8月はアジア・太平洋戦争を振り返る報道が増える。多くは日本が受けた「被害」について語られるが、「加害」の歴史はほとんど触れられていない。日本がこの戦争を通じ、アジア諸国で何をしてきたのか。この記事では、ことし2月にシンガポールで開かれた「華僑粛清」の犠牲者を悼む式典と生存者への取材を通じ、アジア・太平洋戦争における日本の「加害」について考えたい。8bitNewsのメンバーでジャーナリストの構二葵が取材した。取材の全容は、こちらの映像ルポからご覧ください。
ことし2月15日。シンガポールの戦争記念公園では「華僑粛清」の犠牲者を悼む57回目の追悼式典が開かれた。公園の中央には”血債の塔”がそびえ立ち、下には華僑粛清の犠牲者の遺骨が埋葬されている。
血債の塔をめぐる歴史について、アジア諸国で加害の歴史を辿るスタディツアーを重ねてきた琉球大学名誉教授の髙嶋伸欣さんが解説する。
高嶋さん「土木工事などで遺骨が見つかり、それを骨壷に入れたんです。でも誰の骨かはわからないからまとめて入れて。1つの壺に45人分ですかね。埋める場所をどこにしようとなり、この地を政府が提供して、最終的には中華総商会が管理しています」
1942年2月8日、山下奉文中将率いる第25軍はシンガポール攻略に取り掛かった。2月15日には連合軍が降伏し、日本によるシンガポール占領が始まる。日本軍は上陸前から”抗日分子”の排除を計画し、2月から3月にかけて抗日的な華僑を選別し殺害した。この「華僑粛清」と呼ばれる虐殺の犠牲者は、5000人とも5万人とも言われている。
シンガポール人の沈素菲さん(89)は、「華僑粛清」で父親と叔父を殺された。日本兵が華僑の人々を抗日分子かそうでないかを分ける「検問」を行い、沈さんの父親と叔父は抗日分子とみなされたため、沈さんの目の前でトラックに乗せられ連行されたという。
沈素菲さん「集団虐殺です。1人だけじゃない。トラック一杯に詰め込まれて殺されました。悲しかったです。別れた時に父が生き延びるか誰もわかりませんでした」
父親の兆寛さんは戦前、華僑銀行で働き英語と中国語を操る優秀な人だったという。沈さんの息子、謝士林さん(69)は、兆寛さんが連行された理由はわからないと話す。
謝士林さん「母いわく、祖父は「検問」を通過できたが、後ろにいた祖父の弟が日本兵に止められたので助けたと言うんです。すると日本兵が「お前ら一緒にこい」と。祖父は生き残っていたかもしれません。非常に不運で残酷なことです」
兆寛さんが抗日組織に入っていたのか問うと、沈さんはすぐに否定した。
沈素菲さん「父はとても温厚な人です。トラブルに巻き込まれるのを恐れたので抗日活動には一切参加していませんでした」
沈さんに旧日本兵に会ってみたいか問うと、回答をはぐらかしながら「会う必要はない」とポツリとこぼした。複雑な気持ちを抱いているのが伺えた。
沈さんは、世界が混沌とする今、何が正しくて何が間違っているのか見極めるのは極めて難しいとした上で、「平和の大切さを子供たちに認識させることが大事。次世代の日本人にはこれ以上戦争を起こさないでほしいと願っています」と結んだ。
日本占領時代を生きた祖父母を持つ、シンガポール人大学生のインタビューを含めた取材の全容は、こちらの映像ルポからご覧ください。
取材・記事 ジャーナリスト構二葵(8bitNews)