恐らく今年の邦画最大のヒット作になるであろうことに困惑する以上に、映画自体がとても困惑させられる作品だ。いや「見るからに特攻を美化した極右映画」だから困惑するのではないし、それは原作の小説ですらそういう構造にはなっていない。
安倍晋三首相のオトモダチとしてNHK経営委員にまでなりながら問題発言の絶えない原作者だが、薄っぺらで愚かしいまでに子どもっぽいにも関わらず、そこに非常に複雑な屈折が解消不能なまま鬱屈しているのは、原作でも同じだ。ややこしいことに作者のメッセージは、まるで「特攻隊の美化」ではない。本人はそうしたかったのだろうが、まるで出来ていない。「特攻隊員は平和主義者だった」と、なんとか現代の、平成の価値観で特攻を美化しようとする自己矛盾に、作者も支持する読者も完全に無自覚であり、その矛盾を解消するためでもなく、かといってそもそも人物の性格設定もまた極めて平成のニッポンなので緻密な心理描写で特攻に向かう主人公を正当化できるわけもなく、ただ無為に平板な修辞語が無造作に大量使用されているのが、小説『永遠の0』の特徴だ。
はっきり言えば文学的には「下手過ぎて軽薄で無駄だらけでお話にならない」、オリジナリティも技巧もなく小学生の素朴な作文に劣るレベルではあるが、官製の読書感想文コンクールで入選できるためのお約束事だけはどれもクリアはしているのがミソである。その意味で『永遠の0』は極めて「平成のニッポン」的な小説だ。
だが文章だけならそれでも成立するかも知れないが、映画となるとことは厄介だ。脚本に書かれた通りのフィクションであっても、映画は生身の俳優が演じなければならない。そして偉大な踊り手(舞踏家と言ったら本人に叱られるのでこの肩書きにする)田中岷からジャニーズの人気イケメンに至るまで、さすがにテーマが特攻なだけに、それぞれに真剣に自分の役柄を考えてもいる。まったく原作の通りであればその演技は即座に破綻するだろうが(人間的な一貫性のない、作者の「言いたいこと」に準じた自己矛盾だらけの記号でしかないので)、脚本も演出家もその原作の欠点は織り込み済みで、それなりに役者が演じられるだけの人物造形はちゃんとしている。
結果、映画『永遠の0』は原作から、あるいは原作者の言動から想起される類型的なプロパガンダ映画(「特攻隊員は平和のために死んだ平和主義者なんだ」)にはなっていないし、原作のままだったらせいぜい漫画にしかなり得ないところが、よくぞ揃えたこのキャスティングだけに、それなりに映画にはなっている…のが、実はこの映画のもっとも困惑させられるところでもある。
映画になっていると同時に、だからこそ物語映画としては、完全に破綻しているのだ。
平和主義で人命も大切だと思っていた人たちが、なぜ特攻という戦法を受け入れるのか、漫画なら原作者のマンガチックな感性に準じて「ニッポンのためだ」だか「世界の中心で輝く日本!」で誤摩化せてしまうのだろうが、本当は文学でだってそれは無理だから、膨大な無意味な言葉の数と、無駄な長さそれ自体がカムフラージュとして機能していたのだが(つまりクライマックスに辿り着いた頃には、読者は小説の冒頭の人物たちを忘れている)、映画でそれをやろうとしたら劇場の上映時間には収まらない。しかも商業映画のお約束で一貫した筋と人物を一応は追わなければいけなかった結果、途中でなにに共感しどこに感動したらいいのか、わけが分からなくなってしまうし、演出も困惑しているのだと見てとれてしまう。
現代の商業映画だけに、CGIなど特殊効果もふんだんに使われ、空中戦や特攻となるとハリウッドSFばりのアクションにもしなければならず、いかに機動性に優れた零戦でもこんなことやったら空中分解する、エンジンの出力がついていかない、といった軍事マニアからの突っ込みもあるだろう。その意味では、特攻をもっとも美化しているかも知れない観客層を平然と裏切ってもいるのだが、そうした映像と音声の表層の派手さでなんとか主人公の死を盛り上げて誤摩化す、という以外に終わらせようがなかったのだろう。
だがそこで、なぜこの映画に多くの人が「感動」出来るのか、また演出もなぜこうも「感動」のテクニックをふんだんに注ぎ込めたのかに困惑してしまう。そうすべき作品的な、演出的なモチベーションが、なにしろどこにも見当たらないのだ。別に「戦争はいけません」とか「命は大事です」という以前の問題で、なぜ主人公が死を選ぶという重大過ぎる決断をするのかが、鬱病患者の自殺願望でも想定しないことにはさっぱり分からないどころか、そこに至ることをなにも感じさせないのだ。
実際に特攻を生き残った人たちに出会えば、論理的な説明は難しいにも関わらず、なぜこの目の前の好々爺然とした、善良な、やさしくさえある人が、かつて特攻なるはっきり言えば「狂気の戦法」にしか見えないことをやったのかは理解できる。いや彼らが率直に語る自分なりの理由は、不条理でありながら極めて説得力があった。だがそれを劇映画として表現するのはほとんどの監督にとって不可能かも知れない以前に、『永遠の0』はどんなに出演者や演出家、脚本家が頑張っても、しょせん戦前戦中の社会の空気自体が、たとえば『硫黄島からの手紙』のそれと違って平成のニッポン的なフィクショナルな前提としてしか見えて来ない。「その時の空気のようなものでね」と生残りの老人がさらっと一言でいってしまうことの複雑さが、やはりこの映画にはどこにもないのだ。
たとえば『硫黄島からの手紙』なら、栗林中将も、嵐の二宮君が演じた上等兵も、はっきりと矛盾した人物である。彼らが自分の抱えた矛盾にどう折り合いをつけたのかをイーストウッドはあえて描かないが、どこかである程度の折り合いをつけながら、自分のやっていることが間違っているし自分の意思にも反するが、それでもやらなければいけないし、それはただ強制されたからでもない、明らかな誤りのなかで生きなければならなかったこの人たちの意地のようなものが、映画に横溢し、栗林が二宮君に自決の介添えを頼むクライマックスに凝縮していた。
『永遠の0』もまた、たとえば田中岷の人物には、その明らかな誤りのなかで生きなければならなかった人たちの自覚的な自己矛盾とそれを隠さなければ行けなかった意地を、ある程度は見せている。だがそれが「死」という決断に行きつく部分が抜け落ちているか、そもそも原作の強いる人物たちの価値観がどうみても戦前や戦時中ではなく、平成ニッポンの日教組的教育の価値観(日の丸君が代云々ではなく、「個」を問うことを忌避しながら「ありのままの自分で」と言い続ける曖昧な「みんな」への同化)に染まったものでしかない前提だけなので、どうにも人間として整合性がつかないのだ。戦争の時代だというのに、えらく平和にも見えてしまう。
かくして、なぜ死を選ぶのかさっぱり分からない主人公を、それでも観客が「理解」した気分で感動出来てしまうのか、演出がそう選択したのかを考えると、結局は「この人が死んだから」しか見えて来ない。それで涙を流す観客を考えると、「戦争は日本人にとって、本当に遠い過去になったのだ」と噛み締める他はない。
黒木和雄の遺作となった『紙屋悦子の青春』は、特攻に行く青年将校にほのかな恋心を抱いた女性が、その青年将校の親友と結ばれる物語だが、この映画では死はまさに淡々と、それこそさりげなくしか語られない。空襲の時に東京に行っていて亡くなってしまった老父母の話題が出る時、いかにも大昔になくなった人たちを楽しそうに思い出す会話は、実は昭和20年4月初頭の設定、つまり10万の死者が出た大惨事からひと月と経っていない。それが戦時中の「リアル」であり、戦争体験者たちが戦後ひっそり自らの内に秘めた「リアル」だった。もちろん人の死は重いものだが、ひとつひとつの死にいちいち感傷的になっていては、当時の日本人は生活すら続けられないほどに、死は日常の一部になっていたのだ。
それは映画だから直感的に観客に伝わることであり、黒木和雄という自ら11人の学友を目の前で米軍機の機銃掃射に殺された監督だから演出できたことなのだろう。黒木少年にとってもその11人のことをいつも考えていたら、それだけで鬱病にでもなって、生きていけなかった。だがこの遺作を含む「戦争レクイエム三部作」に至るまで、黒木が映画を作り続けた心の奥底の動機には、その目の前で死んだ少年たちのことが常にあった。こうした死との向かい合い方を生涯やり続けることこそが、戦争を体験すると言うことなのだ。そんな晩年の黒木和雄と、靖国神社などで会った特攻や硫黄島や東南アジア戦線を生き延びた元日本兵のひとたちにいつも言われたことがある。「今の日本は、僕たちの若い頃にどんどん似て来ている。君はくれぐれも注意しなければいけない」
その意味で、映画『永遠の0』は、今ではぜんぜん戦争美化のプロパガンダに見えずむしろ反戦映画にすら見えてしまう戦時中の映画に似ている。「死」や「兵隊さんの苦労」の絶対的な美化である。そして主人公が死ぬことの「感動」で、すべてはかき消される-そこに隠されたその他の膨大な死者たちと、生きのびた者たちの見た悲惨すら。