8月8日、金曜日午後5時過ぎ、経産省前テント広場には毎週金曜日の抗議行動の為に人が集まっていた。日本人が広島、長崎への原爆投下や終戦の日を思い出し始める8月上旬、東京では焼け付くように暑く、人々の影がアスファルトにくっきりと落ち、風が強く吹く日々が続いていた。1945年の夏、人々は本当に「影」になってしまった。
午後5時過ぎ、経産省前のテントには長テーブルが並べられ、七夕の笹が飾られ、缶バッジやステッカーや手ぬぐいが販売され、チラシが配られ、いつも抗議行動に来る方が差し入れてくれるというキュウリやナスやゴーヤなどの有機野菜が売られていた。そしてテントを埋める脱原発のスローガン。「火山の中の川内原発2度と動かすな!」
テント前広場で、小学校低学年くらいの女の子がひとりでに「福島の為にカンパお願いします!」と叫んだ。女の子は少しすると広場で泣き出し、テントのおばあさんが女の子を慰めていた。
テントの右側のパイプ椅子に座っていた90歳のおばあさんは、毎週金曜日バスに乗ってテント前広場に来る。「家で文句を言ったって仕方ないから、ここに来て意思表示をするんですよ」と彼女は言った。肌がつやつやとしていたので「肌がキレイですね」というと彼女は照れて「太ってるからよ」と笑った。彼女は映画が好きで、神楽坂にある映画館の年間会員だ。耳が遠いので、字幕のついている洋画をよく観る。彼女は太平洋戦争が始まったとき17歳だった。
交差点付近には、ホームレスの自立支援をする雑誌BIG ISSUEの販売員が2人。一冊350円で、180円が販売者の収入になる。彼らのうちの1人は名刺まで持っていて、テレビにも出演した、と健康的な笑顔で語っていた。話好きで明るい。BIG ISSUEの収入一本で、東新宿に住む場所も持っているという。交差点の反対側で販売していた方は、BIG ISSUEから得られる収入で漫画喫茶に寝泊まりしたりしているという。最新号の表紙はオーランド・ブルームだった。
海外から経産省前のテントへの訪問者も数名いた。眼鏡をかけ、黒いTシャツを着た韓国から来た男性は、テントの写真を取り、日本語は話せないが、テントの前に並べた長テーブルで当番をしている人々とコミュニケーションしていた。水色のリュックを背負ったフランス人の細身の青年は、夜遅くまでテント広場にいて、経産省前での抗議を見つめていた。彼は数年前日本に住むことを考えていたが、原発事故があったため計画は頓挫。経産省テントの運動は熱心で素晴らしいが、日本での脱原発運動の小ささには正直失望もしていると言う。ヨーロッパと比べて大衆の考え方が遅れている。彼は情報を得る為にテントを訪れているが、しかし英語で書かれた情報が少ないと彼は言う。情報の翻訳を申し出たこともあるという。アートをやっているという彼は、友人を描いたポートレートを見せてくれた。
この日はテント広場でいざこざが起きた。現在福島県では、いわき市だけが給食で福島産のお米を使用していないが、次の新米の季節から、いわき市でも福島産のお米を学校給食で使うという。それに反対する署名をテントで集めていた女性のところに、1人の男性が歩み寄り、「いわきの子どもだけを助けるのか!?」と食ってかかった。「これがチェルノブイリなんですよ!」と女性は、放射能に汚染された食べ物を食べることで子供達の体に異変が起きることを説明した。言い争いはしばらく続き、周りの人々が仲裁に入った。別の感情的になっていた大柄な身体障害者の男性が「お米は炊けば大丈夫だ!」と主張し、付近にいた日本代表のユニフォームを着た若い男性を2、3度突き飛ばした。男性は怒りと戸惑いの表情を浮かべたがやりかえさなかった。言い争いは仲裁され、男性は「皆これからも脱原発頑張ろうな!」とテント広場の人々に手を振り、横断歩道を横断して行った。
日が沈むと、経産省前で「火炎瓶テツと仲間達」による演奏や太鼓やシュプレヒコールが響き始める。抗議行動に集まった人々は、プラカードを掲げたり、カメラを回したり、ツイキャスで生中継をしたり、楽器を鳴らしたりしている。「火炎瓶テツ」さんのMCの元、ひまわりの花束を手に持った女性、会社帰りの男性、ミュージシャン、緑の覆面を被った女性、活動家など、様々な人々が社会の様々なことについて語った。社会問題は耐えることが無く、時に複雑で、時代とともに変化し続ける。暑いので、手伝いに来ている女性が抗議行動で歩道に長い時間立っている参加者にお茶やスイカを配っている。「火炎瓶テツ」さんは、川内原発がまだ再稼働していないのは、我々が抗議行動を続けているからだ、抗議行動は無駄ではないと述べた。赤い帽子を被った若い青年が、経産省のビルを真っ直ぐ見据えながら「 イスラエルに武器を売るな!」と叫んだ。ガザでパレスチナ人が大量虐殺されたことを受けて「ガザに平和を」というプラカードが目立った。安倍総理が広島で行ったスピーチがコピペだったことや、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句が掲載拒否され、行政による言論弾圧が起きていることも話題に上った。
スーツ姿の仕事帰りの人々が何人も経産省前の抗議行動を通り過ぎてゆく。中には耳を塞ぎながら通り過ぎる人々もいる。通行人に丁寧に「お話を聞いていって下さい」と声をかける小柄な女性がいたが、8月8日は、足を止めて話を聞いてゆく人は一人もいなかった。通行人達は霞ヶ関の地下鉄の中に真っ直ぐ消えて行った。抗議行動参加者の中には、素通りしてゆくサラリーマン達を睨みつける人もいた。その日最後にマイクを握った男性は、沖縄では9月2日まで戦争をしていたから、本当の終戦記念日は9月2日だ、自分は加害者の語る歴史を聞いて育ってしまったと言った。「ここに来ると、人間も動物なんだということを思い出すことができます!」と彼は言った。
テントに戻ると、脱原発の1つの拠点、目に見えるシンボルとしてのテントをずっと体を張って守ってきた人々がささやかな宴会をしていた。暑すぎない夏の夜だ。彼らは穏やかな雰囲気の中、ビールを飲み、つまみを食べ、語り合っていた。しかしその穏やかさは、緊迫の裏返しなのだと彼らは言った。テントでは、正直に言葉を語ることができ、それが故に言い争いになることもあるというが、それは正直さが故の言い争いで、悪いことではないと言う。ビールを飲むかどうかについても賛否がある。ウェストポーチに、脱原発と書かれた日の丸の国旗をつけていた女性は、「この『日の丸』だけでも文句言われたりするのよ」とおかしそうに、楽しそうに言った。「テントはいいとこよ」と年配の男性が言った。
約一ヶ月後、9月11日で、経産省前テントができてから3年が経つ。