2019/03/27 地域
小さな種が繋ぐ物語 〜 原発事故から8年とみ子さんの想い 〜  (第4回 毎日ビデオジャーナリズムラボ 8bitNews賞受賞作品)

 

「皆さんは知っていますか?震災前の飯舘村を。」

 

飯舘村は福島県浜通り北部、阿武隈山系北部の高原に開けた自然豊かな美しい村です。2010年9月には
「日本で最も美しい村連合」に加盟されました。高原地区の為、年間の平均気温は約10度という冷涼な気候です。

昔からこの地域には「手間暇惜しまず」「丁寧に」「心を込めて」「相手を思いやる」という意味の『までい』という言葉があり、それに因んで飯舘村流のスローライフ「までいライフ」を提唱して村の人々は暮らしてきました。

 


 

「 東日本大震災そして原発事故 」

 

2011年3月11日 14時46分  東日本大震災が発災。
そして、翌3月12日東京電力福島第一原発1号機が水素爆発を起こし、14日は3号機、15日には4号機が水素爆発を起こしました。また、15日には2号機の格納容器が破損。その間、爆発を防ぐ為のベント作業なども行われましたが、原発からは大量の放射性物質が放出されて、福島県の一部地域の方々が避難を余儀なくされました。

飯舘村は東京電力福島第一原発から30 – 50km圏内に位置します。
3月11日原子力緊急事態宣言が発令され、その日の夜には国が福島第一原発から半径3km圏内に避難指示、半径10km圏内に屋内退避指示を出しました。
また、翌12日には半径20km圏内に避難指示、15日には20 − 30km圏内に屋内退避指示が出されましたが、その時飯舘村は避難指示圏外だった為、特別な避難指示は出されていませんでした。しかしながら、実際の放射能による汚染は距離だけでなく当時の風向きによって影響され、その後の見解では3月15日に発生した放射性プルームにより飯舘村は大きく汚染されていたことがわかりました。
その後、2011年4月22日に国は避難区域を「警戒区域」「緊急時避難準備区域」「計画的避難区域」の3つに再編、飯舘村はこの時に*計画的避難区域に指定されました。

*計画的避難区域とは東京電力福島第一原発から半径20km圏外で1年間の被ばく線量の合計(積算線量)が20ミリシーベルトになりそうな区域で、1ヶ月を目処に別の場所に計画的に避難する事を求められた。


 

「 飯舘村の特産品 いいたて雪っ娘かぼちゃ作り 」

 

飯舘村に暮らしていた渡邊とみ子さん達は震災前から飯舘村の特産品のかぼちゃを作る為に育成者の菅野元一先生や仲間達と品種改良を重ねてきました。

そしてようやく出来たかぼちゃは「いいたて雪っ娘かぼちゃ」と名付けられました。皮は白くて薄く、中身はポクポクした甘くて肉厚の美味しいかぼちゃです。ようやく世に出すための品種登録を平成21年(2009年)に出願し、認められたのは2年後の平成23年3月15日。奇しくも東日本大震災から4日後の事でした。

原発事故後、とみ子さん達ご家族は友人からの声掛けで自主避難を始めました。避難先で後に飯舘村にも全村避難指示が出された事をニュースで知ったと言います。長野県の友人の所や茨城県へ出稼ぎに行き避難を繰り返しましたが、カボチャの種を守る為に畑があるところを探して、最終的な避難先の福島市で家と遊休農地の田圃を借りて農機具などの設備など何もない状態から友人達の協力を経て、なんとか土壌を耕し、雪っ娘カボチャの栽培を再開しました。


 

「 震災から4年 」

 

震災から4年後の2015年7月。避難先の福島市で渡邊とみ子さんに初めてお会いしました。それは栽培を再開した「いいたて雪っ娘かぼちゃ」の畑でした。その土壌はゴロゴロとしており、決していい土壌とは言えないものでした。とみ子さんは「芽が出ているのを見てー」そう言いながら畑に入って行きました。それを追いかけて畑に入るとゴロゴロとした土の中からしっかりと芽が出ていました。「こういうのを見ると本当に涙が出ちゃう 」と、とみ子さんは言います。

そして「辛いこともたくさんあるけど、こんな中でも一生懸命出てきてくれた芽を見るとあきらめないで、頑張らなきゃと思う。」そう話してくれました。


 

「 そして5年半後 」

 

2016年9月 初めて飯舘村を訪れました。

2012年7月17日に飯舘村は計画的避難区域から「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の3つに再編され、帰還困難区域以外は立ち入りが出来るようになっており、私はとみ子さんのご自宅に連れて行って頂きました。ご自宅の近くにある加工場へ行くと、辺りは雑草が生え茂っていました。自前のガイガーカウンターを持っていっていたので、箇所箇所で測定していました。ある場所に来た時にとみ子さんから「この辺は高い?」と聞かれてとっさに数値を見ました。「0.21μsv/h」の表示。そう伝えると「だいぶ低くなったね。この辺は前は振り切れてたから」と、とみ子さんは言いました。と同時に数値は「0.3 」になりました。( 因みにこの数値は東京の約10倍の値です。)
また、そこには200坪あるという建物が建っていました。大工さんであったご主人がしっかりと作った建物は地震の影響をさほど受けず一部ひび割れがあっただけでした。以前は庭先にアーチもあり、素敵にガーデニングされていて、原発事故前は地域の皆さんが集えるようなコミュニティの場として、コンサートなどのイベントも開催されていたと言います。中にはまだ新しい加工場が作られたばかりでした。
さらに奥では古民家を移築してサロンをやる予定だったそうです。
しかし、その夢は原発事故によりあっという間に壊されてしまいました。

 


 

「 あれから8年 」

 

震災から8年経った今年、2019年3月12日。再び飯舘村を訪れました。
以前見せて頂いた加工場があった場所に行くと、綺麗に更地になっていました。草も刈られ、あれだけ大きかった建物もすべて無くなっていました。
2017年3月31日、飯舘村を含めた福島県の避難地域の多くは帰還困難区域を除き避難指示が解除されました。それに伴い、除染作業や工事も進んでいきました。
しかし、村のあちこちに放射性廃棄物が仮置きされているのは変わりません。

ある日、とみ子さんが田んぼから帰ってきたら重機がガリガリと音を立てて建物を壊していたそうです。それを見た時は「ああ、、。」とため息が出たと言います。
結婚してから元は牛小屋だったその建物の屋根張りを旦那さんと一緒にしたり、震災の時は新しく加工場を作ったばかりで思い出だけでなく、財産もそこにかなりつぎ込んできたそうです。無くなるのはかなり切なかったと言います。
ー 昨年末、仲の良かった旦那様が闘病の末に天国に旅立たれてしまいました ー

「 NHKの討論会でも震災関連死の事とか話していたが【形に見えない、目に見えないこと】でかなりのストレスがあって、うちのお父さんも少なからずとも震災関連死と決定づける事はできないけれど、先生も飯舘の人は大変だったねと言われ。
精神的に目に見えないところで侵されていたのかなと思って。ただ、常に前向きにいたから。やっぱりその前向きを私が泣いてばかりいるのは似合わないかなと思うから。ただ、泣きたい時は思い切り泣いて。」そう話してくれたとみ子さんは寂しそうに笑いました。



「 これからの目標 」

 

今年の3月9日、いいたて雪っ娘かぼちゃを使ったイベントを東京で開催した時に
「 何かをしたいという事 」を「 ことづくり 」というのを田舎だからできるのかなということを感じて帰ってきたと言います。
「やりたいことをやれる場所づくり 」をこれからやっていけばいいのかなと思って。昔ながらのお料理を一緒に作ってみるとか。しかもハイテクでやれたらいいなと。絶対うちのお父さんも喜んでくれると思うし。そういうのを望んでいたから。
と、これからの目標を語ってくれました。



「 震災から8年経って思うこと 」

 

こういう事故があってはいけないけれど、あった時にどうやって再生していくか、復興していくかって事を考えた時に、人とのお付き合いをすごく大事にしていかないともう無理だなと。本当に私も大事にしていかないととすごく思って。ちっちゃないいたて雪っ娘の種が人を繋いで、人が今度横の繋がりで地域を繋いで、そして飯舘を想ってくれる。いいたて雪っ娘を想ってくれる。本当にあの娘は大したもんだなと思って。立派に皆さんに育てて貰っている。
現在、いいたて雪っ娘かぼちゃの種は全国各地で受け継がれています。

それはとみ子さんの想いや活動に賛同しているだけでなく、そのかぼちゃが本当に美味しいからでもあります。


 

「 原発事故はもう終わったことではありません 」

 

東京電力福島第一原発では事故から8年経った現在も毎日4000人もの人が通い廃炉作業が進められています。当初40年かかると言われていた廃炉作業ですが、最近の調査で分かったことは現時点では現実的に40年では終わるのはかなり困難だということ。もしかしたら10年後急速に技術が発達したら少しは状況は変わっていくかもしれませんが、現状ではそれは願いでしかありません。
また原発事故といっても、事故を起こした1〜4号機それぞれの状態が違います。

 

今年の2月、初めて2号機の格納容器の床にあったデブリの一部にロボットで掴むことに成功しましたがそれは核燃料のデブリではなく、制御棒など金属が溶けたデブリの可能性が高く、燃料デブリの多くは原子炉の中に残っていると推測されました。しかし、今は原子炉にアクセスをする技術などが確立しておらずいつ作業ができるのか目処が経っていません。また、1号機と3号機は格納容器の床に燃料デブリが溜まっていると思われており、ロボット投入により3号機は一部確認できていますが、1号機に関しては障害物の影響でそれすら確認ができていない状況です。

因みに水素爆発を起こした4号機は元々定期検査中で稼働していなかった為、作業としては使用済み燃料プールの核燃料を取り出すことがメインでしたが、これは2014年12月22日に完了しており、壊れた建屋もカバーに覆われています。

日本の技術の素晴らしさも感じますが、現実はまだまだ大変な状況です。

放射性廃棄物の最終処分場も未確定のままです。毎日大量に出る汚染水の問題もあります。解体作業中に何が起きるのかもわからないまま、周辺の住民の帰還は進んでいます。

そして原発の再稼働も。。

私たちは今回の原発事故から何を学び、どうしていくべきか。
今、世界で初めてのことを日本では行なっています。

事故が起きるまでは原発の安全神話が唱えられてきました。しかしこのような事故が起きた時に、私たちは手に負えない未知の世界へ進んでいってしまったのです。
廃炉作業は想像よりも遥かに難しく、燃料デブリをどうやって取り出し、それをどこに持っていくのか。廃炉を進める為に放射性物質を飛散させないようにするにはどうしていくべきか。十分に慎重に作業が進められていますが、最悪の事態も想定しておかないといけない現状です。その時私たちはどうすべきなのか。。

過酷な状況の中で日々現場で働いてくださっている作業員の皆さん、そして開発を続けている皆さんへの感謝も忘れないようにしながら、私たちは原発事故が終わったものと考えるのではなくて、しっかりと起きた事象と現状を見続けていかないといけないと思います。

そしてこれは福島の話だけでなくて、原発だらけの日本でもしかしたらまた起こり得るかもしれない事として考えていく必要があると思います。次は想定外だったという言い訳は出来ません。また、放射能汚染があったのは決して福島だけでありません。あの時、放射性プルームは周辺地域だけでなく東京や神奈川にも流れてきました。神奈川県の学校では汚染土が構内に埋められて問題になったりもしました。
私たちは放射性物質に関する事をもっと正確に知っていく必要があると思いますし、しっかりと教育として取り入れていくことも必要だと思います。
これから何十年に渡り、毎日何千人と必要な廃炉作業を行なっていくのは残念ながらこれからの世代に引き継がれていきます。


今回とみ子さんの体験やお話からこういう時こそ
「人との繋がりがとても大事」だという事を私は教わりました。

そして、どんな時も諦めないということも。


震災から8年経った今、みんなで改めて考えてみませんか?
その為に、まずは現状を知ることから始めてみませんか。

一度はすべて停止された日本の原発は今、
         どこでどのくらい動いているか知っていますか?


「そして万が一また事故が起きた時、あなたはどうしますか?」

 


プロデュース :城島めぐみ
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