2024/09/21 国際
マニラ市街戦で殺された約10万人のマニラ市民 生存者の声を聞き日本人学生は何を想うのか
戦争体験者が慰霊式典で平和への思いを語った(構二葵撮影)

8月はアジア・太平洋戦争を振り返る報道が増える。多くは日本が受けた「被害」について語られるが、「加害」の歴史はほとんど触れられていない。日本がこの戦争を通じ、アジア諸国で何をしてきたのか。この動画は、ことし2月にフィリピン・マニラで開かれた「マニラ市街戦」の犠牲者を悼む式典と生存者への取材、そして式典に足を運んだ日本人学生らのインタビューを通じ、アジア・太平洋戦争における日本の「加害」について考える。8bitNewsのメンバーでジャーナリストの構二葵が取材した。取材の全容は、こちらの映像ルポからご覧ください。

マニラ市街戦の遺族団体「メモラーレマニラ1945」主催の慰霊式典(構二葵撮影)
マニラ市街戦の遺族団体「メモラーレマニラ1945」主催の慰霊式典(構二葵撮影)

ことし2月17日。フィリピン・マニラでは1945年2月に始まった「マニラ市街戦」の犠牲者を悼む79回目の慰霊式典が開かれた。マニラ市内を占領していた旧日本軍とフィリピン奪回を目指す米軍が1ヶ月に渡り争ったマニラ市街戦。日本軍の死者は1万数千人、米軍の死者は1000人程だったのに対し、マニラ市民は約10万人もの人々が命を落とした。

在マニラ米国大使館のJohn Croch氏(構二葵撮影)
在マニラ米国大使館のJohn Croch氏(構二葵撮影)

マニラ市街戦の当事者国であるアメリカからは、在マニラ米国大使館のJohn Croch氏が参列した。スピーチでは、2023年にフィリピン、アメリカ、日本による沿岸警備隊の合同演習が行われたことについて、「各国の戦闘員同士が友人としてパートナーシップを築くことは、最も考えられなかったことのひとつだ」と述べた。

NPO「Bridge for peace」の代表理事・神直子さん(構二葵撮影)
NPO「Bridge for peace」の代表理事・神直子さん(構二葵撮影)

この日、日本政府関係者からの献花や参列はなかった。同じく当事者国である日本人として壇上に上がったのは、戦争体験者のメッセージを記録するNPO「Bridge for peace」の代表理事・神直子さんだった。スピーチは英語で行われたので、日本語訳した内容を全文ご紹介したい。

Bridge For Peace代表理事 神直子さん「みなさんおはようございます。パンデミックの後ここに戻ってくることができて光栄です。きのう日本から到着しました。私はフィリピンを侵略した日本人です。今日は2つのことを話したいと思います。まず第一にこの悲劇を経験しなければならなかったフィリピンの人々、犠牲者、生き残った人々に謙虚に謝罪したいと思います。

2000年のことです。私は学生として初めてフィリピンに来ました。東京にいる私の教授が私たちに第二次世界大戦についての教育を受けさせたいと言って、ここに連れてきたのです。ここで何が起こったのかを知りとてもショックを受けました。一人のフィリピン人女性が近づいてきて「なぜここに来たの?」と言いました。彼女の夫は日本軍に捕まって二度と帰ってこなかったのです。生存者の証言を聞いて胸が張り裂けそうになりました。ですので日本大使館が今日ここにいないこと、私が日本政府を代表できないことを大変申し訳なく思います。しかし侵略した一人の日本人としてお詫びを申し上げたいと思います。

二つ目は日本の若い世代への教育をお約束したいと思います。2000年に私をここに連れてきてくれた教授は昨年亡くなりました。ですので次世代への教育は、今の私の責任だと思っています。今日は10歳の息子を連れてきました。彼がこの瞬間を思い出すことができるよう願います。Bridge For Peaceのメンバーも連れてきました。日本の若い学生たちが私たちの主張・取り組みに興味を持ってくれています。希望はあります。そして最後に私はどの国でも戦争のない世界を見てみたいです。ありがとうございました」

中国系フィリピン人 カイサ財団理事Teresita Ang Seeさん(構二葵撮影)
中国系フィリピン人 カイサ財団理事Teresita Ang Seeさん(構二葵撮影)

中国系フィリピン人のTeresita Ang Seeさんは、日本占領時のフィリピンで、華僑が置かれていた厳しい状況について話した。

Teresita Ang Seeさん「1931年の日本と中国の戦争に(フィリピンの華僑は)協力していたため、日本によって最大の処罰対象にされました。1942年1月2日にマニラが占領されると日本軍は中国人コミュニティーのリーダーたちを徹底的に粛清しました。最も悪名高い虐殺は1945年2月24日にラグナ州サンパブロで行われました。15歳から50歳までのフィリピン人と中国人の男性6000人が集められ、中国人の男性は650人ずつ選ばれ、自分たちで作った溝に落とされました」

Teresita Ang Seeさんは最後に、戦争中の残虐行為を記憶し忘れないことで、戦争が未来の世代に襲いかからないようにするのだ、と決意を述べてスピーチを結んだ。

都留文科大学4年生(取材当時・構二葵撮影)
都留文科大学4年生(取材当時・構二葵撮影)

式典には日本から都留文科大学の学生たちがスタディーツアーで訪れていた。現地で生存者たちの話を聞き何を感じたのだろうか。

都留文科大学4年生(取材当時)「日本では原子力爆弾など、被害国としての側面を多く教育されてきたように感じます。ですがここでは日本軍の加害の側面を見ることができたので、一つの国が被害国にも加害国にもなり得るのだということを知りました。生の声を聞ける最後の機会だと思っていますので、戦争体験者が生きていらっしゃるうちに、多くの方々に聴いていただく必要があると考えています」

都留文科大学3年生(取材当時・構二葵撮影)
都留文科大学3年生(取材当時・構二葵撮影)

都留文科大学3年生(取材当時)「(生存者の皆さんは)戦争当時、日本人へのイメージがあまり良くなかったけど、今は若い日本人に会うとすごく謝ってくれる、と話していました。憎んだり恨んだりっていう部分がずっとあってもおかしくないはずなのに、今私たちに対してすごく優しく接してくださっているのが本当にありがたい。事実をそのまま家族や友達に伝えていくのと、日本のトップになっていくであろう政党をよく知って選挙でちゃんと1票を投じていくことが、私にできる唯一の絶対戦争を起こさないために、できる行動なのかなと思っています」

戦争体験者の生の声は、日本の若い人たちの心に刻まれた。記憶の継承という意味合いにおいて、希望を感じる瞬間だった。

旧日本軍による占領時代、マニラでは何が行われていたのか。米軍との戦いの舞台にもなった要塞都市イントラムロスにあるサンチャゴ要塞での撮影も含めた取材の全容は、こちらの映像ルポからご覧ください。

取材・記事 ジャーナリスト構二葵(8bitNews)

プロデュース :構二葵
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