2019/06/22 政治
《福島市議選2019/6/30》さはら真紀:311を乗り越え大好きな福島で生きる、子育て世代の挑戦

さはら真紀は高卒で、高い学歴もなく、普通の主婦だった。そして去年の春、彼女は選挙に立候補する決意をした。彼女は、2018年4月、素人でも子ども達の為に何かできることをしたいという想いで、311後に受付を手伝い始めた「ふくしま30年プロジェクト」というNPOの理事になってほしいという総会からの依頼を受けた。理事の役を務めることを決めた時、福島市の市議選にも立候補しようと決めた。彼女や仲間の女性達は、2011年に震災を経験し、様々な難しい決断を重ね、311後起きてしまった様々な辛く難しい分断も少しずつ癒しながら、心配なことは何でも口にして大丈夫な場を自分たちでつくりながら、311前よりも少し強くなっていた。彼女は政治家になりたいと思ったことはなかった。だけど2005年に15年暮らした東京から福島にUターンし、子育てをしながらPTA活動をしたり、震災後に初めて市民によるNPO活動に携わり、311後の新しい世界で子ども達を守るための活動をしているうちに、PTAやNPOでは達成しきれない課題も見つかり、市議になればもっと良くできるかもしれないという想いが募った。PTAやNPOだけでは、お母さん達の気持ちは学校や行政のやり方や方針に反映されないことがほとんどだった。何か変えてほしいことがあっても、教育委員会で決まったから、私たちは従うしかないんです、市で決まったから、国で決まったから、こうすることしかできないんです…と言われ続け、決まっちゃったことだから仕方ないね、と他の誰かが決めたことを、自分たちに意見や希望があっても諦めて受け入れることしかできなかった。だけど震災後は、彼女も周りの女性達も、社会に自分たちの声を混ぜて反映してもらう為には何かしないといけないという意識に変わっていた。放射能の汚染のことをきちんと知りながら暮らしたいという市民の人達で放射能測定をしているうちにわかってくる傾向もあったし、他にも嬉しい成果を得られることもあった。2018年にモニタリングポスト撤去という原子力規制委員会の決定についてのニュースが入った時は、彼女は仲間と「モニタリングポストの継続配置を求める市民の会」を立ち上げ、福島の人達が放射線量の変化を知るために、原発の廃炉が完了するまでは撤去しないでほしいと働きかけた。撤去についての説明会でも県民の反対が相次ぎ、リアルタイム線量測定システムは当面存続という結果になり、2019年5月30日に福島民放に大きく掲載された。自分達の力で何かを変えられることを仲間達と一緒に実感できたことはほんとうに素晴らしいことだった。そして彼女は周りに驚かれながら、大変なことを覚悟で、選挙に立候補することを決めた。現役の福島市議会議員35人のうち女性は3人で、子育て世代の人はゼロという福島市で、選挙に出れば必ず叩かれるし、難しい挑戦だとはわかっていた。立候補を決めてから、周りの人達が示してくれる様々な意見を彼女はありがたく受け取った。だけどアドバイスをくれる人の中には、「女性が政治の世界に入るなら、髪も切って、化粧もしないで、わざとダサい服装をして、じゃないと入っていけないよ」というようなアドバイスをする方もいた。彼女が立候補するのはそこを変えたいからだし、自分らしくいられる社会にしたいからなので、そういったアドバイスはただありがたくいただいて活動に取り入れるわけにはいかなかった。選挙のためだけに自分らしさを捨てるようなことはできない。だけど彼女はできるだけみんなの期待に応えるために、たくさんのアドバイスの中から日々取り入れるものと、申し訳ないけどできないことを考えて精査した。そして2019年6月2日に選挙事務所の事務所開きをした。事務所の壁は仲間達の書いてくれた応援メッセージでいっぱいになり、見ているだけで胸がいっぱいになった。女性として、母として行政に伝えたいことがたくさんあった。

 
彼女は、原発事故後極めてセンシティブになった福島の人達の気持ちにも配慮しながら、市議として実現していきたいことを書き出した。

 
<安心して妊娠、出産、子育てできる環境づくり>
①一時保育、病児保育など多彩な保育で子育てと仕事の両立支援
②不登校や発達障がい、貧困問題などを抱える子どもへのサポート体制の充実
③地域でつくる、防災、防犯、通学路の安全対策

 

 

<女性の尊厳を守る、社会の仕組みづくり>
①女性の政治参加に向けたネットワークづくり
②男女共同参画社会の実現に向けた活動
③女性の経済的自立とジェンダー差別解消への取り組み

 

 

<未来に残す誇りある「福島」へ>
①自然豊かな福島の風土を残す保全活動と環境教育の実施
②福島独自の文化PRと正しい情報を元にした観光誘致
③動物の殺処分ゼロを目指す、動物愛護の取り組み
④原発に依存しない持続可能な自然エネルギーの推進

 

 
彼女は1972年、福島市野田町に生まれ、自然豊かな笹木野で育った。近所には畑や果樹園があり、北には松川、南には荒川が流れ、西には山や高湯温泉があった。彼女と弟は学校の子ども達の中で1番肌が黒くなるくらいまで外で遊び回った。近所の人達は畑の野菜や果物を食べることを許してくれたし、あれも駄目これも駄目と子どもを縛るたくさんの決まり事もなかったので、彼女は自然の中でいつも自由に遊び回ることができた。学校で誰かが無視されたり陰湿ないじめにあっていると、彼女は何かしなくてはと思い、いじめをしている人達と闘うこともあった。そうすることで自分も一緒にいじめられてしまうこともあったけれど、いじめがとまることもあった。高校時代はブルーハーツやプリンセスプリンセスが大流行し、世間はバンドブームだったので、エレクトーンを習っていた彼女はバンドでキーボードを弾いた。高校を卒業すると、大学には進学せずに資生堂に就職した。会社に「東京でお願いします」と言われた時は、福島から出ないといけないなら辞めようかと彼女は悩んだ。すると父親が「親元を離れてみるのもいいもんだから」と背中を押してくれたので、1991年に1人上京し、亀戸にある資生堂の寮に入り、新しい仕事と生活を始めた。初めの頃東京は汚くて治安の悪い街に見え、なかなか好きにはなれなかった。福島の方がずっと美しかった。亀戸や錦糸町のあたりにはヤクザのような人達もたくさんいたし、ちょっと得体の知れない感じの外国の人達もたくさんいた。道にはたくさん酔っぱらいが気を失って寝ているし、周りの人達もその人達をただ放っておいている様子は、冷たい都会に見えた。休暇で大好きな福島に帰ると、福島の人は酔っぱらいの人を友達でもないのに車で家まで送り届けていたりしていた。福島はいつまでもこうであってほしいと彼女は思った。東京では、朝起きて支度をして、化粧品売り場へ出かけ、商品の知識を増やし、美しさに必要な色彩感覚やバランス感覚を磨き、美容のことを学び、笑顔でお客さんと接した。人と直に接することのできる化粧部員の仕事を彼女は好きになった。店にやって来るお客さんたちの悩みを聞きながら、その人がどうしたらもっと輝けるのかを考え対応する時は微かな緊張感と楽しさを感じ、それを日々積み重ねることはには充実感があった。お客さんの喜びがそのまま自分の喜びになった。プロのメーキャップアーティストを目指してメーキャップ専門の研修に行って学んだり、エステの資格を取ったりした。パートで働きに来ていた先輩にバンドをやっている人がいたので、彼女は先輩のライブを観に高円寺のライブハウスによく遊びに行くようになった。バンドを観るのは大好きだったし、先輩にバンドをやっている人がいた時はとても嬉しく、どこか懐かしい気持ちになった。ライブハウスで音と心の表現の世界に全身で浸れるのは福島でも東京でも特別な時間だった。バッチリメイクをしたスーツとハイヒールの化粧部員の仲間達と、ユニセックスなミュージシャン達が東京で彼女にできたちぐはぐな友人達だった。杉並区には自由で力の抜けた、楽いけれど落ち着いた独特の空気があったので、彼女は資生堂の寮を出て阿佐ヶ谷に引っ越しをした。やはり東京では家賃は高く、アパートは狭かった。だけど福島ではできないような東京の楽しみ方も段々と身に付き、少しずつ自信もついていった。

 
そして、ある日吉祥寺で飲み会があった時に、彼女は福島出身の人に出会った。お互い自己紹介をしていると、「福島だよ」と言うので、山が多い西側の会津とか、太平洋側のいわきとか、福島の中でも自分のいた福島市からは遠いところかと思ったら、彼は道路を挟んで隣りの中学校に通っていた人だった。故郷のことをあれこれ話せるのは楽しかったし、すぐに親近感が沸いた。彼女は今まで九州の人と恋愛をする機会もあったりしたけれど、結婚して九州みたいに遠いところに嫁ぐことは上手くイメージすることができなかった。そんなことは自分にはできないだろうと思った。彼女はいつかは福島に戻りたかった。両親もいつかは彼女に福島に戻って来てほしいと考えていた。2人は恋人同士になった。彼女が東京生活を初めて8年経った頃だった。それから2人はさらに7年間東京で働き、生活をし、結婚をした。そして子どもができた時、2人はこれからも狭くて家賃も高い東京で子育てをするよりは、子どもがのびのびと動き回れるように自然豊かな福島で子育てをしようと思い、2005年、子どもが歩き始める前に福島に3人でUターンした。生まれ育った土地でも15年も離れていると、家族と、帰省の時に顔を合わせる同級生達がいるだけで、同世代の多くは20代で子どもを産んでいたので子育ての別の段階にいたし、子育てをしながらママ友や新しい人間関係をつくる苦労をしなければいけなかった。それでも長女はのびのびと成長していたし、新しい家族と福島に帰って来れたことを彼女はやはり嬉しく思った。彼女は主婦になり、子育てをし、幼稚園のPTAに参加し、資生堂で身につけた技術をただ無駄にしているのももったいないと思い、自宅でささやかな美容サロンを開いた。子どもが幼稚園に行っている空いてる時間を使って、エステをやりたいけど時間もお金もない自分と同じような人達のために、1時間2000円くらいの格安の料金を設定して、ほぼボランティアのようなサロンをやった。お客さんが来ると、アロマの好きな香りと好きな音楽を選んでもらい、フェイシャルでパックをしている間に、ハンドマッサージをしたり、ツボを押したりする。彼女はお客さんの好みに合わせ、小さな部屋だからこそできることをした。

 
子育ては彼女は親達からの助けを得ながらすることができたので、比較的楽ではあっても、やはり大変だった。だけど転勤で福島に来た人や、旦那さんの実家が福島だから来た人にとって、子どもを一時的に預かってもらう一時保育先を見つけたりするのは大変だったし、一時保育所は事前に登録しておいて、空きがあればやっと預かってもらえるような状態だった。社会的なサポート不足の子育てには孤独がつきものになって「孤育て」になってしまって、きっと全国での子どもの虐待や貧困にも繋がっているんだろうと感じた。福島市でも、理由を問わない託児所ももっと増えてほしいと感じていた。子どもを保育所に預けられず、社会復帰をすることもままないという女性達にもたくさん会った。元々正社員でも、産休をとって育休をとって、会社に復帰しても、子どもが熱を出しやすかったりしてちょこちょこ休まないといけなくなると、会社でひんしゅくを買い、結局復帰できなかったり、復帰してもすぐに辞めることになってしまう人もいた。子育てがお母さんだけに押し付けられてしまう状況をたくさん見聞きしてきた。彼女はそんな状況が変わって、もっと自由に女性が輝ける社会になってほしいと夢見ながら子育てをしていた。

 
2011年3月11日、地震が起きたのは彼女が自宅のサロンで施術をしている最中だった。フェイシャルとハンドマッサージを終えて、ハーブティーの準備をしようとしているところだった。2階の施術用のベッドのある部屋から、1階のキッチンに行く為に階段を降りていた時に、家がグラグラと揺れ始めた。お客さんは地震の揺れでステレオが落ちないように支えてくれていた。ようやく激しい揺れが収まり、テレビをつけようとすると、テレビはつかなかった。いつの間にか施術中にかけていた音楽も消えていた。玄関では金魚を飼っていた水槽の水がこぼれて、床がびしょびしょになり、お客さんのハイヒールの中にも水がガポガポと入っていた。そのお客さんは旅館の女将さんで、いつもサロンの後にしっかりと化粧をし直してからまた旅館の仕事に戻っていく人だった。だけどその日は化粧もできず、地震の後恐怖でなかなか震えが止まらなかったので、すぐには車の運転をすることもできなかった。彼女はお客さんの体の震えが止まり、気持ちが少し落ち着くまで一緒にいた。「ごめんなさい靴が濡れてしまって…」と言うと、「あなたのせいじゃないんだから大丈夫よ」とお客さんは言った。自分の靴を貸してお客さんを送り出すと、今度は娘を預けている幼稚園に向かった。もう迎えに行く時間を大分過ぎてしまっていた。その日は3月だというのに、外では雪が吹雪く寒い日だった。幼稚園に着くと、園庭の真ん中に運動会の時に使う屋根だけのテントが張ってあり、その下で園児達が泣きながら毛布にくるまって親たちが迎えにくるのを待っていた。幼稚園は木造だったので、倒壊を恐れて先生方がとった措置だった。その日は幼稚園最後の日で、翌日に卒園式と謝恩会を控えていた。彼女はPTAの会長をしていたので、準備はしていたけれど、どうなってしまうのかわからなかった。テレビは5日間つかなかった。ガラケーの小さな画面で津波の映像を見た。情報はもっと欲しかったけれど、家族と連絡を取るためにケータイの充電は残しておきたかった。車を使えばケータイの充電をすることはできたけれど、車のガソリンも無駄にすることはできなかった。家から段々食料品がなくなっていった。コンビニにもものがないし、どうしようかと思っていると、駅前のデパートで1人5点まで買い物ができると聞いて、彼女は娘と友達の娘2人と一緒に駅前のデパートの食料品売り場で何か買おうと列に並んだ。これで4人だから、5×4人で20個食べ物が買えるね、と話していると、駅前で地元紙の号外が配られ始めた。福島で号外を見たのは初めてだった。号外を受け取ると、原発が爆発しているけど、水素爆発だから大丈夫、というようなことが書いてあった。それを見て、原発付近は大変だけど、とりあえず福島市はこんなに離れているんだし大丈夫だろうと思い、とにかくお風呂に入ったり、まともに食事ができるような、日々の生活を回復することですぐにまた頭がいっぱいになった。だけど数日すると、「医師がどんどん子どもを連れて避難しているよ。危ないっていうから、逃げた方がいいんじゃない?」と薬剤師をしている友人から連絡があった。彼女はどうしたらいいかわからなかった。放射能の事故のことは、チェルノブイリの例を知っていて、とても怖いものだというイメージがあった。だけど、どこをどう逃げるべきかもわからなかった。「すぐ避難した方がいい」という情報もたくさんある中、彼女はそれができず、とにかく室内にいるということしかできなかった。マスコミが原発事故について「ただちに影響はありません」と報じた時、彼女はその言葉を反射的に受け入れ、少しほっとすることができた。国や偉い人達の言うことや行政機関が大丈夫と言うなら、大丈夫だろう。今まで福島も日本もずっと平和だったんだから、これからも大丈夫だろうと思った。

 
そして4月に娘が小学校に入学すると、娘は学校が配布する放射能についての色んなQ&Aが書かれた印刷物を持って帰ってくるようになった。学校で娘が受け取ってくる印刷物には、100ミリシーベルトまでの被ばくは大丈夫なので、外で遊ばせても大丈夫ですよ、マスクも意味がないのでしなくていいですよ、と書かれていた。彼女は学校から配られたプリントを全てとっておいた。今まで一般人が年間にする被ばくの許容量は1ミリシーベルトだったのが、事故後は100倍になっていた。まだ原発事故から間もなく、外にいると毎時20ミリシーベルトの被ばくをするような環境下でそういった印刷物が配布されていた。

 
そして5月になると、彼女の気持ちは180度変わっていた。彼女は大型バスの座席に座り、東京に向かっていた。想いの同じ福島の人達で大型バスを2台借りて「100ミリシーベルトは安全」という政府のスタンスを、事故前と同じように年間許容量を1ミリシーベルトに戻してもらおうと文科省に向かった。永田町に行っても大臣に会うことはできなかった。バスの中は、悲しみや怒り、不安と恐怖でいっぱいだった。バスの中で泣いている人がいて、どうしたのかと聞くと、友達が妊娠したけど、この状態で心配だから赤ちゃんを堕ろしたのだとその人は言った。どうして福島に住んでいるからってこんなことになっちゃうんだろう…と、彼女はやるせない気持ちになった。バスの中で、これからは黙っていたら守ってもらえない、自分たちの手でどんどんできることをやらないといけないんだ、と彼女は覚悟を決め始めていた。バスに乗って一緒に文科省に行った人達も同じ想いだった。みんなで子ども達を守るために市民団体を立ち上げた。そして様々な人達からの助けのおかげで、ベラルーシから寄贈してもらった放射能測定に必要な機械も手に入り、市民のボランティアでの活動が始まった。パソコンに詳しい人や、物理に詳しい人が活躍する中、実際に測定所にやって来るのは子どもを連れたお母さんたちなので、彼女は受付スタッフとして活動を支えた。市民の測定所は成長し、「ふくしま30年プロジェクト」というNPOになった。

 
311後、今まで心配したことのなかったことについて各々が自分の頭で考えなければいけなくなった。洗濯物を外に干して大丈夫なのか、食べ物を地元産のものを買うか、九州みたいに遠くのものを買うのか、子どもが外で遊びたいと言うときにOKするかどうか、福島に住んでいて大丈夫なのか、たくさんのことを判断しなければいけなかった。娘は、外で遊ぶのが大好きだったのに、彼女が外で遊ぶことを注意するのを繰り返すうちに、あまり外で遊ばなくなってしまった。2011年に家族のメンバーにも白血病が発症してしまい、福島医大に入院するという事態が起きた。周りに避難する人達も出てくる中、命に関わる病にかかってしまった家族がいる自分は、我が子だけを連れて福島から避難することはできないと思い、彼女は福島に留まることに決めた。それからも、福島にいても大丈夫かもしれない、と思っていると、甲状腺癌が増えているという情報が入ったりして、普段の暮らしの中に希望と絶望の波が浮き沈みするようになった。そういう状態の中で、彼女は福島で暮らしながら、どうしたら子ども達を守っていけるかということをいつもいつも考えながら行動するようになった。気づくと、政治のニュースもいつの間にか自分ごとになっていた。

 
長期休暇には世田谷に福島の子ども達の保養を受け入れてくれているところがあったので、彼女は娘を連れて東京に保養に行った。自然を求めて東京を出た自分が、娘を自然の中で遊ばせるために東京に向かう状況はなんてちぐはぐなんだろうと、彼女は悲しく思った。感じやすい娘は、福島ではマスクなしでは外の空気も吸えないかのように怯えてしまっていた。マスクを忘れて焦る娘を見て、「そんなに心配しなくても大丈夫だから」と彼女は言った。彼女は娘を必要以上に怖がらせてしまった罪の意識と、だけど身を守る為にはそうするしかなかったという2つの相反する想いの板挟みになった。

 
311後の食品の安全について、行政は、今までは「低レベル放射線廃棄物」として扱っていた100ベクレルという数値でさえすごく安全な数字だから、今の一般食品の出荷制限が100ベクレルになっているのです、と説明した。だけど100ベクレルのセシウムが入っているものをずっと食べていても問題ないのかと言われたら、それは誰もが答えだせないんだから、念のためと思う人達の気持ちをちゃんと優先させてあげたいという想いで彼女は測定所で活動した。不安な気持ちを抱えている人達がいる限り、測定はやめてはいけないと思った。だからこそ、測定所は、むやみに放射能の危険を煽ったり、盲目に安全PRをするのではなく、とにかく正確な数値を測って情報を提供することに徹底した。国や県が安全PRに莫大なお金を使う中、彼女達の測定をする活動は風評被害を煽っていると攻撃する人もいた。だけど実際の数値を知りたい人も、政府や行政機関の放射能測定の仕方が不充分だという考えの人は福島だけでなく全国にたくさんいたので、事故後は全国に市民による測定所ができ、連携も進んだ。「みんなのデータサイト」では市民の測った食品や土壌のデータが集約され、知りたい人が誰でもそれを調べられるようになった。使いたい食材や旬の食材、例えばふきのとうなら、何年何月何日にどこで採ったふきのとうが何ベクレルか調べることができるので、気にしている人は判断材料としてデータサイトを使えるようになった。彼女はお母さん達と一緒に子ども達の使う通学路や、幼稚園で使う散歩道もホットスポットファインダーで測り、情報を共有し、福島県内外で現状を伝える活動もした。

 
福島に住んでいると、放射能のことを未だに心配しているのは自分くらいだろうと思ってしまうくらい、放射能のことは日常的には話されなくなった。そんな中でも、丁寧な活動を続けることで、心配なことは心配だと口にして良い場をつくり、言いたいことや心配事を抱え込まなくて良い福島にすることが彼女の掲げた大切な目標の1つだった。ずっと住んでいる人はもちろん、避難していたけれど、経済的なことや、家族がずっとお父さんと離れて暮らすのが難しくなって母子避難から戻って来る方もたくさんいる中、心配なことやわからないことをなんでも遠慮なく話せる場所をつくっておく必要がった。彼女は福島市内では交流会を続け、県外で福島に関心のある人達の為に「福島の現状を知り語り考える会」を東京で定期的に行った。東京に避難している人達や、何かしたいけどどうしていいかわからないという人や、保養の受け入れをしている団体の方々や、今福島がどうなのか知りたいという人達は震災から8年経った今でもたくさんいた。

 
仲間達の応援から、喜びとプレッシャーの両方を感じながら、誰も取り残さない社会、誰もが自分らしく生きられる街を目指して彼女は市議選に向けて活動している。地震と津波と原発事故に襲われた福島で、女性達は元気に強く自分らしく生きようとしている。

 
2019年福島市議会議会選挙:6月23日告示、6月30日投開票

プロデュース :蜂谷翔子
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