2025/05/28 地域
「私を取り戻す」ために──哲学が照らす、いまを生きる術

倉持麟太郎 × 岩内章太郎 対談から見えた“共通言語”の希望

「自分が何を感じ、何を求めているのか、言葉にできていますか?」

そんな問いかけから始まった、弁護士・倉持麟太郎さんがホストを務めるYouTube番組「このクソ素晴らしき世界」第155回。今回迎えたゲストは、哲学者・岩内章太郎さん。哲学対話を通じて、教育現場からビジネス、さらには保育園の子どもたちとのやりとりまで、日常に“哲学の種”を蒔いてきた人物だ。

番組のテーマは「それでも生きていくための哲学」。SNS、生成AI、分断社会、そして「死」という避けがたい現実を前にして、人はどう“私”を取り戻せるのか。1時間以上にわたって繰り広げられた濃密な対話から、現代を生きるヒントを抽出する。


哲学とは、神話の外へ出ること

岩内氏は番組冒頭で、「哲学は神の言葉ではなく、人間の言葉で世界を語ろうとする営み」と語った。古代ギリシャで神話から哲学へと移行した背景を辿りながら、「共通言語」の可能性を示す。死や幸福といった根源的なテーマも、「人間の言葉」で語り直すことで、共同体を超える理解につながる。


「動物化」と「善への意思」

哲学対話の中核に据えられたのが、岩内氏の著書『私を取り戻す哲学』で展開される「動物化」と「善への意思」という二つのキーワードだ。
「動物化」とは、他者との関係性を必要とせず、快楽や自己充足だけを求める状態。一方で「善への意思」とは、善く生きたいという思いが、SDGsのような“パッケージ化された善”に安易に飛びついてしまう現象だと指摘する。

「どちらも、“私”が曖昧になっている状態。つながりが増えているようで、自己像がどんどん薄まっている」


子どもたちが見せてくれる「そもそも」の力

哲学対話を保育園の子どもたちと行うという実践は、観る者に新鮮な驚きを与える。

「絵本を読んで、“なんでうさぎがしゃべるの?”って問うんです。内容じゃなく、形式そのものに問いを立てる。大人は“そういうものだ”と済ませてしまうけれど、子どもたちは違う」

大人の論理からは出てこない、自由で鋭い問い。その問いの場を“安全に”保つことが、哲学対話の基礎であると岩内氏は語る。


死と向き合うことが、生を照らす

本対談の後半では、岩内氏が父の死を通して書いたエッセイ集『星になっても』が紹介される。死は誰にでも訪れる「有限性」の象徴であり、それを見つめることが「生の絶対性」──自分の感覚を信じること──につながるのだという。

「書き上げても、父は戻ってこない。その“戻らなさ”の実感が、不在の意味を深めていった」


私を取り戻すために、何ができるか

倉持さんが最後に問う。「私を取り戻すために、明日から私たちができることは?」

岩内氏は、こう答えた。

「“情動”や“欲望”に自覚的になること。自分が何を好きで、何を嫌いと感じ、何に嫉妬し、どこで安心するか。そうした感情を言葉にしてみる。そして、めんどくさくても人に会いに行くこと。そこから始めてほしい」


哲学は高尚なものでも、難解な理論でもない。自分自身を、そして他者との関係を「問い直す」ための道具であり、言葉の営みなのだ。

たった一度きりの“私の生”を、どこまで取り戻せるか。その鍵は、目の前にある問いに、言葉で、誠実に向き合うことにあるのかもしれない。


プロデュース :HORI JUN
Comment

コメントは管理者が承認後に表示されます。

Page Top