平成23年(2011年)3月11日、午後2時46分。東日本大震災が発生しました。これにより、福島県相馬市では、市民458名の尊い命が失われ、甚大な被害を受けました。この度、市は震災の犠牲となった458名の霊をなぐさめ、東日本大震災を後世に伝えるために、特に被害の大きかった相馬市原釜地区、磯辺地区に慰霊碑を建立しました。平成26年(2014年)3月11日。震災から3年のこの日、除幕式が行われました。その模様を収めました。前半が磯部地区の慰霊碑除幕式、後半が原釜地区の慰霊碑除幕式です。
慰霊碑碑文(磯部地区)
碑文
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、マグニチュード九・〇の地震が発生した。
震源は宮城県牡鹿半島から東に約百三十キロメートル、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約四百八十キロメートル、東西約百五十キロメートルにも及ぶ広大なもので、最大震度は七、相馬市では震度六弱の超巨大地震であった。
約一時間後、高さ九メートルを超す真っ黒な大津波が容赦なく堤防を乗り越えて集落を破壊し、家々を呑み込みながら海岸から約四キロメートル先まで流れ込んだ。
白砂青松の景勝地、松川浦の南に広がるこの地では日本有数のホッキ貝の水揚げを誇る磯部漁港、山信田古磯部、八沢に各干拓地に広がる美田、丘陵地に連なる梨園等により、人々の豊かな生活が営まれていた。
大津波は一瞬にして相馬市の海岸部を呑み込んだ。そして先祖伝来この地を守り継ぎ発展させてきた二百五十一名をはじめ、市民四百五十八名の尊い命が失われた。
ここに、この地で犠牲となられた方々の御冥福を衷心より祈念するとともに、「東日本大震災」を後世に語り伝えるため、御芳名を刻み、この碑を建立する。
平成二十六年三月十一日
相馬市長 立谷秀清
慰霊碑全文(原釜地区)
碑文
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、マグニチュード九・〇の地震が発生した。
震源は宮城県牡鹿半島から東に約百三十キロメートル、震源域は岩手県沖から茨城県沖までの南北約四百八十キロメートル、東西約百五十キロメートルにも及ぶ広大なもので、最大震度は七、相馬市では震度六弱の超巨大地震であった。
約一時間後、高さ九メートルを超す真っ黒な大津波が容赦なく集落を破壊し、家々を呑み込みながら海岸から約四キロメートル先まで流れ込んだ。
この地は、古くは万葉集にも詠まれた風光明媚な松川浦、江戸時代には東廻り航路で名が知れた原釜湊、また近年は外国船も入港する重要港湾相馬港、沿岸漁業基地である松川浦漁港、海水浴・潮干狩り・魚介類の直売・いちご狩りなどに多くの観光客が訪れ、本市の産業を牽引してきた地区である。しかし大津波により、一瞬にして原釜・尾浜地区などの人々二百七名をはじめとする市民四百五十八名の尊い命が失われた。
ここに、この地で犠牲となられた方々の御冥福を衷心より祈念するとともに、「東日本大震災」を後世に語り伝えるため、御芳名を刻み、この碑を建立する。
平成二十六年三月十一日
相馬市長 立谷秀清