2020/04/06 地域
繋ぎたい炭焼き文化の灯火 〜 福島県双葉郡川内村 原発事故から10年目を迎えて 〜

福島県双葉郡川内村は昭和初期、全国で木炭の消費量が50%となり日本一の生産地という時代がありました。
しかしながら移りゆく時代の中でエネルギー改革も起き、木炭産業は次第に衰退していました。


更に、東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故により村の約90%を山林が占める川内村もまた
放射能に汚染され木炭産業に追い討ちをかけ、川内村での伝統の炭焼きの技術は消えかけていました。

そこに、炭焼きの文化を繋ぎたいという人が現れました。
震災後埼玉県から福島県に移住された関孝男さんです。

震災当時は埼玉県で小学校の教員などの仕事をされていたという関さんですが、自分の力不足などを感じ震災後に退職。
その後も職をいくつか変えていく中でなかなか自分に合うものが見つからず、被災地ボランティアの説明会に
参加したのをきっかけに2013年に川内村の多くの方が避難されていた郡山市内に移住し、仮設店舗にて働き始めました。
その後2014年1月に川内村に移り住み、同年6月から「いわなの郷」の職員として働き始めたとのことです。

2017年3月11日、震災から丸6年になる時に川内村で炭焼き体験キャンプが行われました。
それに参加して、関さんに移住したきっかけを聞くと
「新しい土地で再チャレンジしたかった。仕事を色々とやめて何をしたら良いかわからない時期だった。
商工会の会長に働いてみるかと言われ何も調べずにきてしまったけれど、炭焼きまできてやっと村に居場所ができた。これでやっていこうと思うものが見つかった。師匠との出会いを含めてこれで良かったと思える。」と話されていました。

炭焼き師匠の菅波勇巳さんは長年炭焼きを続けてきましたが、原発事故を機に辞めようとしていたところ
関さんのどうしてもというお願いにより、消しかけた灯火にもう一度火をつけたようです。
炭焼きで顔を真っ黒にしながら震災当時の事を思い出しながら炭焼きの事を語る師匠の姿は切なくて、それでも時折見せる力強い目は関さんの言葉や存在に師匠もまた励まされているように思えました。


因みに川内村は2011年3月16日に全村避難指示が出て、その後2014年に一部が解除され、2016年6月14日に全村避難解除となりました。

 
 


関さんは移住当初、自分はこの村に必要とされていないかもと思う中で、とりあえず3年間は頑張ることにしたそうです。
いわなを焼くための炭焼きの技術を学ぶために師匠の菅波さんと出会い、
炭焼きの技術だけでなくどんなことでも受け入れてくれる師匠の懐の大きさに感動し、放射能のことを考えるとやめることも考えたが
復興というよりはむしろ自分自身が楽しみ、一つ形を作りたいということで現状は少しずつだけれど続けているとのこと。





 
関さんに炭焼きの魅力を尋ねたところ、一番は師匠と一緒にやれるのが楽しいと。
それまでは自分を肯定できない部分があり、人に肯定して貰えるところが必要だった。
自分でもそのような勉強もしたが、炭焼きのやり取りの中で教わったり、単純に土に触れるとか
農業でも同じかもしれないがそいういう人間らしい生き方みたいなのができたらいいなということなんだと今は思います。と話されていました。
 




また、川内村での炭焼きの可能性については「
いわなの郷でやりながらというのは、どうやっていいのかわからずに3年が経ってしまったところがある。
例えば独立して収益が上がればいいが、出荷もできない状況で炭は二足三文の世界。単純に商売にするのは難しい。
将来的にいなわの郷で炭焼き体験が出来たら良いなというような感覚で今はいます。
今出来ることは師匠の手伝いを多少するくらい。炭の出し入れをするとか木切りをするとか。
仕事の兼ね合いもあり、それすら出来ない時もありますが。
木炭の可能性としては茶炭があり、お隣の小野町では茶炭を焼いている方がいるのを昨年知って、
販売ルートも独占されているようで、そこに風穴を開けているようなのでその方を応援していきたいなと思うし、
その部分はその方に頑張って頂くのも良いかと。
歴史的にも川内から小野町に*木材を運ぶような電車 が通っていたと聞いたことがあり
そういう繋がりもあるようなので。本来なら地元でやれるのが一番なんでしょうが。。」と話されていました。

 


住むところなどの除染は進んだものの、森林除染は現在限定的にしか行われていない状況です。

木を伐採し出荷するには未だ放射線量が高く村内だけの資材を使って木炭にして出荷するには今は厳しいという課題も続いています。
しかし、炭焼きの技術はAIでは出来ないとも関さんは言っていました。

その技術を少しでも続けていけるように、今できる形で繋げていく。そこに自分の存在価値を見出したように思えます。
 


移住してから7年が経って、関さんは
「あの当時と随分状況が変わった。当初は移住者がどんどんいなくなり寂しくなったが、
復興という言葉だけではなくて、何か人の為にとなっていると自分がやりにくくなっていて。
今こちらに移住していきている人達は、自分の為にやっている人たちが多くなってきているので移住者的には安定し始めている。」
と言われていました。

川内村の帰村率は双葉郡の中でも一番多く8割となっています。
それは早めの避難指示解除があったというのも大きかったのではないかと思われます。


今年は東日本大震災、そして原発事故から10年目を迎えました。
この時間の流れの中で大きく変わったこともあれば、ようやく進み出したばかりのこともあります。
それは場所によって、人によって様々です。
 
 


川内村にある施設「あれ・これ市場」の前には『あしたを歩く』という復興モニュメントがあります。

この言葉は川内村で働いている復興庁の職員により
「遠い未来は考えず、まず今日より明日が良くなるようにと毎日頑張って過ごしている村民」を見て考えられたそうです。



 
現在、新型コロナウイルスの影響により日本中だけでなく、世界中が大混乱に陥っており、今までの震災のように
大丈夫なところが支え合うというのが難しくなっている現状です。
そういう意味では私の中では過去最大の難題を突きつけられている感じがします。
先が見えない状況と不安な政治にため息ばかりの毎日ですが、まずは今自分が出来ることを最大限にやりながら
まさに「あしたを歩く」思いで私たちも今を乗りきらないといけないと思いました。

*かつて全国的には木材を運ぶ森林鉄道というものがあり、川内村ー小野町間には「新町軌道」というものがあったようです。

プロデュース :城島めぐみ
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