美術館はなんのために存在するのか、芸術とはなぜ芸術であるのか? フレデリック・ワイズマン監督最新作『ナショナル・ギャラリー』 by 藤原敏史・監督

長年撮ってみたかった題材のひとつに「美術館」を挙げていた構想が実現

大学、それも人文科学・一般教養学部をとりあげた『バークレイ大学にて At Berkley』がフレデリック・ワイズマンにとって「知性とはなんのためにあるのか」を問う映画であったとしたら、長年撮ってみたい題材のひとつに「美術館」を挙げていた構想が実現したこの『ナショナル・ギャラリー』は、その前作とは車輪の両輪、ないしコインの裏表の関係にあると言える。さらに美術館を取り上げる、つまり大学=知性と教養に次いで美術・芸術に取り組んだことは、彼自身の問いをより私的なレベルで掘り下げた作品だとも言えるだろう。こう言うと「それは哲学の教授とレンブラント、どっちが一緒にいて楽しいかといえば、レンブラントに決まっているが」と、今年で84歳のワイズマンはまた冗談で済ますのだろうが。

 

もちろんドキュメンタリー映画なのだからレンブラント本人もフェルメール本人も、ルーベンスさんもカラヴァッジオさんもダヴィンチさんもティツィアーノさんも直接には登場しない。だがこの映画を見ることで我々が得るセンセーションのひとつは、絵が画面全体に広がる形で次々と映し出される(額縁を画面に入れない)とき、レンブラントの絵を見ることと、レンブラントさん本人がそこにいることに、本質的な違いはないのではないか、という不思議な感覚だ。

 

いやよく考えれば、私たちは美術館である作品を見たとき、実はそのセンセーションをどこかで感じているからこそ(この映画で見せられるナショナル・ギャラリーの観客たちのように)熱心に、現実からどこか切り離された精神的な「場」で、絵を見つめ続けるのかも知れない。映画『ナショナル・ギャラリー』は美術館という場を撮る映画であると同時に、こうして絵を見て、芸術に触れているときの、現実から切り離されたかのような精神的な「場」をも捉えた映画だ。

 

レンブラントならナショナル・ギャラリーは何枚もの自画像を所蔵しているが、別に本人の「顔が見える」からレンブラントさんがそこにいる、とか言うわけではない。

 

逆にダヴィンチは他所で自画像を見たことがあっても、ナショナル・ギャラリーで2012年に行われたダヴィンチ展を映画のなかでフォローし、その後で修復したての所蔵作品『岩窟の聖母子』が新たな展示場所に飾られるのに立ち会うにつれて、ダヴィンチ本人の顔を見た記憶があるかどうかすら、どうでもよくなる。本人の肉体以上に、彼らの作品こそが、その存在そのものだと気づく、とでも言えばいいのだろうか?美術館というのはそれ自体が、こういう不思議な場でもあるのだろう。

数百年前の古典美術が、いかに現代に「生きた芸術」になるのか

もちろんワイズマンは現代映画でもっとも知的な、しかも恐るべき老練の映画作家である。ただ名画の持つ霊的ななにかに頼るとか、「有名な画家なんだから有り難く見なさい」的な先入観の権威主義で映画を撮るわけがない。

 

ナショナル・ギャラリーの所蔵する絵は中世の祭壇画から後期印象派、20世紀初頭くらいまでで、今とは時代も生活も違い、当時その絵がどう見えたのか自体が、現代にこの美術館で同じ絵を見るのとはまるで異なっているはずだ。むしろ画家たちがそれを描いた時には想像も及ばない現代になお、これらの絵が存在し続け、見られ続けている。この映画はその現実の限界をまず冷徹に提示しながらも、あとでちゃんと覆しても行ってくれるのだから、まったく侮れない。

 

たとえば冒頭近くでガイド役を務める学芸員が「中世はとても宗教的な時代でした。それは現代では想像もつかないでしょう」と説明する。14世紀の祭壇画が今この美術館の明るいギャラリーで見られているが、本来は当時の教会の暗がりの中に狭いステンドグラスからの日光や蝋燭だけで照らし出されていたはずだ。そして当時のヨーロッパ人にとってあらゆる価値観が信仰に左右されていたこと、そんな感覚を完全には想像出来ないとしても、あえて想像して見るように学芸員が促すことから、我々はこの映画の世界に引き込まれて行く。

 

あえて「この映画の世界」という形容を用いてみたが、それはこれまでのフレデリック・ワイズマンの映画についてならば、誤りになっただろう。彼の映画はこれまで常にまず、ある場所とそこにある組織の運営ついての映画だったはずだ。だが『ナショナル・ギャラリー』は具体的に美術館という場と組織についての映画である以上に、それとは別の世界をこそ見せようとしている、具体的にキャメラの前に実存するのではないなにかを、確かに表現している(あるいは『At Berkley』が既にそうだった)。それがなんなのかと言えば、それこそ迂闊に言葉に出来るものではない(一言で済まないからこそ、3時間を越えるこの映画が必要なのだ)が、強いて言えば「芸術とはなにか」というひとつの抽象的な世界観を、この美術館の場を借りて作り出そうとしていることが極めて明確な構成を、ワイズマンのこの最新作は持っている。

 

とはいえこの映画で我々が見る/ワイズマンが見せるのは、絵なら絵で、あくまで具体的なモノとして、である。今さら言うまでもないがワイズマンなのだから美術番組的な解説も雰囲気を盛り上げる音楽もなく、説明的なアップで絵のディテールを紹介して解釈のやり方を教えてくれるわけでもない。絵画について語られることは実際にこの美術館のどこかであった会話であり、その中身も驚くほど具体的だ。

 

たとえば女スパイ・デリラが夫サムソンをたぶらかす決定的瞬間を題材にしたルーベンスの絵について、修復スペシャリストとおぼしき人物が、ルーベンスが完成後にこの絵にニスを塗り直して明暗を調整していたと語る。元々はある市庁舎の市長室の暖炉の上に飾られた絵で、夜は暖炉の炎、昼間は窓からのほの暗い間接光に応じて、自分の絵の明暗の構成がよりドラマチックに見えるよう、その場に実際に行って自分で一部をより暗く手直しをしたというのだ。ルーベンスの「意図」「なにが言いたかったのか」なんてどうでもいいが、この事実を知った瞬間に我々は画家と同じ視点でその絵を見始めてしまっている。そうするとルーベンスが描いたこの状況にある本当の、女とその夫のドラマまで、見えて来る。

「人間の身体がこんなに美しいとは、今まで知らなかった」

ヴェラスケス初期の傑作『台所の情景(伝・マリアとマルタの家を訪れたキリスト)』について、同じ修復スペシャリストは画面右の奥まった空間の、隣の部屋にも見えるところに描かれたキリストが、台所から別室を覗いた光景なのか、それとも壁にかかった絵なのか、実は判別がつかない、と言う。確かに!言われてみればその通りだ。さらに(右奥の空間を別室とみなす伝承によれば)マルタとみなされる人物の首もとが明るいのは、画家の意図ではないと断言する。え?なんと油絵の具の顔料の経年変化で透明化していて、本来は頭の陰になるのだから当然暗かったはずだ。確かにその通り…。

 

現代における美術品の修復・復元の原則は「作られた時の状態に出来る限り近づける」ことだ。だがこの映画で修復工房の仕事をていねいに、スリリングに見せられると、そんな単純な話では済まないと気づかされる。表面のニスが経年変化や汚れで絵を暗く見せているのでそれを取り除き鮮やかさを取り戻すとよく言われるが、たとえば先のルーベンスの例は、わざと暗くするためにニスを塗り重ねたのだ。レンブラントの大作の騎馬像は修復過程のX線検査で前に別の絵が描かれて塗りつぶされていることがわかり、その元にあった絵の一部がやはり顔料の経年変化の透明化で、うっすらと見えて来てもいる。

 

映画『ナショナル・ギャラリー』は一面、この大英博物館とならぶ英国最大・最高峰の美術館の組織運営とその諸問題を見せる映画ではあるが、そうした諸事情を見せるために選ばれたシーンはいずれも、単に運営の問題、単に金勘定、単に組合等との交渉、単にスポンサー探しの問題ではなく、「美術館の役割」への意識、それをいかに現代の社会に維持して行くのかの問題意識が、会議や打ち合わせに居合せた人物それぞれに明確にある(あるいは、ワイズマンがそう見えるように映画を構成している)。

 

ここで視覚障害者向けの絵画史の講座や、一般向けの絵画教室までやっているとは知らなかったが、これも単に「生涯教育」とか「観客の啓蒙」文脈では決して流せないように、ワイズマンの映画は巧妙に出来上がっている。恐らく定年後の悠々自適で初めて絵を描いてみようと思った風情の初老の男性が、裸の男性モデル(別に筋骨隆々の美形の若者でもない)を熱心に写生しながら、指導員を務める学芸員に言う、「人間の身体がこんなに美しいとは、今まで知らなかった」

 

昨今の日本の文化事業関連では、よく「観客を育てる」とかの言葉を、主催側が無自覚かつ平然と、その実まったく偉そうに口にする。英語の educate the audience ならそこまでいやな感じがないのに、「育てる」という日本語の響きのいやらしさはなぜなのか? それは逆に、この映画で見せられるナショナル・ギャラリーの事業こそがまさに「educate the audience」だからなのだ、と気づかされる。

 

この映画自体が「育てる」などという傲慢な態度なぞかけらもないところで、観客をみごとに educate する機能を持っていると言ってもいい。言い換えれば、写生教室に通いはじめた初老の男性が、「人間の身体がこんなに美しいとは」と気づいたように、映画『ナショナル・ギャラリー』は恐らく「○○がこんなに美しいとは」「絵画とはこのように△△だったのか」「映画とは」「人生とは」「人の顔とは」などなど、今まで知らなかったか気づかなかったなにかを、あらゆる観客が持ち帰れる映画だろう。逆に言えば「観客を育てる」などと無自覚にうそぶくくらい傲慢で愚かな話もなく、観客が教育されえるとしたらその主体は芸術作品と、あとはその一人一人の観客が自らを教育する以外にあり得ないのだという当たり前の話に帰結してしまうのだが、当たり前の真実ほど表現するのが難しいこともないのは、言うまでもない。

絵画は謎があってこそ、芸術として生き続ける

逆に自分では美術通のつもりで、美術館運営に関わったりスペシャリストはだしのつもり、あるいは美術史の造詣があるつもりの人は、よほど覚悟しておいた方がいいかも知れない。

 

たとえばこの美術館でももっとも有名な絵のひとつ、ホルバインの『大使たち』について、ガイドを務める学芸員は歴史的背景や、描かれた二人の裕福そうな青年が誰なのかは説明するが、この絵の最大の謎、斜め下から見ると床面にドクロが現れる理由について、解釈を述べたりはしない。実際問題、注文主のアイディアだったのか、ホルバインの独創だったのかも、文献的に分からない、とだけ言う。

 

分からないから分かりません、以上。

 

こういう仮説があるけれど私はあっちの仮説が、的なうんちくを期待した「美術通」の人にはお気の毒だが、そんな仮説を教えれば「観客を育てる」になるのかも知れないが「educate」ではおよそあるまい。編集の切り方からすると、実は学芸員がこの後仮説を紹介していたのをワイズマンがばっさりカットしたのかも知れないが、だとしてもフレデリック・ワイズマンの映画にはそれは必要がない、邪魔にしかなるまい。仮に手紙かなにかが残っていたとしても、ここで「作者の意図」を知ることに、意味があるのだろうか?

 

確かなのはそこに(誰のどんな意図にせよ)ドクロが描かれていて、それに気づいた観客に確実になにかを喚起する。「このドクロはなんなのだろう?」と我々が答えのない問いを持つ限り、何百年前に描かれていようがこの絵は生きている。世代を超えて観客がこの絵のドクロの謎に惹かれ続ける限り、『大使たち』は傑作であり続ける。

 

フェルメールの『ヴァージナルの前に立つ娘』を前に、若い友人を案内している風情の(実際にはただ客なのかも知れない)別の学芸員は、ひととおりフェルメールの特徴を説明したあとではっきり言う。「フェルメールはどの絵にも謎がある。もしかしたらフェルメール自身が狙ったのかも知れない。その謎があるからこそ、私たちはいつまでも彼の絵を見ていられるのです」

芸術とはなにかという問いそのものについての映画

「私のやり方はずっと変わらない」とワイズマン本人はいつも言うが、『At Berkley』と『ナショナル・ギャラリー』が今作られたのは、彼が20年30年前に大学なり美術館を撮っていたとしたら、かなり違った映画になっていたはずだ。ひとつには「教養」も「芸術」も明らかにこの21世紀初頭においてより危機的な状態にあると同時に、そうしたいわば「文化・思想的な人類の遺産」に対してより自由で本質的なアプローチもまた増えていることがある。修復工房のスペシャリストたちや学芸員たちは、そうした自由なアプローチにナショナル・ギャラリーの観客を、ていねいかつ慎重に誘導しようともしている。

 

だが、それ以上に肝心なのはワイズマン自身の変化のような気がする…と言ったら本人は「あなたにはそう見える分には否定はしないが」で済ますに決まっているわけだが。

 

この映画はまず美術・芸術とはなにかという問いそのものについての映画であって、それは「美術館についてのドキュメンタリーだから結果として芸術論映画にも見える」のではない。もしナショナル・ギャラリーの関係者が見て自分たちの姿を「ちゃんと描いてくれた」と納得するとしても、それは結果でしかなく、本質ではない。今までだってワイズマンは実はそんなこと考えていなかったのかも知れないが、この映画はいっそうのこと、撮らせてくれた「対象」に配慮したり、なにかの現実を忠実に描写すると主張する意味での「ドキュメンタリー」ではない。強いて言えば「いい映画だから結果として嘘がない」程度のことだ(いやこれこそが難しいので、だからワイズマンは凄いのだが)。むしろ芸術とは、美術とはなにかを問う映画を撮るのなら、当然美術館が最適の場であり、たまたま運良くナショナル・ギャラリーであったが故に彼の構想が(もしかしたら本人も最初は気づいていなかった)これだけの深みにまで発展したのだろう、としか言えない。

 

そして映画『ナショナル・ギャラリー』は、美術とは、芸術とはなにかという問いを、それらの絵画が確かに今も生き続けていることを中心に構築していく。

 

絵が生き続ける、時代を超える、まさに340年くらい前に亡くなったはずのレンブラントさんがこの映画を通して一緒にいる、と別に名作『63歳の自画像』を見せられるからでもなく思ってしまうこと。あるいは修復のなったダヴィンチの『岩窟の聖母子』ナショナル・ギャラリー版が、ほぼ同じ構図のルーヴル美術館版と色彩設計がまったく異なり、目を射るようなブルーにそれこそ「新鮮な驚き」をまず覚える感触。つまりは生きた体験、スリリングな体験としての美術。それはたとえば、写生教室で初めて「人間の身体の美しさ」に取り憑かれた男性の気づきとも、共通するものでもあろう。極論すれば、芸術とはこの驚き、世界観を変え、ものごと、人生、世界をよりよく見るよう促す瞬間のためにこそ、存在している。

あらゆる人間は老いて死に、あらゆる事物はすべてはかない

ところが「新鮮さ」で言うのなら、この映画でとりあげられる絵画はほぼ19世紀半ば以前、せいぜいターナーまでで印象派はちょっと映る程度と、視覚障害者の絵画教室でピサロがとり上げられているだけなのだ。言い換えれば、この映画で我々が改めてその美しさと謎に心をときめかされ、新たな発見に目から鱗となっている、恐らくワイズマン自身をもより惹き付けた、キャメラの前で生き続ける絵画とは、300年、400年、500年以上前のものであり、およそ「驚き」や「新たな視点」「絵画の革命」や「新鮮さ」を狙ったのではないはずの、古典絵画だ。

 

その意味で、この映画は芸術の永続性を伝え、永遠性を映し込んだ映画でもあると言えるどころか、永遠性と永続性そのものについての映画であっても、まったくおかしくない。

 

だが不思議なことに、3時間にわたってナショナル・ギャラリーのさまざまな絵画を楽しみ、話を聞いて驚き、学び、観客である私たち自身がある心の自由すら取り戻した時、そこに残る印象が、実はこの永遠、永続の感覚とは真逆なのだ。

 

ワイズマンは最後に、レンブラントの自画像を晩年まで、額縁なしで、画面いっぱいに映し出す。その瞬間、この映画の総体が(油絵の具すら経年変化で透明度が増していることも、絵画の謎に一定の解釈なぞ存在しないことも含めて)我々に呼び起こす感興とは、この世界のすべてが決して永続はしないこと、あらゆる人間は老いて死に、あらゆる事物はすべてはかない、というこの世界と生命の真実に、他ならない。

●インフォメーション

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』National Gallery (2014年、米仏合作、181分)
監督・編集・録音フレデリック・ワイズマン
撮影ジョン・デイヴィー
2015年1月よりBubkamuraル・シネマにてロードショー(配給セテラ)
www.cetera.co.jp/treasure

 

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