155人が助かった『ハドソン川の奇跡』ではなく、大惨事になっておかしくなかった未曾有の航空機事故の「真実」~クリント・イーストウッド監督トム・ハンクス主演最新作9月24日公開 by 藤原敏史・監督

冒頭いきなり我々は、エンジンが両方停止して推力を失った旅客機A320のコクピットに、機長と副操縦士と共にいる。ニューヨーク、マンハッタンの上空だ。管制塔からラガーディア空港の第13滑走路までなら戻れるかどうか訊ねる無線が聴こえる。

 

もちろん観客は、この映画を2009年1月15日に起きたいわゆる「ハドソン川の奇跡」の映画化だと知って見ているはずだ。ニューヨーク上空で両方のエンジンが渡り鳥を巻き込んで停止した旅客機が、極寒のハドソン川に絶妙な着水を成功させ、乗客全員が助かった。市街に墜落していたら9.11テロ事件に匹敵する大惨事になっていたのが、機長の機転で救われた。

 

その出来事がまさに起こっているまっただ中を映し出しているはずのこの冒頭シーンは、しかしなにかがおかしい。

 

「サリー」という自分のニックネームを呼ぶ声で、主人公が真っ暗なホテルの部屋ではっと目覚め、「SULLY」(原題)というタイトルが現れる。冒頭シークエンスは機長チェスリー・サレンバーガー(トム・ハンクス)の見ている悪夢だった。

 

クリント・イーストウッド監督が『アメリカン・スナイパー』の次回作に選んだのはまたも実話の映画化だったが、飛行機事故からの奇跡の生還の美談というのには違和感を覚える人も多いかも知れない。だがこの冒頭から、イーストウッドが作ったのが決して「ハドソン川の奇跡」についての映画ではないことが強烈に、文字通り悪夢のように突きつけられる。

 

むしろ「ハドソン川の悪夢」と呼ぶのがふさわしい。

 

「死」を体験してしまった人間がどう生き続けられるのか?

 

これはサレンバーガー機長が155人の乗客乗員の命を救った実話だったはずだ。にも関わらず冒頭の悪夢から、この映画は徹底してそこで起こったはずの「死」についての映画であり、誰も死なないはずなのに「死」と、そして「死後の世界」の空気が濃厚に漂う。

 

クリント・イーストウッドのやることは恐ろしく一貫していて、とりわけ2006年に発表した太平洋戦争硫黄島戦の二部作『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』で鮮明になったその一貫したテーマは、とりわけ『ヒア アフター』と前作の『アメリカン・スナイパー』を経てこの最新作でさらに純化している。

 

「死」を体験しまった人間たちが、生きているはずなのにその心のどこかが死んだままの状態で、彼らはどう生きることが出来るのか? 実際、映画『ハドソン川の奇跡』が悪夢から始まるのは『父親たちの星条旗』とそっくりだし、過去と現在が悪夢にしか見えない記憶によって入り交じる構成は『星条旗』と『J・エドガー』、『アメリカン・スナイパー』を引き継いでいる。

 

今年で86歳になる大ベテランは、もはやどんな題材でも自分の映画にしてしまうだけでない。『J・エドガー』まで突き詰めて来た暗闇の映像美も、直接の感情表現は抑制しつつシンプルなメロディを活かして観客のエモーションを揺さぶる類い稀なる叙情性も、これまでイーストウッド映画のスタイルであり個性だったものすら、彼はもはや必要としていない。

 

かつてイーストウッドは暗闇に支配された画面作りを「観客には多くを見せない方が想像力が働く」と言っていたが、今回は65mmサイズの大きな受光素子を持ったIMAX用のデジタル映画キャメラを採用し、細部までが鮮明に見える映像をほとんどごくシンプルな構図・キャメラ位置で構成している。鮮明に見えるからアップはあまり必要もなく、引き目のショットのなかに、表情を押し殺した人物の目尻から流れる涙がくっきり写っている。

 

コンピューターは着水の判断を誤っていたという

 

機長がニューヨークのホテルに泊まっているのは、「英雄」「奇跡」と讃えられたはずなのに、運輸安全委員会の調査で疑念が浮上したからだ。当時はなにやら機長が怪しげなハッタリ屋のペテン師であるかのように一部では報道されたが、この「疑惑」は実際にはコンピューター・シミユレーションでラガーディア空港に戻って着陸が可能だったという結果が出たことだった。問われたのは判断ミスの可能性で、サレンバーガー機長に意図的な犯罪が疑われたわけではない。だが報道の与える印象は違った。

 

ハドソン川の奇跡が実際には奇跡でもなんでもなかったのと同様に、イーストウッドの作家性の離れ業も、もはや「映画の奇跡」ではまったくない。それが今やなにか特別な芸術家の個性の力技ですらないのは、サレンバーガー機長の英雄的行為が本人にとってまったくの人間的必然でしかなかったのと同様で、完全に映画的かつ人間的な必然の結果でしかないのだ。ただその真理に、私たちのほとんどは言われてみなければ…いや映画で見せられなければ、まず気づかなかったであろうだけだ。

 

推進力をまったく失った旅客機事故で誰も死ななかったのは、確かに客観的には「奇跡の生還」かも知れない。だが旅客機の二つのエンジンがほぼ同時に渡り鳥の群れで破壊されるという誰も想定していなかった事態に陥ったことそれ自体は、まったくの悪運でしかない。

 

エンジン停止から着水までわずか208秒間、その短い時間のなかで大勢の人々の命を背負うことになった機長と副操縦士には、自らの運の良し悪しを考える余裕すらなく、全員の生存が確認されるまでは自分たちのやったことが奇跡だったり英雄的行為だったりするかどうかも、意識をよぎりすらしないのが現実だろう。映画『ハドソン川の奇跡』、というか原題の『SULLY』の方が明らかにふさわしいが、この映画はその当事者以外は誰も気づかないが、この言われてみれば当たり前のシンプルな真実をこそ、観客と分かち合う。

 

サリーは運悪く死んでいておかしくなかった。これは大惨事になっていたはずだった。なぜか、そうなっていない。「奇跡」の主人公になんてならずに済めば、どれだけよかったことか。

 

クリント・イーストウッド監督が映画化したのが「ハドソン川の奇跡」の知られざる真相なのはまったくその通りだが、その「真相」が事実関係として当初報道された事実とまったく異なっていたとか、疑惑が明かされるとか、そういうことではまったくない。にも関わらず映画が提示するのは、この映画なしには我々がまず知ることがなかった、明らかに当事者以外には誰も知らなかった真実であり、その真実は、これが誰も死ななかった事件だったにも関わらず、死に取り憑かれ、生きながらどこかですでに死の領域に足を踏み入れてしまった人物を映し出し続けるイーストウッドの作家性にぴったりシンクロしている。

 

そこで起こったはずの「死」から逃れられない生存者たち

 

「私は42年間何百万もの乗客を安全に運んで来たのに、たった208秒間で裁かれる」と機長は副操縦士(アーロン・エックハート)に漏らす。わずか208秒の危機的な時間が96分の上映時間に引き延ばされたのが、この映画でもある。

 

機長はその208秒間の判断と行動の是非を問われ続け、シミューレーションの結果を突きつけられると、自分でもそのわずか208秒間の記憶が定かなのか分からなくなって来るのは、人々が「奇跡」と呼んだその時間が、彼にとっては最悪の悪夢、死んでもおかしくなかった、いや自分が死んでいたはずだったトラウマだったからに他なるまい。

 

左エンジンに推力が残っていたというデータを突きつけられた機長は、「私が感じていたのは違う」としか答えられない。なんとか記憶を呼び起こすとすればするほど、彼は自分が体験した「死」の世界に方に引き戻される。

 

単独のクロースアップがあまりない映画なのに、我々はこの死んだはずだった男の内面をいつのまにか共有してそれを見ることになる。IMAX専用キャメラを採用しながら、イーストウッドのキャメラが向くのはスペクタクル的な雄大な光景ではない。人間の顔とその奥底にある人間の心、魂というスペクタクルをこそ、この映画は慎ましく、一見淡々とすらした態度で映し出す。

 

暗闇も印象的なメロディもないのに、冒頭シーンからこれは紛れもなくクリント・イーストウッドの映画であり、もはや特別なテクニックも個性的なスタイルやなにも要らないない。一見シンプルで普通に見える映像の流れの絶妙な親密さと距離の相反するバランスは、こと身近で誰か重要な人が亡くなった経験があって、その死者の記憶をどこかで反芻しつつ、それを押し殺して日々を生きていくしかない観客にとって、とりわけ強いエモーションを呼び起こすだろう。

 

すでに『父親たちの星条旗』が、本当に戦場を体験した人々にこそ響く映画だった。ちなみに日本側の硫黄島戦の体験者には『硫黄島からの手紙』はあまり評判はよくなく、しかし彼らはそろってこのアメリカ側の映画をこそ「我々が体験した通りだ」と絶賛し、「アメリカ兵もなにも変わらない、同じ人間だったと分かって、少し楽になった」とも言っていた。

 

『ヒア アフター』は日本での劇場公開中に東日本大震災が起こり、冒頭が大津波のシーンであることから上映が自粛されたが、実は多くの人が津波で亡くなったからこそ、生き残った人たちのために見せられ続けるべき作品だった。

 

『アメリカン・スナイパー』は撮影の準備中にモデルになったクリス・カイルが亡くなり、遺族が「ありのままの彼の姿こそ映画にして欲しい」と望んで完成した映画だった。

 

心理学では「共感能力」と言う、クリント・イーストウッドのそれが並外れていることは誰しも認めざるを得まい。自分は死んだはずだったという、当事者が誰とも分かち合えないはずの、実体験者にしか分からないはずの経験と感覚を、この映画作家はなぜかまるで触れられるものであるかのように映像にし、実際に生き残った人々も納得させてしまうのだ。

 

反芻される208秒間の悪夢

 

208秒の悪夢、トラウマとしか言いようがない記憶を、主人公は査問を受けているせいで何度も繰り返し反芻することを強要される。家族は遠くカリフォルニアにいて、妻(ローラ・リニー)との電話もうまく会話が噛み合ない。

 

彼はひたすら208秒のいわば「死の時間」を生き続け…いや「死に続ける」ことから逃れられず、運輸安全委員会の結論が出るまでは自分の仕事つまり生きて来た理由であるところの、飛ぶことも許されない。自分は死んだはずだったが生きている、しかし生きているはずが、もはや生き続けることができないでいる。

 

最近ではスティーヴン・スピルバーグと組んだ『ブリッジ・オブ・スパイ』でやはり実在の人物を見事に演じていたトム・ハンクスは、現代アメリカ映画で「普通の人」の役にもっともふさわしい俳優と賞賛を集めて来たが、初のクリント・イーストウッド作品での演技はこれまでの彼とは別人に見える。

 

コメディアン出身のハンクスは、卓越したユーモアのタイミングのセンスと人柄の暖かみを活かした「普通の人」の持ち味なのが、チェスリー・サレンバーガー機長は事故前なら確かに普通に真面目で経験豊かなパイロットだったものの、あの208秒間を堺に「普通の人」として生きることが出来なくなっている。

 

これまで映画ファンが親しんで来た「普通のトム・ハンクス」がこの映画の中にいるのは1月15日の朝、搭乗機がラガーディア空港からいつものように飛び立って、渡り鳥の群れに遭遇するまでだけだ。それ以降のハンクスは、俳優兼監督としてイーストウッド自身が演じて来たのと同様の、すでにその内面でどこかが、なにかが死んでしまった人物を演じなければならない。クリント・イーストウッドはトム・ハンクスから、これまでにない別次元の、圧倒的に優れた演技を引き出したという評価すら、あまりふさわしくないかも知れない。ハンクスがイーストウッドの演出の助けで作り出したのはもはや「演技」ですらない、「存在」そのものだ。

 

「記憶の映画」としてのクリント・イーストウッド作品

 

「死」の映画である『ハドソン川の奇跡』は、必然的に「記憶の映画」である。監督としての初期には主人公が実は幽霊ではないかと思わせる西部劇三部作『荒野のストレンジャー』『アウトロー』『ペイルライダー』があり、成熟期に入り『許されざる者』『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『グラン・トリノ』『ヒア アフター』といった、語れない記憶を抱えた主人公たちの映画(コミカルな娯楽アクション『ルーキー』やほとんどコメディのように軽快な『スペース・カウボーイ』ですら、重い記憶が重層的に重なる映画でもあった)や、『父親たちの星条旗』『J・エドガー』『アメリカン・スナイパー』のような複雑に時系列が錯綜する記憶・回想構成の映画を撮り続けて来たイーストウッドの、経験から来る技量の凄みなしに、この映画ができなかったことは間違いない。

 

俳優としての代名詞となった『ダーティー・ハリー』シリーズですら、第2作以降のハリー・キャラハンは過去(つまり前作)で確立した名声と悪名を周囲に常にあてこすられ、自分自身はパートナーが自分の身代わりで必ず殺されるという過去の積み重ねのジンクスに密かに苛まれている。ハリーも「自分は死んだはずだった」ヒーロなのだ。一見シリーズものの自己パロディに見えたこうしたディテールが、今となってはそうした俳優イーストウッドと、監督イーストウッド双方の、今という時間を必ずしも完全に生きているのではない、その存在が死の時間に半ば囚われた存在を見せて来た映画的個性の根幹をなす要素だったことが分かって来る。

 

蓄積された経験の凄みから来る技量の高さでもあるのだろうか、死の記憶に囚われた、複数の時制を同時に映画にするそのやり方は、この最新作では見た目にはシンプルを極め、回想シーンを導入する特別な演出すらほとんど用いられない。

 

このシンプルさが、ニューヨークに滞在して運輸安全委員会と対峙したりマスコミの取材を受けたり、ホテルで眠れぬ夜を過ごしたり、真冬のマンハッタンの夜をジョギングして「今」をなんとか生きながら、実は自分はその時間にはいない、あの208秒の死の時間を生き続けるしかない主人公のありようとして、最も自然な認識であり時間の体験であることを、イーストウッドと本作で編集者に昇格したブル・マーレイ(これまで常連のジョエル・コックスの助手を務めて来た)は確信しているように思える。

 

拭い切れぬまま隠蔽された9.11テロ事件の記憶

 

いや『ハドソン川の奇跡』が記憶の映画であるのは、単に主人公のトラウマがあるからだけではない。まずこの事件自体がニュースを埋め尽くし、今でも大衆が共有する集合的記憶の一部になっていることが、この映画が作られたそもそもの背景にあることも言うまでもないだろう。

 

だが一方で映画自体はその正反対の記憶に向かう、そのことを強烈に印象にづけるショットがある。高層アパートに住む住人が、窓の外に自分の方に向かって来るA320を目撃する。

 

キャメラ位置が反対側に切り返しになり、呆然と見つめるその男の前の窓ガラスに、A320の正面の像が反射している。このショットが痛切に印象づけられるのは、主人公がマスコミの取材の合間にホテルの窓辺に立っているのを、その窓の外から捕らえた相似形のショットがあるからでもある。機長はそのとき、自分の操縦する機が当然そうなっておかしくなかった悪夢の光景を思い浮かべて放心状態になっていたところで、「サリー」と繰り返し声をかけられることでハッと我に帰る。

 

世間がなにも深く考えずに「ハドソン川の奇跡」と呼ぶ集団的記憶が、乗員乗客だけでなく、エンジンが停止した旅客機がマンハッタン上空を超低空で滑空する光景をリアルタイムで目撃したごく一部の人たちにとっても自分が死ぬかも知れなかった恐怖の記憶であるだけではない。そうした目撃者や、管制塔の管制官たち、そして航空関係者にとって、ニューヨークを低空で飛ぶ飛行機という光景自体が、瞬間的に別の悪夢の記憶を呼び起こす。

 

救出作業が終わり全員の生存が確認された直後のシーンで、機長たちを迎えに来た航空会社の同僚がさらっと言う台詞があまりにも重い。「この街(ニューヨーク)には最近、飛行機については悪い記憶しかなかった」。

 

言うまでもなく9.11テロ事件のことだ。最初は主人公の悪夢として、続いて何度も事故の再現として映し出される、マンハッタンを超低空で飛ぶ旅客機の姿は、ワールド・トレード・センター崩壊についての映画のワンシーンだと言われても誰も疑わないだろう。2016年に作られた映画が8年前の2009年1月15日の出来事を回想しているだけでなく、その出来事の映像が必然的に、そのさらに8年前の2001年9月11日もまた密かに回想しているこの映画は、あの時からなにかが変わってしまったアメリカについても、痛切ななにかを突きつけてはいないだろうか?

 

「あなたも死んだかもしれない155人の1人だった」

 

運輸安全委員会の公聴会、つまり機長と副機長がいわば「公開裁判」にかけられる朝、妻が電話をかけて来る。「なぜ今まで気づかなかったのかしら?155人が死んだかもしれなかった、あなたもその1人だったのね」。この妻の言葉が、サレンバーガー機長が再び生き始めるきっかけになるのは、別に夫婦愛のセンチメンタリズムではない。自分は死んでいておかしくなかったという、当事者でなければ共有できない体験ゆえに、自分が理解され得ない存在になっていたことを、少なくとも妻にはやっと理解された瞬間なのだ。

 

『父親達の星条旗』のエンド・クレジット以来、実話の映画化でイーストウッドはその現実の写真で映画を終わらせることを好んで来た。演じた俳優たちと似ていないかも知れないことなぞ、彼は気にしない。むしろ風貌が違うことをあえて見せているのかも知れない。死んでいたかも知れない、死んだはずだった、死とのニアミス体験が、自分の死を見てしまった人間にしか本当には理解できないものである以上、映画がそれを完全に再現したかのように装うことはおこがましい。映画はやはり現実と一致するものではないことを意識するとき、我々は余人には理解し得ない体験を、それが理解しきれないものであることも含めて、なにかを理解するするのだ。

 

この映画の本当のラストシーンは、何年かぶりで再会したサレンバーガー機長と副機長、クルー、そして乗客たちだ。そこでサレンバーガー機長本人が、あの時に自分たちは特別ななにかを共有したからこそ家族のようなものになったという。これはイーストウッドのフィルモグラフィのなかで、『父親たちの星条旗』の冒頭まもなく語られるナレーションに通底している。「誰もが戦争の話をしたがる。戦場にいたことがない者は特にそうだが、戦争のことをなにも分かっていない。英雄も悪人もたくさんいる。だがその誰1人として、あなた達が思ってるような人間ではない」

 

死んだ者たちや、なぜか奇跡的に生き残った人たちのことは、それを体験した人にしか本当は分からない。だが「分からない」から無視していいのかと言えば、そんなはずはない。クリント・イーストウッドの映画は、その極限のバランスの上に存在しているからこそ美しいだけではない。コンピューターのシミュレーションが人間の行いの正誤を判断する基準になってしまいそうな時代だからこそ、失ってはいけないなにかが、その映画には刻印されているのだ。

 

死を意識することは、生きることを本当に考えようとするときにこそ、実は避けられない。実存主義を追及した哲学者たちが「メメント・モリ」というラテン語の言葉で、これを意識しよう/させようとしたことは、正しい指摘ではあっても取っ付きにくく、かえってしっくり来なくなるかも知れない。だが映画は、言葉で語ることで経験をシェアさせるメディアではないし、映画のなかでもっとも肝心なことであればこそ、言葉は要らなくなる。だからだろうか、イーストウッドはこの新作の「メメント・モリ」について、一見なにも言っていないかのように見える平易な言葉でこう語っている。「ハドソン川の奇跡のような死とのニアミスに、私たちは自分が今生きている、ただそれだけの命のありがたさに気づかされる」

 

9月24日全国公開 ワーナー・ブラザーズ配給

http://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/

 

 

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