2018/04/01 地域
被爆体験 語り部 眞木淳治さん

私は先日、被爆体験のお話を聴きに広島へ行きました。平和公園のすぐ近くにある「Social Book Cafe ハチドリ舎」では毎月6のつく日に被爆体験の語り部さんとお話ができるイベントがあります。「身近に語り部のじいちゃん・ばあちゃんと話して、仲良くなってもらいたい。そんな想いで、小さな規模で直接お話できるよう語り部の方にカフェに滞在してもらっています。毎月6日は英語で証言会を予定しています。」オーナーの安彦恵里香さんの想いです。

ハチドリ舎 http://hachidorisha.com/

私がお話を伺った語り部さんは、眞木淳治(まき じゅんじ)さんです。動画では眞木さんが原爆の後「なんとしても生きていこう」と一生懸命に生きてこられたお話を紹介しています。原爆が落とされる前のお話、特に戦時中の「建物疎開」(※1)についてはインタビューした内容を文章で紹介させていただきます。

(※1)建物疎開…激化する都市への空襲に備え、火災の延焼を防ぐため、建物を解体して防火帯をつくること。

「被爆体験 語り部 眞木淳治さん」
あの頃の当時中学生、女学生は勉強をやめて工場へ働きに行った。建物疎開という作業に駆り出されて多くの人が命を失った。そんなことが、今の時代では考えられないようなことが起きた。私は15年たくさんの人にお話をさせてもらって、一緒に学んできました。その被爆者の想いを語らせていただきます。それをしっかり受け止めていただいて、これからのいろんなことに活かしていただく、そう考えて語っておきます。

「徹底した軍事教育」
私が生まれたのは、広島県安芸郡倉橋町、今は呉市となっています。島の生まれです。島の小学校を卒業して昭和18年4月に広島の中学に入学しました。当時県立の広島一中と言いました。太平洋戦争が始まったのは昭和16年12月です。中学入学した時は、もう戦争はかなり厳しい状況にありました。担任の先生は軍人上がり、他に配属将校という軍人が教官として指導をされている。それはそれは厳しい指導を受けました。徹底した軍事教育というものです。でも国が戦争をしているのだからそれは当然のこととして受け止め従ってまいりました。1年生頃から時々農家の勤労奉仕に行ったこともあります。スポーツが好きで楽しい思い出もありますが、勉強ができたのは2年生の途中まででした。

「中学生による建物疎開」
昭和19年の6月に国の命令によって中学生、女学生は学業をやめて工場へ行って働けと「建物疎開」という作業に出るように言われました。「学徒動員」という命令です。先生の中には心配して反対の意見もあったそうですが、軍人が威嚇して従わせたという話を聞いています。否応無く従わざるを得なかったと聞いています。当時2年生はクラスが5つありました。3つのクラスは東洋工業今のマツダ会社、一つは舟入という町の関西工作所というところへ、私はそこに派遣された。もう一つは己斐(こい)という町の広島航空に派遣された。いずれも軍の道具を作る軍需工場です。この三か所に分かれたのが運命を分けたのです。原爆によって大変ひどい悲しいことが起きました。8月6日東洋工業の人たちは、半分の80名が命令によって建物疎開の作業に出ることになり、爆心地から1.5キロの「鶴見橋」という所に集まっておって、その日に亡くなった人はいなかったものの、全員が大やけどを負った。関西工作所では亡くなった人が1人、けが人が15、6人。その中の1人がやけどを負った。1番ひどかったのは広島航空という会社、追うように2年生が160人同じところに派遣された。命令はみんな作業に出るように言われたのだが、先生同士が議論されたらしい。2年生の先生は体力のない子ども達が街中の作業に行くことが非常に心配だった。ご自分の判断によって教員を辞めてもいいという覚悟で休みにさせた。そのお陰で2年生は無傷だった。3年生は爆心地から800メートルの小網町というここからすぐ側の作業に行って先生以下クラスの人は全滅したんです。そういう悲しいことが起きました。

「何が起こったか全くわからなかった」
8月6日8時15分、この時間に私はもう工場に着いて仕事にかかっておりました。働いておった場所は工場そばの廊下のように繋がっていた場所で友だちと向き合って作業していた。そこは屋根があって壁のないところで、光線が直接当たる条件のところで、暑い時ですから上半身を脱いで裸の状態で仕事をしておりました。機関砲という銃の弾を作る仕事をしていました。原爆が落ちた時は、何が起こったか全くわからなかった。

「自分の信念」
私は戦争は人を狂わせると、だからこそ日本は絶対に戦争をしてはならないと強く伝えるわけです。私は決して政府を批判するそういう思想持ち主ではありません。私はあえて言います。「戦争を体験し、原爆にあった人間として心から平和を願う」と。だからこの運動に一所懸命取り組んでおると、それは自分の信念であると。だから私の話には多くの人が感動してくださって共鳴していただく、そういうお手紙をたくさんいただく。そういうことに力を得て私は続けさせてもらっている。我々一人ひとりの力は小さいけど、でも多くの国民の人が戦争をしてはならないと、原発の反対も望んでいる人が多い。私は今、日本の政治家は権力者に対してはっきりもの言えない人がほとんどだと。マスコミも大きな力に影響を受けてはっきりした報道をしない。これが真実なんです。ならばどうしたらいいのか。そういう国民の多くの声によって国民の力によって日本をいいよう変えていく。そうにしていこうじゃないかと。そのために私はこういう活動を続け多くの人に語り続けていくんだということなんですね。

眞木淳治さん 「原爆展を成功させる広島の会」 副代表
http://ww41.tiki.ne.jp/~genhiro/

プロデュース :小河原絵美
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