光に満ちた点描画 しかも モネのような……『ほとりの朔子』映画評 by 吉田衣里<こちとら自腹じゃ!>

現在全国で上映中の『ほとりの朔子』について「珠玉の映画評」で定評の吉田衣里げんこつ団』団長が論じた。批評を ここに掲載する。

げんこつ団(http://genkotu-dan.official.jp/)

正直言って個人的には、淡々とした美しい映像の邦画というのはかなり苦手で。
往々にしてすぐに飽きてしまったり穿って別の事を考え始めてしまうので、
冒頭の朔子が電車で眠っているシーンから電車を降りて山道を登っていくシーンでは、
そらきた!少女の一夏の淡い経験あるいは成長、と、椅子の中で身悶えしてしまった。

が。違った。
いや実際、一人の少女の一夏の経験あるいは成長、なのであった。
非常に淡々とした美しい映画、なのであった。
が。違った。
それは、淡い色合いの水彩画かと思ったら、光に満ちた点描画だった感じだ。

朔子と、そこに関係する人々で、物語は特に大きな事件が起きるわけでもなく淡々と進んで行く。しかし朔子が動くたび、朔子に関わる人物が増えるたび、それぞれの人物が関わるたびに、画面がどんどん、賑やかになっていく。
いや、単純に人数が増えて沢山喋ってうるさくなっていくという賑やかさでは、まったくない。映像が派手になっていくというわけでも、まったくない。終始、なんでもない会話や表情や風景が描かれているだけだ。なのに私はそこに、賑やかさを感じた。

淡々としすぎない、普通の日常的会話。まずそれが心地よかった。演技も素晴らしかった。登場人物はそのように自然体だ。映像も誇張や派手さはなく自然だ。でも何故、賑やかに感じたのか。
登場人物は多い。その登場人物は皆、頼りなくふわふわと湖の水面のように揺らいでいるし、海の波には逆らえない。物語は、そんな登場人物のそれぞれの関係性の中に、すでに存在していたり、或いは産まれていったりする。しかしその物語も、頼りなくふわふわと湖の水面のように揺らいでいくし、海の波にはさらわれる。そして物語の山場である朔子と孝司の家出も、特に劇的な展開なく終わる。

そのリアルさの中の、リアルな変化。朔子の一夏の経験あるいは成長。それはモネの点描画に描かれる光のようなもので、そこに登場したいろんな人々や思いや出来事が、それぞれ小さな一つの点として独立して存在しているからこそ、輝いているのだと思う。そこに、心地よい賑やかさを感じたのだと思う。
だから、物語は?と問われても答えづらい。それぞれが語り尽くせない人生を歩んでいるわけで、その人物達が一夏、各自それ相応に、関わり合う。ただそれだけ。ただそれだけなのだが、それはキラキラと光っている。何故か。それは点描画のようなものだからだ。

また、これは完全に個人的な感想なのかもしれないが、その登場人物それぞれの行動や身体や衣装に、人と人との関係性に、画面に背景に、沢山の”言いたい事”が、感じられて、それがとても、賑やかだったのだと思う。その”言いたい事”は、何かに対する主張だったり大声で発言したい事ではなくて、その時その時のほんの小さい事、時にはどうでもいい事やくだらない事だったりもする。
あれ見て。これ見て。いや別になんでもないんだけど。あ、それ。それってあれだよね、うん。あ、わかる?俺にはわからないけど。…いや。文字にするとどうにも全然違う気がするが、例えばどの隙間にも、そんなあれやこれやの小さな小さなお喋り、そんなものを、私は感じた。それはとても雄弁な映像だった。登場人物は皆、雄弁ではないのだけれど、映像はとても雄弁だった。

だから、物語は?ともし私が問われたら、結局、
えっと、少女の一夏の淡い経験あるいは成長?、と言うしか出来ない。
それか、個人的にお気に入りのシーンを一つ、挙げるくらいしか出来ない。

私のお気に入りは、朔子と孝司が家出した先で、たまたまパフォーマーの演技に出会うシーン。
二人にも物語にも、別に関係ない。全然関係ない人々の一夜が、たまたま集結している短いシーン。
私的に一番の見所は、ここ。

プロデュース :及川健二
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