映画と絵画が溶け合う瞬間に、本来の日本そのものの過去と映画の未来が垣間見える〜小栗康平監督最新作、オダギリジョー主演『FOUJITA』 by 藤原敏史・監督

藤田嗣治の二枚の戦争画『アッツ島玉砕』と『サイパン島同胞臣節を全うす』は、東京国立近代美術館に所蔵されている。こと第二次安倍政権の発足後、常設展示でこの二枚の大作が並べて展示されることが多い。もしかして学芸員の静かな警鐘と抵抗なのかも知れない、そう思うほどにこの二作はあの戦争の日本軍と日本人の軍国主義の狂気を、神がかり的な凶々しさで発散し、見る者に突き刺さる(現在は同美術館所蔵の藤田全作品がまとめて展示中)。

 

だが絵だけ見ると反戦絵画の極致に思えるこの二作品を描いた頃、50代の藤田嗣治は陸軍美術協会の理事長だった。戦後に戦争協力の過去が批判され戦犯容疑にも問われた藤田は、日本画壇に嫌気がさして日本を去りフランス国籍を取得、二度と帰国することもなく、晩年にはカトリックに改宗、遺作となったのがランス市のノートルダム・ドゥ・ラ・ペ(平和の聖母)礼拝堂壁画である。1966年の夏に描かれたこの作品に、藤田嗣治、いやレオナール・フジタは、自画像を描き込み、「1966年6月から8月まで、80歳」とフランス語で署名している。

 

小栗康平監督の『FOUJITA』のラストは、この最晩年の代表作の署名と、磔刑のイエスを見上げる使徒たちのなかに描きこまれた最後の自画像だ。

「伝記映画」ではなく、画家藤田嗣治の三つの時間としての映画

映画の紹介や批評を結末から始める異例をお許し頂きたいのは、1920年代・乳白色の時代のパリと1940年代前半・戦争画の時代の日本という二部構成と紹介されがちな『FOUJITA』は実が三部構成になっていて、その第三部に当たる最晩年の礼拝堂壁画の自画像からその全体構造が逆算されているともみなせるからであり、そう考えた時に「難解」に思えるこの作品は、ある意味すんなり理解も出来るし、小栗康平が藤田嗣治/レオナール・フジタその人に導かれてこの映画を作ったとも言える。

 

まず1920年代、渡仏10年にしてエコール・ド・パリの寵児となった藤田の日々だが、例えば猫好きだったと言ったトリビアは、ファーストショットで藤田の住む木造二階建てのアトリエ(大きくはあるが簡素な、一見物置小屋のような風情)の全体像の、その屋根を猫が歩いて横切るだけで示される。

 

セカンドショットではそのアトリエの中、ほの暗いなかに乳白色の壁にかけられた皿やその前のテーブル等が、ぼんやりと浮かび上がる。だが固定されたキャメラが凝視するうちに、これが台所の壁ではなく台所を描いた藤田の静物画だと気付かされ、我々は愕然とする。いったいこの映画では、なにが起こっているのか?

 

映画の映像がデジタル技術で加工可能になってから随分経ち、この数年で完成・上映形態すらフィルムからデジタルに移行した今、デジタル加工された映像と現実を写しとった映像の区別も、かつてのフィルム上では質感の違いがどうしてもあったのが、今ではほとんど気付かない。とはいえそんなデジタル技術も、まだ特殊合成などフィルムでやられて来た表現をより精緻に、ないし安価に出来たり、出来ることの幅が広がる代替手段としてしか使われて来ていないのが映画界全体の傾向であるのに対し、『FOUJITA』における小栗康平のアプローチはまったく異なる。正直、もはやこれを「映画」と呼んでいいのかどうかも自信が持てない。少なくともこれは、我々がこれまで「映画」と呼んで来たものの枠内で考えるべき/考えられる作品ではない。

今までの映画のデジタル技術の使い方は、最初から間違っていた

デジタル技術の映像加工は絵の具を塗るのに近い細かなレタッチや、絵筆の代わりにデジタルツールを自在に動かすことで現実ベースの写真情報がない画像・映像を文字通り「描く」ことすら可能であり、その意味で映画表現が写真から離れて絵画に近づいていることは既に現実になっているが、ただしそのデジタル技術は今まで、主に実はデジタル上でペイントされて創造されたものをあたかも実写の写真映像のように見せる、いわば観客を「騙す」ために使われて来た。

 

それに対し、『FOUJITA』のセカンドショットは確信犯的な騙し絵であり、騙し絵であることを観客に意識させるように作られている。最初は現実の事物、実写だと思えたものが実は絵という効果が、ただデジタル技術の駆使だけで可能になったわけでもあるまいが、なによりもこの映画の冒頭で小栗康平が示していることは、この作品が必ずしも写真的な映画表現ではなく、かといってアニメーションでもない、むしろはっきりと絵画的な映画であることの表明であろう。

 

いやむしろ、この映画において実写と絵画、撮影時にキャメラの前に存在したものと芸術家が見出し描いたものに、本質的な違いはない。映画とはまず現実を、その動きも含めて記録する写真映像メディアだったはずだが、画家についての映画である『FOUITA』において、映画はむしろ絵画に近づき、写真と絵画の境界は限りなく曖昧になる、そのスタイルと言うか、この映画の存在のあり方そのものが、このセカンドショットに凝縮している。

 

藤田嗣治は画家だ。サードショットは独り画架に向かう藤田(オダギリジョー)だが、その前にモデルはいない。キャンバスに引かれた女性の横顔の下絵の輪郭線を、日本画の面相筆が丁寧になぞる。藤田の作品づくりそのものが直接描かれるのは、映画の中でここだけだ。他にあるのは例えば、日本からやって来た若い画家達とカフェのテラスに座りながら、逆の端のテーブルに座る女性たちを見つめる藤田が、実はコートの下でペンを走らせその顔をデッサンしていて(つまり絵を描いていることそれ自体は見えない)、その絵を彼女達に渡すところや、裸のモデル達がポーズをとっているのを前に、一心不乱に歌麿の美人画に見入っている光景がある程度だが、それらが藤田が絵を描いているシーンかと言えば、むしろ絵を描くというパフォーマンスをやっているのであり、そこにはモデルという立場でありながら、実は彼をこそ見ている観客がいる。本当に絵を描いているとき、彼は独りだ。

エコール・ド・パリは外国人のやったこと、その中心にいた藤田嗣治

乳白色の時代を通じて、冒頭の台所の壁の絵と、やはりアトリエに置かれたランプのある静物画が印象的な存在感を発散する以外では、藤田の作品はほとんど画面に映らないか、背景装置の一部ないし展開上の小道具として目に入るのみで、例えば大作『モンパルナスのキキ』は運送夫たちに道路を運ばれているだけだ。このアプローチには、いわゆる「画家の伝記映画」を期待する観客は拍子抜けするかも知れず、藤田嗣治を名前しか知らなければ、彼がどんな画家だったのかも分かりにくいかも知れない。

 

モンパルナスのカフェ、ラ・ロトンドでの新進気鋭の画家とモデル達のパーティーでは、藤田だけでなくヴァン・ドンゲンやハイム・スーティンと言った「エコール・ド・パリ」の著名画家達も同席しているが、やはり名前だけだ。藤田も裸婦像を描いている人気モデルのモンパルナスのキキが余興で「エコール・ド・パリ」カクテルを作り始める。要は画家それぞれの出身国の酒を混ぜるわけで、「日本のサケがないわ」というキキに、藤田はおどけた仕草でポケットから徳利を取り出す。だが肝心のある酒が出て来ない。そこでこの場にはおらず揶揄の対象になっていたモーリス・ユトリロの名が出て、やっとフランスのワインがブレンダーに注がれる。

 

痛烈な皮肉でもある。芸術の都パリと言っても、その芸術は外国人が作っていたもので、この場にいない時代の寵児パブロ・ピカソだってスペイン人、モディリアーニもイタリア人、私生児であったユトリロの法的な父もフランス人ではなかった。「フランスの偉大な絵画の伝統」は形でしかなく、パリが美術の世界的中心だったのは「(外国人の)絵が売れる」場所だったからに過ぎない。すべてフィックスショットの、引き目の画面で構成されたシーンで、画家とモデルが乱痴気騒ぎを始める中、スケッチ帳を手に片隅に座って眺めているスーティンが印象に残る。

 

このスーティンの姿は伏線にもなっていて、後に藤田が若い日本人画家達を「蜂の巣」に連れて行くシーンで、スーティンが藤田と対照的な激情の画家でもあったことが言及されるのだが、一方のパリ時代の藤田はそういう「芸術家」イメージとは著しくかけ離れた軽薄っぷりだ。おかっぱ頭に大きな金のイヤリングに丸めがね、出歩く時はシャレたスーツ姿で、自分の姿をマネキンにして紳士服店のショーウィンドウに飾らせてまでいる。「売れるためにはそこまでしなければいけないのか」と若い日本人達は驚くが、「日本人である自分が勝つため」というその藤田の言い方も、そのような熱意めいた愛国的なものは一切感じさせない。

 

1920年代のパリの街並みはむろんデジタル技術で再現されているが、本物の写真映像っぽく見せるという方向性に小栗は向かっていないし、かといって当時の藤田の「乳白色の時代」のスタイルを模倣するような小賢しい方向にも走らない。わずかに乳白色の時代の最後近くの「フジタの夕べ」のシーンで白が多用されているくらいなものだ。

 

しかし先に言及したセカンドショットから、この映画が見せる「現実」であったはずのものの映像は、確かに乳白色の時代の藤田の絵画と一致しているのだ。フランス語ないし英語ならopaqueという形容詞がぴったりだろうか、超絶的な技巧を駆使し、写実的でありながら、現実になにか半透明の美しい皮膜をかぶせた様な、アラバスター越しに見る世界のような感覚が乳白色の時代の藤田の特徴であるとしたら、この映画では藤田嗣治その人もまた、同じ様にopaqueな存在として自らを「演じ」続けていて、それは乳白色の輝く肌に描かれた藤田の女たちと同じ様な存在になる。それでも映画として成立していることには、オダギリジョーの力が大きいことは特筆すべきで、いわゆる熱演を許さない小栗演出で、人物の存在感は事物のそれと同等であるかのように希薄化され、その見え方はopaqueなのに、かえってその存在が際立つ、その演技の知的な軽やかさが見事だ。そしてこのopaqueな感覚が『FOUJITA』前半のパリ・乳白色の時代篇の映像を支配し、写真映像と絵画表現の差異・境界は限りなく曖昧になる。

乳白色の時代と、暗い褐色の時代

乳白色の時代と戦争画の時代の暗い褐色が、同じ画家の作品とは思えないほどに強烈なコントラストを示す藤田嗣治の作風の変容は、薄墨を撒いたような曇天に黒々とした半島が画面を横切り、その下を灰色の海が荒れ狂う画面が、突然映画『FOUJITA』に現れることで踏襲されている。Opaqueな層で現実になにか膜がかかっている前半に対し、後半・戦時中の画面は、光も色彩も抑え陰影が支配することで、やはり写真映像として現実がありのままに映るのではなく、絵画と写真の境界が曖昧になる点が一貫している。

 

パリのシーンから約20年後、国民服姿の藤田嗣治は『アッツ島玉砕』を携え戦争絵画展で全国を巡業している。『アッツ島玉砕』の展示場所では観客が脱帽するよう促され、前には賽銭箱が置かれ、客がお金を入れる度に絵の横に立った藤田が最敬礼していたという伝説が、映画でそのまま再現されているのは、藤田嗣治をめぐる有名な逸話に直接基づく恐らくは唯一のシーンだろう。この戦中・戦争画の時代は、『アッツ島玉砕』に始まり『サイパン島同胞臣節を全うす』で終わるという、いわば、この二枚の絵をブックエンドに構成される。それはつまり、戦争絵画の傑作であると同時に、戦意高揚目的で描かれたはずなのが反戦絵画にしか見えない、「画家の意図」がまったく掴めないというまったく謎めいた絵画の間に経過する時間なのだ。

 

藤田嗣治は5回結婚している。乳白色の時代は主に彼が「雪」とあだ名をつけた三人目の妻リュシーとの時代(ただし映画では「ユキ」と藤田が呼んでいるだけで説明は一切ない)に重なるが、1930年代後半に帰国した藤田は25歳歳下の5人目の妻・君枝と結婚している。映画では彼女をオダギリジョーと実年齢では同年代の中谷美紀が演じ、二人の間では乳白色の時代の男女間にはなかった不思議な調和というか、まるで共犯者の様な感覚が印象的だ。君枝は前妻達を気にするかのようにわざと振る舞い、「だって一人目の奥さん以外は、みんなあなたの絵になっているのですから」とユーモラスな意地悪で夫をやり込めながら、彼女はそんな夫を受け入れている。二人で鎌倉に行くシーンで、骨董屋の店先に座った二人が、並んで掛けられた女面と般若面を黙って見つめ、微笑むとき、この夫婦のあいだには余人の理解できない空気が漂う。

 

だがその君枝にとっても、なぜ夫がそこまでやる必要がないほど熱心に戦争に協力するポーズをとり、陸軍美術協会の理事長という貧乏くじまで引いてしまうのかは理解出来ない。その藤田は一方で、美術協会の会議のあと、勝鬨橋を同僚と歩きながら、大本営発表がまったくの嘘で、ミッドウェイ海戦に敗れた日本は太平洋の制空権をアメリカに奪われ、本土空襲も時間の問題だから疎開した方がいい、とも言っているのだ。

 

それでも理事長職の将官待遇で将軍の軍服まで賜ると、疎開先の藤田がわざわざそれを着て出歩こうとするのも、なぜなのか君枝にはさっぱり分からないし、それは乳白色の時代で藤田がFou-fouというあだ名通りに奇矯な行動を繰り返すのかユキには分からないシーンと呼応している。彼はそこで「奇行をやればやるほど、私は自分自身に近づく」と言っていた。一方で君枝は、このわけの分からない夫をユーモラスな意地悪でからかい愚痴を言いながらも、軍服を着て出歩くにも軍靴は支給されていないので藤田が下駄で構わないと言うと、夕方に新品の下駄を下ろすのは縁起が悪いと、その歯を軽く削る。これで下駄は新品ではなくなる、というわけだ。藤田は口では愚かな迷信だと言いつつ、この戦争画の時代は次第にその日本的な「迷信」に支配され、藤田はいかにも古来の日本的な、亡霊めいたなにかに取り憑かれていく。

 

戦争画の時代の大部分は藤田と君枝の疎開先で展開し(疎開先で離れを借りた豪農の家など、今でもこんな風景や家があるのかと驚くほど、美術部の仕事が凄い)、その田舎のシークエンスを当地に伝わるキツネをめぐる伝承が侵食していく。映画『FOUJITA』はここで物語的なテーマ性としては小栗康平のデビュー作『泥の河』の世界観に近づいて行くのだが、その映画では加賀まりこ演ずる水上生活者の娼婦と息子の「きっちゃん」という具体的な身体を持っていた、いわば「キツネ」、つまり日本的な霊的世界や記憶と魂の領域に通じるものの体現が、この映画で具体的な実態を持って見せられることはない。小栗康平の映画世界は、「映画は人間を描くもの」という従来の古典的な映画観からどんどん離れ、人間もそれを取り巻く世界も等価のものとして、写真表現である映画が直接には写せないものへの感性を研ぎすませて行くのであり、そのことは藤田の描いた台所の情景が、一瞬それが飾られたアトリエの現実の台所と見分けがつかないセカンドショットで予告されていたことでもある。

「絵が人の心を動かすものだということを初めて目の当たりにした」

そういえば『アッツ島玉砕』について藤田が後輩の画家に語る時、藤田はこの戦争絵画を「ちゃんばら」とみなし、戦争を描けと言われても絵描きには戦場の情景でなく人間を描くしかない、だが戦場には人間の動きがあり、それには卓越した腕が必要だと言っている。あたかも、その卓越した腕だけが『アッツ島玉砕』を描く上で自分がやったことだと言わんばかりだ。だが一方で、「絵が人の心を動かすものだということを初めて目の当たりにした」とも彼は付け加える。

 

もしかしたら藤田が『アッツ島玉砕』と共に全国を行脚したのは、その絵に心動かされた人々へのサービスだったのかも知れず、それは乳白色の時代で彼が意識的に奇矯な振る舞いをしていた、「やればやるほど、自分自身に近づく」と言っていたことに共通する行為だったのかも知れないが、戦争画の時代の冒頭でこれが語られるからには、それが藤田にとっての真実、創作の真意であったわけでもあるまい。戦争画の時代の冒頭付近の入浴の場面では、乳白色の時代でユキのために彫ると言っていた彼女の姿の刺青と、左手首の12時を指した腕時計の刺青がちらりと映る。

 

陸軍の依頼で新たな戦争画を描かなければならない藤田の背後に、その構想中なのかも知れない戦争画のイメージが浮かび上がり、彼が小さなキャンバスを手に取るとそれが自画像で、裏には日本語で嗣治五十八歳と署名されている(つまり1944年)。そうした自画像の一方で、能面があり、そしてキツネの伝承があり、乳白色の時代で歌麿の美人画を藤田が、モデルがいるのも忘れて熱心に見入るシーンと呼応するかのように、広重の名所江戸百景から王子の狐火が画面全体に写し出される。

 

ではキツネとは、なんなのか?藤田は猫好きの伝説はあったが、小栗康平の映画ではキツネの方が猫よりも重要だ。

 

藤田夫妻の疎開先の豪農の息子(加瀬亮)は教師で、赤紙が来たその晩に、地元に伝わるキツネの伝承を語る。夜行の汽車の機関士が、同じレールを正面からこちらに向かって来る汽車を見て慌ててブレーキをかけると、その汽車は消える。同じことが幾夜も起こり、機関士は見えた汽車に向かって汽笛を鳴らして突っ込むことにする。翌朝、線路にはキツネの死体が無数転がっていた。

 

キツネは人を化かす一方で稲作の守り神でもある(キツネが稲荷神社の使いであるのは、鼠を退治し米を守るからだと言われる)。このキツネの物語の語り手は誰だったのか?「機関士の話なのか、村人の話かも分かりません。人から人に伝えられるなかで、話も変化して行きます。そして主語も分からなくなります」。単一の主語のない、集合的な記憶ないし無意識の痕跡、つまりは神話の世界、ユング心理学の領域において、パリ時代の藤田が体現していたはずの近代主義的な「個」そして「孤」と他者、世界、自然、そして絵の対象となる死に兵士たちとの、概念の境界が曖昧化していき、乳白色の時代の第4ショットで藤田があれほどこだわっていたその輪郭線もまた、映像のなかでも曖昧化していく。

西洋化を目指した日本の近代化の果ての戦争画

小栗康平は藤田を「徹底的な近代主義者だった」「西洋の個人主義の自由も、自由に必然的に伴う孤独も、知り尽くしていた」という。明治以降、日本の近代化は西洋化としてのそれだったが、こと藤田が実体験した洋画の世界では、東京芸大時代の教師だった黒田清輝のように、西洋の新しい技法を吸収しては日本に持ち帰って画壇で分かち合う、その新しい技法を教えられることを権威にするのが、日本の洋画家にとっての洋行の目的だった。フランスに居着いたままそこで「勝負する」、つまり世界の画壇で自己の地位を確立することを目指した藤田嗣治は、日本の美術界では異端だったからこそ、帰国すると陸軍に協力することで日本人らしくあろうとしたのだろうか。

 

乳白色の肌と呼ばれた鮮烈な白の表現は藤田自身が創造した技法であり、どうやったらそんな白が出せるのか、生涯誰にも明かさなかった(死後、修復作業のための分析で、そのやり方はやっと解明された)ことも、画家が個の芸術家として固有のスタイルを持つことが確立したパリでは当たり前だが、日本では嫉妬と怨嗟を集めることにもなる。乳白色の時代で藤田を訪ねた若い日本の画学生が、高村光太郎がパリ訪問時に書いたノートルダム寺院への憧れの詩を朗読するのを、藤田は「なに言ってるんだ」という風情で聞いている。

 

帰国した藤田が軍への協力に積極的だったのは、俗説でよく言われるような、単に自身が武家の家系で親類縁者に軍関係者が多かっただけではあるまい。陸軍美術協会の理事長という貧乏くじを敢えて引いたのは、日本に帰ればそれまでの経緯から孤立する可能性が高いなか、画家としての個を守るために軍の権威を利用したことにもなろう。なによりも戦争画・歴史画を描くことは西洋の絵画史において公的な画家の大きな社会的役割であったことも藤田は意識していたのではないか、というのが最近の学説だが、だとしたら彼の選択は軍国主義の全体主義を利用することで職業画家としての自我の個人主義を守り抜く、ねじ曲がったやり方だったのかも知れない。

 

では藤田が守ろうとした画家としての個とはなんだったのか?『アッツ島玉砕』でルネサンス以降の西洋絵画を徹底して学んだ技巧と発想の限りを尽くした「腕」で画家としてやるべきと考えたであろうこと(「歴史画」としての戦争絵画)をやり尽くした藤田が、その時に「絵が人の心を動かすことを、初めて見た」とも言うのは、単に観客を感動させたことの自己満足だけには聴こえない。

 

この戦場の阿鼻叫喚の瞬間を描き尽くした絵が当時、惨敗や全滅を「玉砕」と美化する軍国主義の欺瞞に利用されたとは、今その絵を見れば信じ難くもあるし、ただまじめに戦意高揚に貢献したいならこの様な絵を描くわけがないのは確かだ。

死者の世界、幽霊の世界、キツネの領域

しかし一方で、まさに殺し合いと死のその瞬間をドラマチックに表現し尽くしたことの凶々しさはある神々しさを帯び、だから人々は賽銭を投げたのかも知れない。だとすれば藤田が「初めて見た」という、絵が人の心を動かすという事態は、西洋近代的な絵画の鑑賞と需要・消費とは異なった、なにやら宗教的というか映画の藤田の台詞で言えば「くだらない迷信」、土俗的と同時に神秘的で超越的な意味合いを持つ。

 

なんといっても『アッツ島玉砕』はただの戦争画ではない。そこで克明に捉えられた動き、人体の運動とは、殺人の瞬間であり、死の瞬間だ。日本人本来の精神世界、心性において死は霊魂の領域、神の領域、ないしキツネの領域への入口であり、人間を取り巻く人間外の世界である「彼岸」に向けて、川を渡る内的な運動である。

 

そして疎開先の村の向こう岸に、夜キツネ火を見た藤田は、母屋の女主人に尋ね、そして川を渡る。一方陸軍省に呼ばれた藤田は、そこで次の依頼作のための資料として写真を見せられる。それはサイパン島の玉砕の際、米軍から逃れてバンザイ・クリフから飛び降りる母子の姿だ。そして地下室の暗闇に招かれた藤田の前で、今度はそのフィルムが映写される。闇に浮かぶモノクロの飛び降り自殺、そして同じ光景がカラーで繰り返される。これが史実にまったく反するのは言うまでもない。このフィルムは米軍が撮影した有名なもので、戦時中の日本にはなかったし、カラー版が発見され公開されたのは今年か去年のことのはずだ。

 

映画の撮影時にはなかったカラー版を、おそらく小栗康平はあえてここに挿入している。史実に反するのは百も承知で、むしろ意図的に。そのすべては闇のなかに浮かぶぼんやりとした光になる。まるでキツネ火か、『泥の河』で天神祭の夜、きっちゃんが生きたカニに火を点ける、その炎のほのかな、妙に誘惑的な光のような、opaqueな灯り。『泥の河』では、主人公の少年が、きっちゃんに火を点けたカニに誘われるように行った先で、きっちゃんの母が客をとっている姿を見て、目が合ってしまう。

近代、古代、そして未来を結ぶ映画

近代主義の真っただ中の時代、西洋近代の中枢と思えたパリで、近代個人主義の雄たる芸術家となった藤田嗣治の乳白色の時代と、その20年後に近代的な個たる芸術家・藤田が古来からの日本に取り込まれていく一方で、近代化を目指した日本の暴走が日本そのものを破壊しようとしていた暗い褐色の戦争画の時代、このまったく対照的なふたつの時間は『FOUJITA』の、現代最先端のデジタルによって写真と絵画が溶け合う映像のなかで並立しつつ、呼応しあい、前者は「フジタの夕べ」のアトラクションに設けられた乳白色の布の川に皆が倒れこんで溺れて終わり、後者では屍累々たる戦場の川のなかに、渾身の大作『サイパン島同朋臣節を全うす』が浮かび上がる。

 

いやこれをただ、芸術家・藤田嗣治たる個の創造した「渾身の大作」と言っていいのだろうか?もっと古代日本的な、なにやら人を超えたもの達が混然一体となったかのような神話的な作用こそが凝縮しているのかも知れず、その闇のような神話・集合的無意識は藤田の内面にこそあるのかも知れず、しかしその所在を確定することに意味があるとも思えない。

 

そして第三部の、平和の聖母礼拝堂、藤田嗣治というよりレオナール・フジタの遺作がある。この作品を、フジタは「80年の生涯で重ねて来たすべての罪の贖いとして」描いたと言っていたそうだ。なんとルネサンス期の壁画技法だったフレスコ画の技法を、フジタはこの作品のために新たにマスターした。漆喰を塗り乾かないうちに絵を描きあげることで漆喰に絵の具をしみこませ定着させる、つまり物凄く手早く描きあげなければならないやり方を、高齢の彼はあえて用いたのだ。フレスコの特徴は数百年を経ても褪せないみずみずしい色彩の鮮やかさだ。この壁画も、また新鮮な若々しさに満ちている―もしかしたら、どの時代の藤田嗣治の作品よりも若々しく見える。

 

この第三部の撮り方は、乳白色の時代のあるシークエンスと明らかに通底している。パリ時代の藤田は一時期毎日ルーブル美術館に通って古典を学び、模写して過ごしたというが、そのシーンはこの映画にはない。その代わりにあるのは、クリュニー中世美術館に所蔵された中世美術の至宝、『貴婦人と一角獣』のつづれ織りを彼が見るシーンだった。そのシークエンスでは最後に、五感を表す5枚のタペストリーに織り込まれた有名な標語が映っていた―「私の望むものすべて」

インフォメーション

11月14日より、角川シネマ有楽町、新宿武蔵野館ほかで全国ロードショー
http://foujita.info/

 

東京国立近代美術館 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示 12月19日まで
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/

 

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プロデュース :及川健二
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