ハリウッドでやればよかったのに!現代フランス映画の欠点をさらけ出してしまった無惨な敗北「グレース・オブ・モナコ」(それでも主演女優は完璧) by 藤原敏史・監督

かつてグレース・ケリーという世にも美しいスター女優がいた。ヨーロッパでも最も古い王室のひとつ、モナコの大公(プリンス)レーニエ三世と結婚してプリンセスに…という「20世紀のおとぎ話」の数年後のお話を映画にするときの最大のハードルは、「誰がグレース・ケリーを演じるのか」だろうと誰もが思う。だがこの難関に思えたことが、現代では簡単にクリアされた。ニコール・キッドマンがいる。

 

ニコール・キッドマン以外に適役はいないことが、『グレース・オブ・モナコ』ではファーストシーンから完璧に証明されてしまう。ヒッチコックの『裏窓』でグレース・ケリーに恋人役のジェームズ・スチュアートが「リザ、君は完璧だ…いつも通りにね」と実は痛烈に皮肉を混ぜて言うが、キッドマンの演ずるグレース・ケリーは皮肉もなにも超えて完璧だ。「なりきり」演技ではなくグレース・ケリーのちょっとした仕草をつかみ、最初登場する後ろ姿で歩くなかでそれをやる、ただそれだけでニコール・キッドマンではなくグレース・ケリーがそこにいると観客に思わせてしまう。これが「そっくりさん」的ななりきり演技に徹してしまえば、キッドマン自身の持つスターのオーラが殺されてしまい、それではグレース・ケリーの持っていたはずの輝きが表現されないと見抜いた、知的な演技の計算が生きている。

王室に嫁ぐことの意味を
理解できないまま映画にした

第一関門はクリア…だがそこで明らかになるのは、「誰がグレース・ケリーを演じるのか」が最大のハードルなどではなかったことだ。モナコ大公レーニエ三世はティム・ロス、体重を増やしてこれまた難役に挑んだ彼も、これまでとはひと味違った抑えた演技が素晴らしいのだが、どうも気弱で猜疑心が強く魅力的な人物ではなかったらしいレーニエをどう観客が共感できるよう造形できるのかも、難関ではなかった。「ティム・ロスがいる」、それだけで済んでしまった。

 

むろん女優を引退しプリンセスになったグレース・ケリーのその後が、決して現代版シンデレラのおとぎ話では済まなかったことくらい、誰でも想像するだろう。「王室に嫁ぐことに憧れる人は、王室に嫁ぐことの本当の意味を知らない」という台詞が繰り返され、いわばこの映画のテーマになっているが、実はこれこそが最大の難関だったように、映画『グレース・オブ・モナコ』を見ると思わざるを得ない。この台詞を書いた脚本家も、監督も、けっきょく王室に嫁ぐことの意味を理解できないまま映画にしてしまったとしか思えないのだ。

 

結婚の6年後の1962年に、グレース・ケリーがヒッチコックの『マーニー』で女優に復帰するという話があった。この映画はいわばその内幕話でもあるが、彼女に同時に起こっていたのが映画どころではない、フランスとの関係をめぐりモナコ存亡の危機だったとはまったく知らなかった。国庫収入は観光とカジノで税金がないタックス・ベヴンにフランス企業を誘致して近代化をはかったレーニエ三世に、アルジェリア戦争で財政危機にあったフランスのド・ゴール大統領が企業への課税と、モナコ自体がフランスに納税することを要求し、経済封鎖をちらつかせ、モナコを併合も辞さない、とやっていたのだ。

グレース・ケリー妃の苦悩を
もっと掘り下げられただろうに……

めちゃくちゃ面白い、さまざまな切り口が考えられる、現代的だし映画的にもなり得る題材だ。彼女とレーニエの私生活や決断の内幕について記録や証言はほとんど残っていないが、だからこそ政治の暗闘も含め想像と推測で自由に料理も出来る。完璧な女優も得て、女優という生きものの本質、現代の世界に女であることの葛藤が、20世紀の後半には時代錯誤でもあった伝統ある王室という環境で増幅され、しかもいわば敵役に20世紀でもっとも著名な政治家のひとりだけに毀誉褒貶も激しい大物が関わる大陰謀劇、それもアルジェリア戦争という戦後フランス史最大の汚点が裏の争点であり…

 

ところがこの映画で表現出来ているのは、冒頭の、アメリカで自由と自己主張を重んじて育てられた現代女性が宮廷生活で感じる抑圧だけで、後はどんどん支離滅裂に上っ面を撫でるだけで空中分解していく。だがその程度の一般論なら、日本の天皇家に嫁いだ美智子皇后や雅子皇太子妃の苦境、あるいはイングランド王室に嫁いだダイアナ・スペンサーの悲劇でもみれば、いかに「王室に嫁ぐことの本当の意味は分からない」と言ったって、今さら誰でも知っていることで、わざわざ映画にするような話でもあるまい。いかにティム・ロスの演技が素晴らしくても、政治がからめばからむほどその描写は薄っぺらになり、ド・ゴール登場に至る頃にはほとんど漫画になる。

 

グレース・ケリーが本当に『マーニー』に出たかったという解釈(真相は不明)に立っているのだし、女優という生きものの性ともなればフランス映画の得意分野だろう? いくらでも掘り下げられたはずだと思えば、『マーニー』が女優にとって途方もなく刺激的で創作意欲をそそられる役だったと把握していたのはニコール・キッドマンだけらしい。それ以外のスタッフ(案の定、ほぼ男だらけ)はただヒッチコックへのオマージュを捧げたつもりで嬉しそうなだけなのだから、ヌーヴェルヴァーグを中途半端にしか継承出来ていないフランス映画の現状には恐れ入ってしまう。いやキッドマンの台詞にもある「冷感症で病的な窃盗魔」の役をカトリックの国のプリンセスにオファーするだけでも、とんでもない話なんだぞ(その台詞をわざと大げさにせずサラっと流せるキッドマンの演技の知性だけが際立つ。グレース・ケリーもそんな頭のいい女性だった)。

映像があまりにみすぼらしく杜撰で薄っぺら

題材からしてこれはハリウッドがやりそうな話で、主演のキャスティングからしてもアメリカ映画だと多くの人が思うだろうし、「ハリウッドには所詮、宮廷だとかヨーロッパの伝統は分からない」とか「アメリカ映画なんだから政治の複雑さは」と言われそうだが、しかしこれはフランス映画なのだ。

 

いや逆に、ハリウッド映画だったらここまで杜撰で薄っぺらな漫画にはなるまい。なにしろフランス相手の窮地挽回でレーニエが世界の首脳をモナコに招く公式晩餐会と、国際赤十字のチャリティ舞踏会というふたつの重大宮廷行事がクライマックスになるのに、その肝心の宮廷イヴェントをどう撮ったらいいのか分からないで演出が途方に暮れている上に、シャンデリアで照らされた宮殿の広間をどう照明で再現するのかを撮影部も分かっていない。それくらいフランス映画の国宝級名作『歴史は女で作られる』でもじっくり見て研究すりゃいいじゃんか。

 

ハリウッドならこうもみすぼらしくはならなかった。絢爛豪華で重厚に見せるテクニックの蓄積もあるし、過去の映画から絵画から、徹底的に研究する。衣装も調度内装も豪華かつ歴史も感じさせ、ニコール・キッドマンとティム・ロスが国家元首夫妻の正装で、舞台はモナコ、グリマルディ大公家の文化の厚みがてんこ盛りの宮殿なのに、それでも映像がみすぼらしいとは、どういうことなのか?撮り方、宮廷の空間の照明の仕方が分かってないし研究もしていない「感性」頼りな上に(ところがそんな歴史的感性は、フランスでも死滅しつつある)、宮廷行事の政治的な役割と個々のしきたり・儀礼や社交辞令のニュアンスの政治性・重要性を踏まえた演出にもなっていないのだ。こうしたシーンのあるハリウッド映画で、こんなみずぼらしい描写は見たことがない。マーティン・スコセッシの『エイジ・オブ・イノセンス』となると比較対象が高度過ぎるだろうが、子ども向け映画『タイタニック』や通俗メロドラマ『風と共に去りぬ』だって、舞踏会というものの社会的な意味を踏まえた重層的なクライマックス、映画の見せ場に表現していた。だがこの映画でそれっぽく見えるのは、マリア・カラスがプッチーニの『ジャンニ・スキッキ』のアリアを歌うシーンだけで、それですらカラス自身の録音を使っているおかげの迫力、この映画としての演出はなにもない。

 

フランスの映画界はこの失敗の反省を「ハリウッドの真似をするからだ」とうそぶく程度で済ますべきではない。それでもそう言うのなら、ハリウッドこそ大人の映画をまだ作ろうと思えば作れるのに対し、現代のフランス映画の方が子ども騙ししか出来ないのだと自覚した上で言うべきだ。『グレース・オブ・モナコ』の致命的な欠陥は、社会がまったく描けていないことにあり、社会のなかの人間関係の政治性を描けない、どうにも子どもっぽくなってしまうのは、この映画に限らず現代フランス映画の重大な欠陥でもある。

国際政治の裏の暗闘とそこに宮廷がからむ
権謀術数はおろか家族さえ描けていない

「社会派映画」や「政治(ないしプロパガンダ)映画」が作れないということでない、もっと基本的な話だ。個人が主人公でもそれを取り巻く複数の人間の形成するコミュニティとしての社会の存在感が、あらゆるレベルでこの映画では欠如している。ヒッチコックがそっくりさん演技で出て来るだけではアメリカの映画産業の社会やその論理も見えて来ず、グレース・ケリーが疎外感を覚えたモナコの宮廷社会も同様であるばかりか、ほんの数万とはいえモナコ国民の社会に至っては、ヒッチコックの観光映画(グレース・ケリー主演)『泥棒成金』だってギャグの背景に過ぎない南仏の市場だとかを、はるかに丁寧な社会的厚みを持たせて映画に現前させていた。丘陵地帯や山が地中海に迫るコートダジュールに位置するモナコの絶景ですら、それこそ『泥棒成金』と較べて哀しくなるほど、絵はがきの映像でしかない(それでも奇麗は奇麗なんだけど)。

 

ここまで社会が見えて来ない、モナコという国の地理・空間も、人々も歴史も感じさせない、見えるのはグレース・ケリーとその夫のレーニエ大公だけでは、国際政治の裏の暗闘とそこに宮廷がからむ権謀術数など描けるはずもなく、ド・ゴールがただ間の抜けた漫画的戯画で終わるのも当然だ。そんな大スケールの世界政治どころか、夫婦まではなんとか描けていても「家族」すら描けているとは言い難く、グレース・ケリーの二人の子ども(現大公のアルベール二世と後に世界のゴシップ業界を賑わすことになるカロリーヌ)も、かわいい子どもがたまに写るだけだ。

 

「自分」しかいない、子どもの世界観しか、現代のフランス映画は演出できないのか? 決してこの『グレース・オブ・モナコ』だけの欠陥ではない。たいがい恋愛やセックスがからむ個人の葛藤や悩みばかりをもてはやして来た結果、フランス映画は本当に社会が描けなくなって来ているし、もはや現実のフランス社会とはなんの関係もない、遊離した子どもっぽい小さな世界しか、今のフランス映画界の現役勢は演出できない。もともとそうした私的・個人的表現としてのフランス映画の傾向を作ったとみなされがちなヌーヴェルヴァーグの世代は、エリック・ロメールもクロード・シャブロルも亡くなり現役はゴダールとジャック・リヴェットとアニェス・ヴァルダしかいないが、晩年の、たとえばロメールの『三重スパイ』やシャブロルの遺作『刑事ベラミー』を見ても歴然と、個人の小さな世界に深く切り込むようでいてその背景に厳然と社会が凝縮されていたからこそ、個のドラマに意味がある、世界観が大人なのだ。それに較べて、まだ複数の主人公を錯綜させることで家族レベルの小さな社会までは見せられていたアルノー・デプレシャンの『クリスマス・ストーリー』でさえ、クリスマスのミサを取り仕切る神父が黒人だったり、背景にアラブ人がちらりと写るような安易な小手先で社会に関わっているつもりでいる程度の、子どもの世界観・社会観でしかない。

直感的にも身体的にも映画を呼吸し続けることが出来る天才・ニコール・キッドマンがせめてもの救い

それでも『グレース・オブ・モナコ』は演出と脚本の浅薄さや、屋外から屋内、長い廊下を経て小さな部屋から広間へと異なった空間をやたら同一ショットで捉えようとする技巧性の失敗(光線の色調が別の空間に入ると変わることを、美的にも技術的にも十分に処理出来ていない)、主演の二人以外の演技の大根っぷりに、べったりと使われ続ける音楽が多過ぎるだけでなくひどい曲であることに苛立ちながらも(音楽的にも、ハリウッドはヨーロッパを凌駕している。音楽使い過ぎと通俗性べったりであっても、ちゃんといい曲は使っている)、見続けられるし楽しめる映画にはなっているのだから驚く。

 

ここにさらけ出されたフランス映画界の堕落っぷりさえ、補ってあまりある才能、たった一人で「映画」を成立させてしまえる意味で真の天才的映画作家が、この映画には確かにいる。それも映画の背後にいるのではなく、映画に映り続ける、キャメラの前にこそいる映画作家として。恐ろしいまでに美しく、途方もなく知的で、直感的にも身体的にも映画を呼吸し続けることが出来る天才、ニコール・キッドマンというスター女優だ。

 

●インフォメーション

10月18日 全国ロードショー
grace-of-monaco.gaga.ne.jp

 

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プロデュース :及川健二
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