのヘゲモニーを呆気なく自壊させてしまった。
9.11事件に真っ先に向き合おうと志を持ったのは、アメリカでなくフランス映画のプロデューサー達だった。11人の世界の映画作家にこの事件をテーマにした11分9秒と01コマの短編を依頼し、オムニバス映画『セプテンバー11』が2002年に早急に製作され、同年のヴェネチア国際映画祭でお披露目された。
事件から13年を経た今見直すと、個々には優れた作品も含まれるものの、困惑と居心地の悪さを覚えずにはいられない。たとえばボスニア・ヘルツェコビナのダニス・タノヴィッチは、あえて9.11事件ではなく内戦の傷痕からの心の回復を丁寧に描く静謐で美しい作品を作り上げたし、ケン・ローチは自作『レディーバード・レディーバード』に主演した亡命チリ人のヴラディミール・ヴェガの主演で(本職の俳優ではなく、ジャーナリスト)、アメリカが肩入れしたピノチェトの軍事クーデタの日付けがやはり9月11日であったことから、アメリカも加担した国家による国民に対するテロ行為を告発する、痛烈にして見事な政治プロパガンダ映画を作り上げた。どちらもそれだけ見れば、優れた短編だ。
日本を代表した今村昌平編は、なんと9.11とは一切関係ない。戦時中の日本の農村を舞台にし、江戸川乱歩の『芋虫』に着想を得た、戦場で気が触れてしまった元兵士の物語である。そして最後に主人公画いわば自然に還り、「正義の戦争なんてない」というナレーションが力強く締めくくるこの作品が、この11本を締めくくる最後を飾った。
理屈だけで言えば今村がある本質をついていると言えなくはないし、それはローチもタノヴィッチも同様だ。しかし一方で9.11とは関係のない自分のやりたいことをやっただけにも見え、あのテロ事件の意味に正面から向き合ったわけではない。
ほとんどの作品が、ニューヨークであの事件が起きた時に別の国では、という体裁をとっているなかで、アメリカ代表のショーン・ペンはそのニューヨーク、それも世界貿易センター・ビルのほぼ真裏のアパートに暮らす老人を主人公にした。50年代から活躍して来た名優アーネスト・ボーグナインの演技が素晴らしいこの作品は、ある意味で確かに世界が大混乱に陥った事件の「別の側面」を最後に見せて終わるのだが、今見るとこの作品がいちばん痛々しく思える。と同時に、それは大なり小なり11本の作品のほとんど(なかには駄作もある)、『セプテンバー11』全体に感じる居心地の悪さでもある。
9.11をただ「非合法組織のテロ事件」と片付けるのは安易だし、『セプテンバー11』のほぼすべての作品がその安易さに懸命に異議申し立てをしようとしてはいる。だが国家間の戦争に替わる新たな戦争の形を世界規模で提示していたのがアルカイーダであることに気づくには至らなかったのか、多数の犠牲者を出したアメリカに遠慮したのか、結果として異議を示すための異なった視点を提示することも出来ず、ただ9.11を相対化させるばかりで、その意味と向き合うことに至っているとは言い難い。
この新たな戦争のやり方を、従来の戦争のルールに反するからと言うだけで「テロ」を絶対悪として断罪した時、世界は大きな過ちを犯していた。だが本質的に同じ限界は、「世界の他の場所でも大変なことが起こっている」に終始した『セプテンバー11』も共有するものだ。ポスト9.11の先進国の世界は「テロとの戦争」の「正義」を闇雲に信じる者と、「アメリカだって同じじゃないか」と言えば自らを高所に置いたかのように思い込める「正義」のやはり原理主義的な信奉者に分断され、アルカイーダが提示した新しい戦争の形は、その先進国の限界を巧妙に利用して増殖して行った。CIAがオサマ・ビン・ラディンの暗殺に成功し、その死体とされる写真が世界に配信されたところで、それはただイメージの戦争をさらに増幅させる意味しか持たなかった。オバマのアメリカはそこに気づかないまま、「テロとの戦争は終わった」と思ってしまった。
アルカイーダのやったことこそが「21世紀の新たな戦争の形」であり、それが従来あった戦争の延長上でも実はあることに取り組み、唯一直接に世界貿易センターの破壊を題材にしたのがメキシコのアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥだ。近代史において戦争は、常に国威発揚のための演出でもあった。ではこのテロ事件はどういう演出を持っていたのか? 警察や消防の無線通信、電話の通報の音声をつかい、事件そのものの映像をハイコントラストのモノクロに加工し、それを瞬間瞬間だけ見せ、インパクトを積み重ねる手法は、あの事件のショックと恐怖を創造的に観客の眼前に再現する。そのショック効果、イメージの戦争こそがこの新たな時代の戦争であることを見抜き、破壊的効果を最大限引き出したのはいい。だがイニャリトゥの短編はそこから先に向かう代わりに、なんとも安易な反宗教、結局は安易なイスラミズム批判に陥ってしまっている。
誰もが「9.11とはなんだったのか?」、そのインパクトを直視・観察・分析出来ないなかで、痛烈な皮肉の変化球で「テロという形式の戦争」と「イメージの戦争の時代」を凝縮させたのが、9.11以前から各地で自爆攻撃事件が起こっていたイスラエル(2000年9月から第二次インティファーダが始まっている)のアモス・ギタイで、また意外なことに11分9秒と01コマという形式に意味を持たせたのも彼だけだった。テルアヴィヴのヤッフォ(アラブ人街)近くのエルサレム通りで起こった自爆テロから始まり、11分のワンカット、つまり爆発直後に起きた混乱をその時間内だけ凝視するのだが、その「混乱」の中身が凄い。
たまたまその近所にパン屋の取材に来ていたテレビ・レポーター(ケレン・モール)が、偶然居合せたこの特ダネをリポートしようと大奮闘を始める。だがテレビ中継は駆けつけるのには時間がかかるだけ彼女はラッキーだったとはいえ、数分後にはプロの報道写真家やアマチュアのカメラマン、さらには写真機能つきの携帯電話を持ったただの一般人までが、軍と警察の制止も聞かずうようよと湧いて来るように現れてそれぞれに映像を撮影し始め、キャメラの前ではイスラエルとパレスティナ、抑圧する側とされる側、テロ攻撃を受ける側と攻撃した側との対決とはまるで別種の「戦争」がこの作品のメインを占める。同じ国民、同じ「側」どうしで、新たな時代の権力を左右するイメージの撮影者/報告者であろうとする者達と、従来型の権力の戦争である。
新たな時代の戦争の本当の兵器はイメージであり、暴力と流血はイメージを創造するための被写体でしか実はない。死者もまた、そのイメージにより強烈な意味を持たせるためにこそ犠牲になっている。この短編はそのイメージが大量生産されるテロ事件の現場が、たまたまニューヨークの事件とほぼ同時に起こっていた、というオチでヒロインの特ダネが消えてしまって終わる。今ならばツイッターやフェイスブックのタイムラインが大量の、たまたま居合せた人の撮ったイメージで埋め尽くされ、しかし数時間もしないうちにニューヨークの事件の方に関する写真やビデオ投稿のリツイートでかき消されてしまうのだろう。
この軽薄なる、瞬時のインパクトだけが増幅拡散される、大量の、本質的に同じものしか表象していないイメージの洪水というテロルに対抗するかのように、11分間のワンショットの凝視・観察の視線を持続させたこと、それに痛烈なユーモアと空間とキャメラと人物の丹念なコレオグラフィも含め、「イスラエル人は慣れている」こともあるのだろうが、このギタイの冷静さだけが結果として、「9.11とはなんだったのか?」を観客に考えさせることにつながるなにかを提示している。
作品の理知的な冷静さの一方で、撮影現場ではすべてが完璧な振りつけに達しOKテイクが撮れた直後に、全員が泣き崩れたという。確かに人命が失われている(ニューヨークだけでなく、当時のイスラエルでは既に日常的に)。だが彼らが死ななければならなかった本当の理由を考えると、恐ろしく虚しい。人命も死も、予め消費されるイメージに還元されてしまい、そのイメージにはより多くの暴力と死のイメージを産み出す効果しかないことが、分かってしまったのだ。この世界は、いったいどこに向かうのか?
13年経てば明らかなように、アルカイーダの始めたイメージのテロルによる戦争という戦略は、まさに彼らの演出が狙った通りの方向に世界を、とくにアメリカを進ませてしまった。直接に死と暴力に向き合ったニューヨークでは「なぜアメリカはこんなことをされるほど嫌われてしまったのか?」という疑問も生まれていたが、そんな歴史的・哲学的なアイデンティティの自問自答は、瞬時に消費されるイメージの時代の速度についていけない。アメリカはアルカイーダの演出の狙い通りに拙速に「テロとの戦争」を始め、恐らくはアルカイーダ自身の流した情報で彼らの宿敵サダム・フセインを攻撃対象にし、アフガンで、イラクで、自ら国家によるテロルに手を染め、それまで世界から得ていた信頼と尊敬を自ら棄ててしまった。あろうことか、アルカイーダもそこまで期待はしなかったろうと思えるほど、誤爆と一般市民の巻き添えばかりが増大し、イラク戦争開戦に至る手続きの傲慢な乱暴さだけでも世界の不信をさらに強めただけだ。
「なぜアメリカはこんなことをされるほど嫌われてしまったのか?」9.11の当時、アルカイーダに賛成する者など中近東でもほとんどいなかったが、ニューヨークの被害に同情する世界の圧倒的多数が、一方でやった側の気持ちも分からなくはない、アメリカの自業自得ではないか、と思ってもいた。アルカイーダはそこからこそ産まれ、そして必然的に膨大な破壊のイメージを産み出すテロ事件、現実世界を巧みに演出したイメージの戦争によって、アメリカをより自らが世界から嫌われるような行動へと誘導したのだ。
『セプテンバー11』に参加した作家たちのほとんどが、アメリカが、そして西洋世界がその方向に走らないよう警鐘を鳴らしたい意図は確かに持っていた。とりわけショーン・ペンはだからこそ、世界貿易センターの破壊がささやかなハッピーエンドにもなる映画をあえて作ったのだろうし、ケン・ローチも、タノヴィッチも、イランのサミラ・マフマルバフやエジプト代表でパレスティナを描こうとしたユーセフ・シャヒーンも、だからこそ9.11と同時にアメリカ以外で起きている悲劇や悲惨を見せよう、その当事者にとっては、アメリカの大事件も「他人事」にしかならないことをあえて提示しようとしたのだろうが、世界の流れ、21世紀を支配するイメージの奔流に影響を与えることが出来なかった以前に、13年経ってみると、そもそもほとんどの短編がそういう強い映画にはなっていないし、それを成し遂げる構造すら見い出せていない。ニューヨークで直接死と破壊に向き合った被害者に遠慮した結果中途半端なのか、それとも9.11の本質的な意味があまりにゾッとする新たな世界像だったからこそ、それを考えることから逃げてしまったのか?
「正義」を名乗る戦争を否定しようとしたイニャリトゥも今村ですら、行きついたところは結局は同様だろう。今村さんは最初からこのチャンスに、自分が長年暖めていた戦争の狂気についての映画を、シレっとして作っただけのようにも見えるが。
そもそも「正義の戦争なんてない」「神の光はあまりにまばゆく」と言ったところで、最初からアルカイーダのイメージの戦争の本質は信仰的熱狂ではなく奸智に長けた誘導の策略で、信仰や「正義」もまたただの表層の、消費されるイメージに過ぎなかった。そのイメージの効果にあっけなく誘導されてしまったアメリカやその同盟諸国の「テロとの戦争」もまた、「正義」と言うにはあまりに薄っぺらな、思慮に欠けた危機と恐怖の感情(それがイメージによって極度に増幅して演出された)の脊髄反射と、あとは制度的権力の枠組みの自動仕掛けの結果でしかない。
一方、9.11以前に世界のイメージの産業の頂点にあったアメリカ映画は、アルカイーダの演出した現実の事件に自分達が超えられてしまった事態に対して途方に暮れるばかりで、対応と言えばCGで世界貿易センターを画面から消すかどうか程度の話に明け暮れてしまった。アメリカ文化の「ヒーロー」の座はハリウッドの創造して来た人間性の神話ではなく、ジョージ・ブッシュやアメリカ軍というあまりに薄っぺらな、虚構の「正義」(というか虚勢)しか持てない空虚なイメージに奪われてしまった。
それ以前の時代のアメリカ映画なら、ハリウッドの商業大作でも世間の流れに微妙に逆らうか、そこに批評的な視点を持ち込む芸当は持っていたし、そのヒーロー像は「20世紀の人類の神話」にふさわしい厚みと複雑さを備えていた。20年代の経済大繁栄の時代だからこそチャップリンやキートンの演ずる名もない庶民や浮浪者、最下層が主人公の喜劇や、金銭や社会的成功だけではない人間性の意味を訴える映画が作られ、30年代は大不況だったからこそ夢を見させつつ庶民を勇気づける映画の一方で、刹那的な空気と権力への不信感を背負ったギャング映画が大流行し、アメリカ文明の絶頂期だった50年代には、だからこそ社会の腐敗を暴き成功の価値観を揺さぶるドラマや、とくに暴力の病理を問う西部劇や戦争映画、アメリカン・ドリームそのものを問う映画が、ハリウッドでこそ作られていた。そしてヴェトナム戦争の時代は、アメリカの反戦映画の黄金期でもある。
しかしポスト9.11の時代に、ハリウッドはテロ事件の危機と恐怖の感覚の反動でテロへの戦争に突き進む国家と社会に、ちょっとでも待ったをかけるか、少なくとも考えさせる映画を、作り出すことがほとんど出来なかった。
スピルバーグの『ミュンヘン』はその僅かな例外のひとつであり、業界内で大きな力を持つスピルバーグだから出来た「テロに対する国家の報復」というまやかしの正義への疑義、暴力の病理への警鐘だったのだろう。しかしかつてのハリウッドのようにその複雑さを背負ったヒーローをただ提示する代わりに(ジョン・ウェインのような当時のスターは、それを納得させるだけの存在感があった)、現代の観客に「分かり易く」しようとする結果、せっかくのスピルバーグならではの暴力描写の迫真性と適確さの持つ、イメージの重層的で豊かな雄弁さにも満ちあふれた映画にも関わらず、感性や感覚よりも台詞による理屈に大きく依存する構造になってしまっている。
ポスト9.11の時代のアメリカの反体制派映画でひとり気炎を吐いたかに見えたのがマイケル・ムーアだ。だが『華氏9.11』は、ブッシュの「テロとの戦争」がアルカイーダの意図的な挑発に対する(その実、まさにアルカイーダの計算通りの)ヒステリックな反応に過ぎないのに対して、そのブッシュに対するヒステリックな反応に終わってしまっている。
そんなアメリカ映画の逡巡と停滞の時代に、フットボールの映画やらアレクサンダー大王の伝記史劇やらに手を染めて、「反体制派」の看板は返上してしまったかに見えていたオリヴァー・ストーンが、なんと『ワールド・トレード・センター』(2006)という、9.11事件のいわば「被害者の側」べったり(つまり「テロとの戦争」正当化)に見える企画を撮り始めてしまうに至っては、ストーンを反体制派だからこそ支持して来た者の多くは、この映画を最初から「裏切り」と捉え、真面目に見ようとすらしなかった。
確かにこの企画だけを聞けば、ついにハリウッドはただ金儲けのために、アメリカ政府のプロパガンダ機関に成り下がってしまったかのようにすら見えてしまう。世間が『ウォール街』とくに『JFK』の監督に期待するのは、9.11事件からテロとの戦争に至る政治の流れの裏の陰謀でも暴くような「9.11映画」のはずが、『ワールド・トレード・センター』は救助に入った世界貿易センターが倒壊し、閉じ込められた消防士の実話だ。その図式だけなら「愛国万歳」に思えてしまう。
しかも出来上がった『ワールド・トレード・センター』は確かに、その実体験に恐ろしいまでに忠実だった。主人公はカトリック教徒で中産階級の下程度の消防士、アメリカ保守層のひとつの典型像ある。閉じ込められた暗闇のなかで必死に祈る彼に、聖母マリアが現れるという話まで聞けば、いったいどういうことなのかと思ってしまう。
だがそうした、見もしないのに増幅されるイメージこそが、9.11に始まった新たな戦争の形の本質であるとしたら、それに抗う手段とはもう一度ものごとを良く見て、観察し、個々人が自分の力で考えると同時に、自分と異なる他者をまず同じ人間として差異を尊重するしか、ないのではないか?
『ワールド・トレード・センター』はまったく前評判通りの物語でありながら、実際に見せられる映像と聴こえる音声は、そんな予断を徹底的に裏切る。オリヴァー・ストーンの演出の主人公への寄り添いぶりは、『プラトーン』や『7月4日に生まれて』のような反戦・反体制映画の、ある理念や正義感に基づいた寄り添い方とは、まったく異質なものだ。
映画はニコラス・ケイジ演ずる主人公を、カトリックで保守的な消防士という図式で同化・擁護ないし称揚するのではまったくないし、命がけで救援に向かった彼を「ヒーロー」とみなすのでもない。まったく予想もしていなかった突然の事態に巻き込まれ、その意味も分からない、なぜ起こったのかも知らないまま、なんとか自分の仕事をこなそうとする普通に善良な一人の人間が、助けようとした市民も、仲間も死んでしまうのを見る。そして倒壊したビルの瓦礫の下に閉じ込められる、その絶望と孤独にこそ、ストーンの演出は徹底して寄り添う。
キリスト教保守そのものでは、とえらく批判された聖母のイメージの登場にも、まったく違和感がないと同時に、そこにことさら政治的な意味を見いだせないようにもなっている。ただ主人公がカトリックで、孤独と不安と絶望と、自分が命を救えなかった人たちへの罪悪感に苛まれるなかで、すがれるのが慈悲深い聖母であるというだけ、純粋に彼個人の心のなかの問題であり、それが「奇跡」だったのか彼の幻想だったのかにも、映画は踏み込まない。ただ一人の男が理解不能な絶対的な孤独のなかで、そのイメージを「見た」というだけだ。
ごく普通に善良な男の持った、ごく自然な神のイメージ、それは信仰が異なれば別の映像になるのだろうし、自身もまた別にキリスト教の信者というわけでもないストーンは、ただ対等にこの主人公の心の問題としての信仰を尊重している。一見、ごく普通のことをやっている、特殊な意味付けをまるで求めないストーンらしからぬ演出こそが、ポスト9.11のイメージの戦争の時代には、真の映画のラディカリズムだったのかも知れない。
なぜなら、主人公の見る聖母のイメージは彼個人だけのものであり、ただ彼の心をのみを支えるものであり、決して政治にも宗教対立にも、イメージの戦争を戦う匿名性の大衆にも還元されない。ただこの消防士、この一人の人間が、死と向かい合う絶望の淵の、孤独のただの中に、聖母のイメージを見ただけのこと、それが彼という個にしか所有できず他の誰にも消費して意味付けすることの出来ないイメージだからこそ、消費される刹那的なイメージの洪水の戦争と本質的に異なっている。
『ワールド・トレード・センター』はテロ事件の被害の側を描きながら、それを国家のコレクティヴな体験に搾取されることを拒絶する。死と現代文明の破壊を直視する絶対的な孤独を本当に直視したとき、国家も愛国心も教会も、なんの拠り所にならず、国家の提示する「正義」のイメージは逃げ場にならない。人はそんな時にどう生き延びる、人間であり続けることができたのか? それを提示することにこそオリヴァー・ストーンが見い出した、「テロとの戦争」と呼ばれるイメージの戦争と唯一闘えるやり方があった。それは9.11の後途方に暮れていた映画というメディアが、その意味を取り戻す契機であったのかも知れない。
極めて基本的な単純なことでもある--ただ「個」の独立性を取り戻し、国家や社会に隷属するのでない他者を尊重すること。映画の基本原理そのものだ。
だが現実の世界の大勢も、映画の業界も、この真逆の方向に進んでしまったのが現状だろう。今米国は、実は自らが作り出したに他ならないアルカイーダの亡霊が現実と化した「イスラム国」との対決に追い込まれている。残虐行為の瞬間瞬間のみを消費するイメージの戦争は、SNSの登場を経ていよいよ危険な状態になった。
もはや多くの人は、自らが消費しているイメージを本気で見てすらいない。ただ自らもその戦争の無自覚な、個人としての神経と感性の麻痺した参加者となって、拡散させ続けるだけだ。そうやって匿名性の国家の集団性に埋没する者達にあのような聖母のイメージが見えるはずもなく、そして映画というものすら本当には見られなくなってしまう流れも、いよいよ加速している。