大河ドラマは西郷隆盛、「明治維新150年」は平成が終わろうとしている日本でなにを意味し得るのか? by 藤原敏史・監督 

明治10年(1877年)9月、明治政府への反乱である西南戦争を起こした西郷隆盛が、追いつめられて鹿児島鶴丸城の背後にそびえる城山に立て篭り自刃した、と報告を受けた明治天皇は、その死を深く悲しんだと言う。

 

いわゆる維新の元勲というか明治新政府の主要メンバーを天皇はまるで信頼せず、東京に移ってからも身辺を京都から同行して来た女官で固め、相手が政府首脳陣でも面会を拒否することも多かったらしい。まったく皮肉なことに、日本の近代化、つまりは西洋化を急激に押し進めるために新政府が担いだ肝心の天皇が、極度に保守的で伝統を重んずるというか、要するに極端な西洋嫌いで、新時代を拒否するかのように新政府ボイコットをやっていたのだ。

 

また宮中に閉じこもってやんごとなき存在として育てられて来た天皇からすれば、江戸時代までは会える身分も限られて特別に高貴で不可触な存在とされていたのが、「明治の元勲」の主たる面々は公家の岩倉具視を除けばほとんどが下級武士だった。それが新政府の首脳になったとたんに自分たちに途方もない高給が支払われるように決め、大名家や旗本から接収した大邸宅を政府が自分たちに与えるようにし、自分たちを公家や大名と同列の貴族階級の華族と決めるなど、ひどく俗っぽい権力の私物化が、天皇には目に余るものだったのかも知れない。

 

そんな「明治の元勲」の中で天皇がただ一人信頼し、深く愛していたらしいのが西郷隆盛だった。西郷と板垣退助、佐賀の乱を起こし処刑されることになる江藤新平は、こうしたお手盛り特権階級化・政治の私物化に反発し、西郷は政府に与えられた広い屋敷を貧しい書生たちに解放したり、大量の愛犬(最も多いときで15匹だそうだ)で巨大犬小屋状態にしたりしていた。こんな調子なので他の首脳たちと反りが合わない(痛烈なイヤミにしか見えない)西郷は、愛想を尽かしたのか政府の役職を辞めてしまったりもしたが、人気もあるし天皇の信頼も厚いということで政府に呼び戻されたりしている。明治天皇はその西郷があまりに太っていた(ストレス性の肥満と思われる)のを「病的」と心配し、お雇い外国人のドイツ人医師を遣わした。最初は嫌がった西郷だが、天皇の指示だと言われてしぶしぶ診察を受け、糖質制限のダイエットを指導されても神妙に従い、運動療法の散歩のために当時はのどかな郊外だった渋谷に引っ越しまでしている。

 

私利私欲を感じさせないというか俗っぽさのない人柄に、新政府をまったく信用できなかった天皇も西郷だけは、と思ったのかも知れない。板垣(後の自由民権運動の旗手)や江藤(個人の自由権を重視するフランス民法の導入を主張)は西洋最新の民主的な平等思想に心酔するような性格なので、昔ながらの身分や格式にこだわる保守的な天皇とは別の意味で反りが合わなかったろうが、西郷は古風で儒教的な道徳観も強く、天皇に心配されたとなると嫌がっていた医師の診察も神妙に受けるとなれば、天皇も付き合いやすかったのだろう。本当かどうかは分からないが、天皇が西郷と相撲を取りたいと言ったとき、西郷はあえて手加減せずに負かせてしまい、その率直さを天皇が深く愛したと言う伝説もある。

 

だからだろうか、西郷の死に天皇はまるでこの世の終わりか、自分の天皇としての治世はもう絶望的だと言わんばかりの嘆きようだったらしい。

 

対照的に冷酷なまでに淡々としていたのが3歳上の妻・皇后の一条美子(はるこ、昭憲皇太后)だった。西郷の死について辛辣極まりないとさえ言える和歌を詠んでいるのは、夫を諌めるためだったのか、それとも率直な感想だったのか。

 

薩摩潟 しつみし波の 浅からぬ
はじめの違い 末のあはれさ

 

西郷はこの20年ほど前に鹿児島湾で入水自殺未遂事件を起こしていて、美子皇后は「最初からしょせんその程度の人だから、最後もこんなに惨めなのですね」とバッサリ酷評しているのだ。

なにかと言えば死にたがる西郷隆盛

この西郷の自殺未遂は、安政の大獄で幕府に追われていた京都・清水寺の僧侶で、西郷とは旧知の仲だった尊王攘夷派の月照が薩摩に逃亡して来た安政5年(1858年)暮れに起こった。薩摩藩は月照を幕府に引き渡すか殺害すると決め、それが西郷に命じられると、反抗するよりも絶望してしまった西郷は、なんと月照と心中しようと夜の海に小舟で漕ぎ出し、月照は溺死してしまったが西郷は助かった。

 

この月照がまた、この以前に西郷を別の自殺未遂から救っている。下級藩士の西郷を異例の抜擢で重用していた藩主・島津斉彬(たとえば斉彬の養女・篤姫が将軍家御台所になったとき、輿入れの実務を取り仕切って江戸まで随行したのが西郷)が急死したとの報せを京都で受けた西郷が、後を追って殉死しようとしたのを、生きて斉彬の遺志を実現することこそが忠義ではないかと思いとどまらせたのが月照だった。

 

この殉死未遂の動機を「忠義」、心中未遂を同志で命の恩人への「熱い友情」とでも解釈すれば、西郷のいかにも日本人に愛されそうな、明治天皇の覚えもめでたかった麗しい人物像が見えて来るし、なぜ勝ち目のない西南戦争を起こしたのかも、天皇の政府に反乱を起こしながらも天皇に深い敬意と忠義の念を持ち続けてたのではないか等となんとなく納得もしてしまえそうだし、現にそういう解釈で、自決した時には朝敵(天皇に逆らった謀反人)だった西郷は大日本帝国憲法の発布時の恩赦で名誉を回復され、天皇から東京市民に土地が下賜された形で成立していた上野公園に銅像が立つことになった。市民有志の寄付で当時の日本彫刻界の第一人者・高村光雲(詩人で彫刻家の高村光太郎の父)に製作が依頼されたが、もっとも多額の寄付だったのが天皇からの下賜金だ。

 

いやよく考えると、だからって西郷が西南戦争を起こしたのも忠義の心からという戦前の皇国史観的な神話は、どういう理屈でそうなるのか、やはりさっぱりわけが分からない。近代日本に独特の国民性や価値観を「日本教」と定義し、キリスト教も含めてどんな宗教でも「日本教」の一派に変質してしまうと指摘した評論家の山本七平は、西郷の最期が論理的に説明しきれないが感情的には共感できてしまうからこそ、いわばその「日本教」最高の聖人、「セイント西郷」になったと論じている。

「情に厚い大人物」だったのか、すぐに思い詰めてしまう過激派タイプ?

だが本当にそうだったのだろうか? まず殉死未遂だが、こと薩摩藩の体制では異例だった西郷の出世は、天才的な名君と言われた斉彬に目をかけられたからだった。それも単に身分が障害だっただけではない。17歳の西郷が最初に就いた薩摩藩の役職は農村部の管理(つまり薩摩の場合はとにかく年貢の取り立て)だったが、この役職にあった10年間、西郷は大胆で無謀にも、延々と農民の窮状を訴え藩政を批判する報告ばかり書き続けたらしい。

 

江戸時代の大名は幕府から領民に善政を敷くよう命じられた立場なので、若き西郷の訴えの中身からすれば藩政を批判したことだけで処罰するのは難しかったろう。それでも普通ならあまりに疎ましいので放置するか、左遷して閑職に追いやるか理屈をつけて隠居にでも追い込みたいところだ。ところがその西郷のエネルギー(10年間も藩政批判を上申し続けたのだからたいした根性なのは確か)をおもしろがって取り立てたのが斉彬で、逆に言えばこの型破りな名君でなければ藩内に自分の居場所はない、と西郷が思い詰めたとしても不思議ではない。次の藩主の下では将来もなにも望めないと西郷が極端に思い込んで悲観しての自殺というのが、この殉死未遂の動機ではないのか?

 

心中未遂も同じラインの方が説明がつきそうだし、だいたい月照の説得で殉死を思いとどまったはずが、斉彬の遺志の実現はどうなったのだ? その斉彬の死後、若年の藩主・茂久に代わって薩摩藩の実権を握る国父となったのが斉彬の弟で茂久の実父・島津久光だが、西郷はどうも徹底的に馬が合わなかったらしい。後に久光が上京を敢行し中央の政局に打って出ようとした時にも、西郷は久光を「田舎者」の「地ゴロ」、薩摩方言で「ぼっけもん」だから京都では誰にも相手にされない、反対している(側室の子で薩摩育ちの久光は訛りがひどいから何を言っているか分からない、とひどく侮蔑的にあてこすったようにも思える)し、久光は久光で強硬な武力倒幕を主張する西郷に賛同することはなく、その過激さを警戒してなんとか押さえようとしながらも、それでも能力の高さは買って重用し続けた。そして最後には、明治維新のクライマックスとなった王政復古クーデタで、久光は西郷にまんまと裏をかかれて裏切られ、政治的な地位を失うことになる。

一本気で正義感の強い英雄? 型破りな野心家?

話をその9年前の心中未遂に戻そう。当時から西郷は久光が自分を疎ましく思っていると感じていたし、月照が安政の大獄で幕府に追われているということは、自分もまた同様に幕府に睨まれる立場だ。久光が兄・斉彬の遺志を継ぐ気なら月照も自分も幕府から守るはずが、月照を幕府に引き渡すか殺すのなら、自分の将来も藩内で立場がなくなるどころか、幕府に引き渡されて処刑されるか、久光に処刑されて幕府に首を差し出されるかも知れない。ならばいっそ一緒に死んでしまえ、と西郷が絶望のあまり開き直ったと考えた方が、人間的な心理としてよほどすっきり説明がつく。

 

だがこれは思い込みが激し過ぎる。久光は後々まで意見が合わず反抗的な西郷を重用し続けているではないか。それにここで月照をかくまって薩摩藩全体が幕府に逆らってしまっては藩の存続すら危うくなる以上、引き渡すか殺すか以外の選択肢がなかっただけではない。西郷自身も月照と同様の反幕分子だと分かってしまっては、その彼も幕府に罪人として引き渡さなければならなくなる。

 

西郷がいかに勝手に将来を悲観しようが、久光はむしろ彼を守ろうとしていた。月照の死後、西郷は奄美大島に「島流し」になったと一般には思われているし西郷自身そう言っているが、これは幕府の目の届かないところに移してかくまおうとしたのが正しい。そして安政7年(1860)年3月3日、安政の大獄を指揮した大老・井伊直弼が江戸城の外桜田門の前で暗殺(薩摩の脱藩藩士もこのテロ事件に参加していた)されると、久光は翌文久元年(1861年)には西郷を呼び戻し、再び藩政の中枢に関わらせようとした。

 

ところがこの先がまた西郷のとんでもなさだった。ムキになったように久光の方針に反抗し続け、久光を主君としては認めずに上京も「ぼっけもん」だから無駄、と吐き捨てた態度にはさすがに久光も怒ったというより音を上げたというか、他の家臣への示しがつかなくなっただろう。しかも西郷はまたもや、薩摩藩の立場を危うくする事態に関わってしまっていた。

 

外様大名が京都に入ることは幕府からみれば謀反とも取られかねない暴挙だが、久光は西郷に「田舎者」と言われ反対されても敢行し(文久2年・1862年)京都政局の表舞台に躍り出て、その西郷であっても能力を買って上京に同行させた。だが久光が天皇の命で京都にいた藩内の急進攘夷派を処断せざるを得なくなって寺田屋事件が起こり、上意討ちつまり藩命で殺害されたメンバーにこそ含まれなかったものの、その急進派には西郷の弟や従兄弟も含まれていた。久光は西郷をとりあえず京都から逃がし奄美大島にちなんだ「大島吉之助」と改名させて幕府から隠し命は守ったが、さすがにかばいきれずに今度は沖永良部島に島流しにし、西郷家も財産や藩に与えられた土地(知行)を没収された。今度は本当に処罰のための島流しで、最初は牢屋の設備が荒れ果てていてほとんど野ざらし状態の房に幽閉されたという。もっとも、それでも久光には西郷を完全に排除する気はなかったようで、西郷と幼なじみだった大久保一蔵(後の内務卿・大久保利通)の嘆願や、家老の小松帯刀の意見を入れてまたもや呼び戻し、元治元年(1864年)春に京都の薩摩屋敷に赴任させると、在京の薩摩軍の司令官に任命した。

 

この7月に長州藩が天皇に攘夷の実行と宮中からの一橋慶喜(後の15代将軍)と京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬の追放を迫ろうと武装蜂起して御所に発砲した禁門の変(蛤御門の変)を起こすと、西郷指揮下の薩摩軍は京都守護職の松平容保の下で鎮圧に当たり、この軍功で西郷もまた幕末期には京都を中心に動いていた政局の表舞台で脚光を浴びることになる。

 

長州藩は敗走時に京都市街に放火、今の京都で意外に江戸時代以前の建物が少ないのはこのせいだ。他にもこの武装蜂起の前に長州藩はたとえば、嵐山にある禅宗の名刹(京都五山の第一)天龍寺も襲撃して焼き払い、室町時代初期の庭園以外は明治以降の再建だ。明治初頭の京都は天皇が東京に移ってしまってさびれていたとよく言われるが、それだけでなく長州藩の放火で焼け野原が広がっていたことは今日あまり知られていない。

 

禁門の変の軍功を評価された西郷は引き続き第一次長州征伐の司令官となり、長州に攻め込むのではなく和平交渉をまとめあげ、長州藩は幕府への臣従の印に禁門の変の首謀者として家老3名を処刑しその首を差し出すだけの処分で済んだ。西郷は最初、あろうことか御所を攻撃し、しかも京都の中心部を焼き払った長州藩を全面戦争で打ち負かすつもりだったらしい。だが主力を薩摩に命じた幕府の真意が、このチャンスに薩摩の軍事力を疲弊させることだと知って方針を逆転させる。いったんそうと決めたらそのやり方が、これまたさすがは西郷だった。一方では東からの長州への入り口となる岩国藩を懐柔し、なんと自身は単身同然で、岩国とは反対側の長州の西端で過激派の拠点になっていた下関に密かに乗り込み、直談判に及んでいるのだ。いかにも大人物らしい大胆さと評価もできそうだが、うまく行かなければ自分が殺されてそれまでのこと、決死の覚悟というか、よほどの勝算があったのならともかく、死に場所でも求めているだけで後先をまったく考えていないかのような無謀さ(西郷が殺害されれば薩摩は幕府の先兵として長州との全面戦争に入るしかないが、西郷はそれを避けようとして単身交渉に臨んだはずだ)でもあった。

普通なら避けるべき戦闘を、西郷の「死ぬ気」で勝った鳥羽伏見の戦い

自殺未遂を何度も繰り返すだけでなく、常に決死の覚悟というか、思い通りに無理が通りそうになくなるとすぐに死にたがる傾向は、西郷のキャリアの節目節目に見られる。この3年半ほど後の慶応3年(1867年)の暮れ、西郷と大久保利通ら薩摩と長州藩、倒幕派公家の岩倉具視が結託して、即位して1年と経たない少年の明治天皇に王政復古の勅令を出させて宮中で主導権を握ったまではいいが(王政復古クーデタ)、翌慶応4年(1868年)正月には大坂城から圧倒的な兵力を持った幕府軍が京都に進軍を開始すると、薩摩軍の総司令官だった西郷はこれで負けてすべては終わり、自分は死んで天皇にお詫びするしかないと思い詰めてしまっていた。

 

実際、こうして勃発した幕府軍対薩摩軍の鳥羽・伏見の戦いは、普通なら数で圧倒し装備や訓練もフランス式の最新鋭で、強力な艦隊も持っていた幕府側が勝って当然どころではなく、西郷はそれこそ死んでお詫びなどと言うくらいなら、常識的には戦争そのものを回避したはずだった。だが鳥羽街道で幕府軍とにらみ合いになったとき、自殺行為同然で最初に発砲したのも薩摩軍だ。もっとも、いかに戦力差で敗北は必至と思われていても、西郷の指揮で街道筋の長細い地形を利用した奇襲戦略は綿密に立てられていた。しかも幕府軍は戦闘になるとすら思っておらず、不意を突かれてこの初戦に敗退、何度か形勢挽回のチャンスはあったものの、鳥羽街道でも伏見の市街地でも狭い戦場では大きな兵力を活かすことができないまま、気がつけばどんどん大坂へと追いつめられて行ってしまった。

 

だいたいここから始まった戊辰戦争が、本来ならやる必要すらなかった内戦だったはずだ。慶喜はすでに大政奉還、つまり日本全土の施政権をいったん天皇に返上して幕府は公式には終わっており、天皇を中心にした新体制造りは始まっていたのだ。逆に言えばどうしても必要だった新体制のための王政復古クーデタだったのではない。本来なら新体制でも徳川家がその中心になっておかしくなかったからこそ、その徳川家を完全に排除することが目的だった。

 

徳川家は政権を返上を宣言してもなお膨大な直轄領と財力を持ち、軍政も改革し最強の海軍力と最新鋭の陸軍を維持し、当主の慶喜は母が有栖川宮家の出で天皇家の血統でもあるので公家衆の納得も得られる。なにより本人が先帝の孝明天皇の信頼も厚く、知的で見聞も広くて「東照権現様(家康)の再来」という評判で、やはり新国家の中心リーダーにもっともふさわしいのは徳川慶喜、というのがごく当たり前の結論だったし、孝明天皇もそのつもりだった。

 

ところが慶応2年(1866年)暮にその天皇が急死する。宮中の権力バランスは混乱し、事態収拾の奇手として慶喜が慶応3年(1867年)10月14日に大政をいったん朝廷に奉還すると宣言、完全に不意を突かれた西郷や岩倉らが、いわばちゃぶ台返し的な強引さで少年の明治天皇を利用したのが王政復古クーデタだった。翌正月に鳥羽街道で薩摩軍と幕府軍の武力衝突が始まったときにも、宮中でも公家はこれは薩摩の徳川に対する私闘で朝廷は関係ないという意見が大勢だったし、土佐藩と肥前藩が徳川御三家のひとつ尾張藩の慶勝(ちなみに松平容保・定敬兄弟の実兄)と結んで事態収拾のため西郷ら倒幕過激派を排除する動きを見せていた。

 

逆に言えば、圧倒的な兵力差をみても薩摩軍が勝つとはおよそ思えなかった王政復古クーデタ自体が無謀極まりないと思うのが普通なわけで、公家たちからすればこれは「薩摩の私闘」だとトカゲの尻尾切りに徹した方が責任は回避できるし、大局的な国益を考えても内乱は絶対に避けるのが常道で、平和裏に新体制に移行する(その中心はやはり慶喜こそが適任)という流れが当然の選択のはずだった。そこを強引に方向転換した「維新」には、まず孝明帝の急死(天然痘と言われているが暗殺説は根強い)と少年の(つまり言いなりになる)新天皇の即位、そのチャンスにつけ込んだ西郷の決死の勇気というか無謀な賭けがなければ出来なかったというのは、まったくその通りだろう。逆に言えば西郷隆盛というのはおよそ実現不能に思える野心を「これが成し遂げられないなら俺は死ぬ」とまで思い詰め、勝手に自分を追い込んでしまうのが常の、かなり奇妙な行動原理がなぜか時にはうまく行ってしまう、不思議な人物にも思える。

 

西郷がそういう人物だったと考えると、新政府の樹立後はいかに同志たちの堕落っぷりが気に入らないからってあそこまで極端に嫌われる行動は普通はとらなかっただろうとか、なぜいきなり政治的自殺としか思えない征韓論を主張して政府を去ったのか、そしてなぜ自殺行為でしかない西南戦争を始め、当然の結果として死ぬことになったのかも、一貫した説明は可能に思える。

 

つまり美子皇后が「最初からああいう人でしたから、結局こうなってしまうのは哀れですけど当然ですよね」という意味の和歌でその死を冷たく突き放したのも、まったくその通りだったのかも知れない。

「明治維新」とはなんだったのか?

西郷隆盛という個人ではなく、当時の日本政治の流れの全体像で見れば、明治維新がこういう結果になったのは、新たな国づくりの中心に天皇をと言うのならそれに相応しい実力はあった孝明天皇がなぜか急死し、戦力的に負けるはずがない幕府軍が鳥羽伏見の戦いで思わぬ惨敗になり、そして西郷と薩摩藩が普通ならこうなったであろう流れを強引にねじ曲げようとしていた無茶が様々な偶然でなぜか成功してしまったからだと言える。その意味で、西郷が果たして誰からも愛される一本筋の通った無私の正義漢だったのか、20世紀で言えばレーニンのような理想主義者でかつ権謀術数にも長けたロマンチストであると同時にリアリストの天才革命家だったのか、狂信的な野心家のファシストか、現代の世界でいえばオサマ・ビン・ラディンかイスラム国みたいな過激派テロリストの危険人物だったのか、あるいは勘違いの思い込みの激しい変人が並外れた実行力と運命のいたずらでたまたま大成功してしまっただけなのかはともかく、西郷こそが「維新」で日本の歴史を変えた最大のキーパーソン、西郷がいなければその後の近代日本はこうはならなかったのは確かだ。

 

今年でその明治維新から150年、つまりちょうど今から150年前が、京都に向かった幕府軍が不運な偶然とそれぞれには些細ではあるが致命的な判断ミスの連鎖で思わぬ敗退を続け、薩摩軍が急ごしらえの「錦の御旗」(岩倉具視が文献を参考にデザインしたらしい)を掲げたと知った慶喜が、大坂城攻防戦で大坂が火の海になり日本全土も大内乱に陥るリスクを恐れて江戸に戻ってしまった頃になる。

 

安倍首相を筆頭に、この節目の年を祝おうという動きも盛んで、内閣官房に特別チームも設けられた。そんな政治の動きがあるのでNHKも明治維新を大河ドラマにしなければならなかったわけだが、いっそ孝明天皇が主人公とか、公家としては決して格が高い方ではなかった岩倉具視が最高の格式の五摂家を差し置いて最大実力者にのし上がって行く「維新の黒幕」の野心だとか、よく知られていない歴史の裏面の権謀術数と権力闘争を見せてくれた方が意外性もあって、ドラマとしてはワクワク手に汗を握れそうな気もする。

 

あるいは女性主人公の大河は傑作が多いのだし、ここは孝明天皇の妹で14代将軍家茂の妻となった和宮親子内親王を主人公に、朝廷と幕府の双方の視点から激動の時代を描く斬新な視点もおもしろいだろう。和宮は複雑な権力闘争のなかの政略結婚の犠牲者とみなされがちだが、夫の家茂とは深い情愛で結ばれ、宮中と江戸の武家の家風や習慣の違いに苦労も多かったものの、結婚そのものは幸福だった。だがそれも長くは続かず、慶応2(1666年)に第二次長州征伐のため上京した家茂はそこで急病になり、大坂城で亡くなってしまった。文久2(1862)年の結婚からたった4年後のことで、彼女と家茂は共に21歳だった。和宮がその悲しみを詠んだ和歌は、夫婦の愛だけでなく彼女の知性と感受性の鋭さもにじみ出て、とても美しく心を打つ。

 

空蝉の 唐織り衣 なにかせん
綾も錦も 君ありてこそ

 

家茂は和宮への土産に、その懐かしい故郷の京都の西陣織を買い求めていたという。それを受け取った時に詠んだのがこの歌だと思われる。政治闘争のなかでも決して消せない繊細で地に足の着いた人間心理を織り交ぜればドラマの厚みが増し、男たちの絶叫や切った張っただけでは満足しない女性視聴者の共感も呼びそうだし、しかも和宮は中山道を旅して江戸に向かうあいだに各地で歓待されているので、当時の地方の庶民の生活まで取り込めて、歴史学の最新研究も反映してこれからの日本にもふさわしい新しい歴史観も提示できそうではないか。

 

だが「明治150年」の音頭を取る政権がなにせああいう政権なので、女性の視点や女性の活躍では「反日」とか言われそうだ。やはりそんな変化球ではなく無難に誰もが知っているいわゆる「維新の志士」をとなると、なにしろその多く(とくに長州閥)が明治新政府の樹立後は途端に私利私欲の政治の私物化に走ったのも先述の通りで、その生涯を通じて現代人が共感できそうなのは当時も人気は一番だった西郷か、やはり成り上がり特権階級になることを拒否した板垣退助くらいしか見当たらない。なればこそ、板垣こそが現在の立憲民主主義国家の基礎を築いたのだし、過去に学んで現代を考える平成最後の大河ドラマにはふさわしい気もするのだが、なにしろ今の政権がアレなので、基本路線は忠君愛国的な武力倒幕として「明治維新」を美化せざるを得まい。

 

その安倍首相は西郷が追い出されたか自分から見限った政府を牛耳った長州の流れで、長州攘夷運動のイデオローグというか狂信的過激派カルト教組・吉田松陰が開いた松下村塾(長州閥の元勲には確かにここで学んだ者が多かったが、彼らが「松蔭先生の遺志を」とカルトのまま頑張ったわけではさすがにない)を強引に世界遺産にしているが、その長州を大河ドラマの主人公にとなると、2015年にあまりの史実のねじ曲げっぷりで大河ドラマ史上最悪の愚作と大不評だった『花燃ゆ』(ヒロインは松陰の妹)のようなものになってしまいかねず、NHKもそんな恥は二度と繰り返したくないので、やはり薩摩の西郷が適任、となったのだろう。

 

だいたい天皇中心の国家観を称揚しようとするのなら、長州藩は自分達が天皇に疎まれて、狂信的な攘夷論が通らず国政から排除されたことにいら立って、あろうことか御所に向かって発砲(禁門の変・蛤御門の変)し、敗走の過程で京都を焼け野原にしたテロ集団だった。西郷が去り大久保利通が暗殺された後の明治政府を主導したのはいいが、明治天皇にも嫌われ続けていたらしい。しかも東北地方では今でも、たとえば東日本大震災後の政策について被災者に「やっぱり今の総理大臣が長州の人だから(菅直人と安倍晋三は山口県出身)」と真顔で言われてしまうほど、戊辰戦争の惨禍とその後の長州閥・明治政府による扱いが酷かったことは忘れられていない。

戦前の皇国史観と、戦後の司馬遼太郎史観の偏向

歴史は現代の価値観で軽々しく判断してはいけないという教訓はめったに守られることがない。我々が教わる国家の歴史はたいていの場合、その時代ごとのリアルタイムの国民の体験の全体像ではなく後付けの、それも勝者の自己正当化と政権の都合で書かれたものだ。明治以降第二次大戦まで、幕末の権力闘争は政権の自己正当化に直結するだけに新政府側が「尊王攘夷」「勤皇の志士」に徹底して美化され、西郷もほとんど神格化されたし、長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)辺りが『鞍馬天狗』のような大衆向け時代劇のヒーローにもなった。そうした背景もあって戦後のGHQ占領下では逆に時代劇そのものが軍国主義の正当化になるとして検閲対象になり、1952年に日本の独立が回復した後でも幕末を英雄視するのは躊躇され、むしろ悲劇に終わった幕府側の新撰組が映画化されたりもした(例えば1963年の市川雷蔵主演『新撰組始末記』で、原作は戦前の子母沢寛の同名小説)。

 

これを覆したのが司馬遼太郎だった。薩摩藩家老の小松帯刀の下で西郷が画策した薩長同盟密約の締結のため長州側との連絡役として動いた坂本龍馬なる土佐の脱藩浪士に目を付けた司馬は、それまでほぼ無名だっただけに創作の余地が多いこの人物を使って大衆趣味の豊かな想像力を駆使し、「維新の志士」像を「鎖国」が終わった新時代の幕開けに、広い世界への夢と未来への理想に燃えるロマンチックな青春群像へと生まれ変わらせた。最近、歴史学者の一部からは坂本龍馬は高校教科書に載せる必要がないとの見解が出て物議をかもしているが、確かに坂本は京都政局のなかでの小松帯刀と西郷の手駒のひとつに過ぎず、わざわざ特記するほどの役割を果たしたわけではない。

 

だがもちろん、戦前の皇国史観の勤皇・忠義の天皇主義者的な英雄群像も、戦後の司馬遼太郎史観の青春ドラマ的なロマンチシズムも、およそ実際の幕末の京都の現実ではなかった。端的に言えば、戦前なら天皇と皇国に忠義を尽くし不忠な幕府と対決した英雄たち、戦後なら自由な新時代・新国家を夢見る情熱的な若者たちが、それぞれに個人の個性的な自由意志が結びついた同志愛で動いていたかののように思われているが、王政復古クーデタ以前の西郷や大久保はあくまで小松帯刀の下で薩摩藩士として動いていたし、薩長同盟のもう一方の側の桂小五郎(当時の名は木戸貫治)などもまず長州藩の一員であって、そんなに自由だったわけでも、個々人の信念で結ばれていた同志だったわけでもない。脱藩浪士の坂本龍馬ですら、別に土佐藩の意向に逆らって動いてはいなかった。

 

一方で幕府側、とくに一橋慶喜や松平容保は天皇と信頼関係にあった。江戸時代の日本で、天皇の権威は理念的にはその中心として認識されていたとはいえ、幕藩体制は中央集権ではなく諸藩の連合体で、地方分権的で連邦国家的な体制だった。そのトップに君臨した幕府や徳川家こそが武家全体の天皇への敬意と忠誠を総括する構造だから、他の大名の朝廷との直接接触は天皇を惑わし利用するものとしてタブーになっていた。松平容保と定敬の兄弟は天皇のお膝元の民である京都市民を守る義務を感じ、孝明天皇のためにも京都の治安維持に腐心したのであって、京都の各地で起こった倒幕派のテロや内輪もめの殺人に厳しく対処していたのも、単なる「幕府による敵対勢力の弾圧」ではなかった。

 

倒幕側にも天皇への敬意は漠然とはあったはずだが、孝明天皇は長州を危険視しそのやり口を嫌悪もしていたようだし、諸藩の藩士にとっては天皇の前にまず藩への忠誠がある。自分たちの藩の所領ではない、無関係な京都の住民の命など(天皇のお膝元の民であっても)どうでもよかった「勤皇の志士」たちは、暗殺や辻斬りや衝突やテロ行為を市中で繰り返したし、こと長州藩は禁門の変で敗走する時に京都中心街に放火して焼け野原にしている。

 

このような藩主体の体制のなかでは西郷はまだ異色で、その武力倒幕論が島津久光が主導する薩摩藩の総意と相容れなかったにせよ、それでも西郷は藩の任務として京都に赴任し、久光とは折り合いが悪くとも上司の家老・小松帯刀の下で動いていた。その薩摩を含む薩長土肥の四藩が「倒幕派」扱いになるのも、あくまで結果を知っている後世の歴史観でしかない。これら外様の雄藩が藩レベルで倒幕、つまり徳川家の打倒や排除を狙っていたわけではまったくない。典型的なのが薩摩藩で、久光にとっても亡き兄・斉彬にとっても、大きな目標は倒幕ではなく関ヶ原以来外様大名として幕政から排除されてきた島津家・薩摩藩が国政の中枢に参画することだ。幕政への参加こそが関ヶ原の戦い以来の悲願だったのは長州藩や土佐藩、肥前藩も同様で、土佐と肥前が王政復古クーデタ後も尾張藩の徳川慶勝と結んで西郷や岩倉ら強硬な倒幕派と対立していたのも先述の通りだ。

「勤皇の志士」対「不忠の幕府」というフィクション

徳川家康が安定した全国統治のために構築した幕政システムの基本構造は、関ヶ原以前からの徳川の家臣の譜代大名(その筆頭が昨年の大河ドラマ主人公だった井伊家で、大老・井伊直弼はその子孫)が将軍の下で全国レベルの政治を取り仕切り、徳川の分家で将軍の親類である親藩(たとえば尾張・紀州・水戸の御三家)にも島津家のような有力外様大名にも関与させないことで、家康の血を引く傍流が将軍位を狙う野心を持ったり野心的な誰かに利用される御家騒動や、将軍の親族が専横に走り統治の責任を負う幕府が統治される側の信頼を失うこと、外様大名が天下を狙って再び戦国時代の内乱状態になることを防止するものだった。

 

こうした身分血統だけでなく能力本位の実力主義も導入し、薩長土肥のような有力外様や越前福井藩の松平春嶽のような親藩の、徳川譜代ではない雄藩が国政に参加できるようにすることが、幕末の大きな政治的な流れになっていて、また水戸徳川家の2代目藩主・光圀(「水戸黄門」のモデルだが水戸と江戸と日光以外では鎌倉にしか旅行していない)が明暦3年の江戸大火(1657年)の後に編纂を始めさせたライフワークの「大日本史」の影響もあって、天皇中心の歴史的な国家観も浸透しており、ペリーの来航と開国で権威が揺らいだ幕府の建て直しに天皇が積極的に関わる「公武合体」という考えも広まっていた。

 

最後の将軍・徳川慶喜こそが、最初はこうした雄藩に支持された人物だった。水戸徳川家の9代藩主で尊王思想のカリスマになった斉昭の7男に産まれ、つまり生まれでは幕政に参画できない立場だったが、御三卿のひとつ一橋家の養子となり、家康の再来とも言われる優れた政治的才覚に期待が集まっていた。島津斉彬が養女の篤姫を十三代将軍家定の御台所(正妻)として輿入れさせたのも、次期将軍に慶喜に推す工作のためだったらしい。この将軍擁立は実現せず、十四代将軍になった家茂と天皇の妹・和宮が結婚することで公武合体の新体制が模索されると、孝明天皇の信頼も厚かった一橋慶喜と会津松平家の当主で京都守護職の容保、その実弟で桑名藩主の京都所司代・松平定敬らによって狂信的な攘夷(外国人排斥)を主張する長州藩が京都政局から排除され、その不満から長州藩が御所を占領しようと蛤御門を襲撃したのだった。

 

つまり「尊王攘夷」の「勤王の志士」が天皇に逆らう「不忠」の幕府を倒す、という明治以降に流布したストーリーはまったく史実に反する。幕府・井伊直弼が朝廷に諮らずに開国を決めたことが大問題になったとはいえ、孝明天皇自身は偏屈な外国人嫌いの攘夷派ではおよそなかった。天皇が強い危機感を持っていたのはむしろ、幕府が諸外国の武力に屈して開国した格好では幕府の権威が失墜して国内が乱れ、より直接的には西洋列強との通商の開始によって経済環境が激変し、輸出が急増した生糸や茶葉、綿の値段が異常に高騰したり金銀の交換レートが日本だけ違っていたせいで金が多量に海外に流出するなどの混乱が起こって経済不安が民衆の生活を脅かしていたことで、天皇はこうした事態を収拾させ国内の安定を取り戻す調停にこそ腐心していたのだ。

 

だいたい天皇家を差し置いて天皇の国を支配して来た幕府は「不忠」で、その徳川将軍家を「忠義」で「尊王」の薩長の「志士」が倒したという皇国史観の幕末ストーリーは根本から原理的におかしい。徳川家はあくまで天皇から征夷大将軍・内大臣に任命されて天皇の民と国を預かって統治していたのであって、その権威と支配権の正当性はあくまで天皇に由来する。だから幕府は禁中並公家諸法度で天皇家と公家に一定の規律は課し、内乱防止の観点から諸大名と朝廷の直接接触も規制はしたものの、天皇家は尊重し続けていた。たとえば赤穂浪士事件の発端になった江戸城本丸・松の廊下の刃傷事件に、当時の将軍・綱吉が一方の赤穂藩浅野家のみに厳しい処断を下したのも、これが勅使(天皇の使者)を迎える儀式の直前に起こったので、武家のルールの「喧嘩両成敗」で処理しては、武家全体の天皇に対する非礼、武家の棟梁が自分たちの論理を天皇に優先させたとみなされかねないからだ。

 

逆に視点を変えて天皇家からみれば、「明治維新」とは武家どうしによる天皇とその権威の「取り合い」に、幕府が最後には折れたことに過ぎず、どちらかが「不忠」で一方が「勤王」などということにはならない。かなりの指導力を発揮した孝明天皇の存命中ならまだしも、その天皇が急に亡くなってしまえば(岩倉具視が暗殺したという俗説もあり)、少年の新天皇の下では朝廷の公家はどちらでもいいから勝った方に就いて保身を図っていただけとも言える。かくも道徳的・論理的な筋がまったく通らない政権交替であったことは、後々に西郷が政府を離れる契機になった明治6年(1873年)政変の「征韓論」問題にもつながるのだが、つまりは皮肉な比喩でもなんでもなく、文字通り「勝てば官軍」が明治維新のありのままの本質であり、西郷はイチかバチかの大勝負で「勝って官軍」となった。

「鎖国」から「開国」へという歴史観に潜む誤解とは?

江戸時代のいわゆる「鎖国」体制は幕府による外交権と貿易の独占で、諸藩が貿易で財をなしたり、特に日本では産出しなかった火薬原料の硝石を輸入することを防ぐ、つまり諸藩に内乱を起こせる軍事力や財力を持たせないための政策だった。この外交方針は西洋諸国の航海術が帆船頼りで東アジアに到達するには数ヶ月どころか時には何年もかかり、中継地となる拠点が不可欠だった時代には有効で、マカオに拠点を持つポルトガル、フィリピンを征圧していたスペイン、ジャワ(現在のインドネシア)に拠点を持つオランダのうち、キリスト教の禁教令でポルトガルとスペインが対日貿易から撤退した後、幕府とオランダ東インド会社がヨーロッパに輸出し続けた日本の陶磁器や漆器などの高度な手工芸品は現地の王侯貴族に大変な人気を博した。たとえば伊万里の陶磁器では西洋で喜ばれそうな輸出用商品の開発が奨励され、今でも日本の磁器の最高ブランドとして15代まで続いている柿右衛門も、その名声はヨーロッパ向けの輸出用磁器で中国の景徳鎮をしのぐ評価を得たデリケートな白い肌を実現したのが始まりだ。ヨーロッパで有名なマイセンやリモージュ、ロイヤル・コペンハーゲンなどの高級磁器ブランドは、こうした柿右衛門様式などの伊万里焼きが代表的な日本製の磁器や、そのモデルとなった中国の景徳鎮の模倣として始まったものだ。

 

これも家康の始めた積極的な政策で、輸出での利益が幕府財政にも貢献しただけでなく、日本国内でも産業の裾野を広げて庶民レベルまで消費が広がり(漆器や陶磁器は江戸時代には普通の生活用品としても普及している)商業を活性化させ、職人も潤い、原材料の生産は農民にとっても現金収入を得る手段になったし、農村の副業としての特産品の手工芸も広まる等、経済の活性化につながったのだ。また幕府は朝鮮とも正式国交を持ち続け(明治維新で断交)、中国大陸の明や清とは冊封関係の正式外交はなくとも長崎を通じて活発な交易や文化交流があった(出島より遥かに大きな中国人街があった)。また朝鮮人参や侘び茶で珍重された朝鮮の陶器、中国製の磁器、さらにはオランダ経由のヨーロッパ製品の一部など、輸入品で消費が庶民にまで広がっていたものも少なくなく、つまり「鎖国」と言っても日本が世界から孤立していたわけではまったくない。

 

19世紀になるとヨーロッパで蒸気船が登場してより速く大量の輸送が可能になり、インドを押さえた大英帝国の東アジアへの帝国主義的な進出が本格化したのをはじめとして、ヨーロッパ諸国の航行・勢力圏が広がって植民地主義の時代になる。またロシア帝国もエカテリーナ女帝の下で中央集権体制の構築に成功し、東方のシベリアへ、さらには樺太へと勢力を拡大しつつあった。18世紀の末に独立したアメリカ合衆国では、太平洋での捕鯨が重要な産業になっていた。こうした日本を取り巻く国際環境の変化のなか、幕府がオランダ東アジア会社に対西洋貿易を独占させるという3代将軍家光が確立した政策は時代に合わなくなり、やがて嘉永6年(1854年)の開国へと至るのだが、その前年にアメリカのペリー艦隊が来航して開国を迫った時にも、幕府は建前では家光以来の「祖法」を守ることに固執するように見えながら、実のところオランダ以外の国々とも貿易を開始すればより日本は発展できるというのが井伊直弼や幕府の実務を担う中堅官僚たちの本音だったらしい。大老に就任する前の直弼は、日本の船舶でオランダ東アジア会社の本拠があったジャカルタまで行って貿易を、という構想も書き残している。

 

ここで明治から戦前までの皇国史観と、その戦後民主主義的なアレンジだった司馬遼太郎史観のもうひとつの誤解も正しておく必要がある。江戸時代の「鎖国」で世界から孤立し安閑としていた日本が、ペリーの来航でいきなり西洋諸国に直面させられて慌てふためいたわけではまったくない。その30~40年前にはすでに西洋列強の東アジアと太平洋への進出の活発化も意識されていたし、さらに100年ほど遡って8代将軍の徳川吉宗が蘭学(オランダ語と、オランダ経由で入って来る西洋の文化や科学の研究)を公式に解禁して以来、ヨーロッパは日本人にとって遠い異国ではあっても強い興味の対象になっていた。こと西洋医学の刺激は大きく、江戸時代後期にはその知見を発展させた日本の独自研究も進み、健康ブームめいたことも起こったり、人体への興味が娯楽見世物でも人気になったりしている。今のテレビの医療健康番組の人気みたいなものだが、これだって江戸庶民文化の延長の「日本人の国民性」とすら言えそうだ。

 

とはいえ幕府が貿易で利益を上げ続け、日本中で蘭学の研究が進み、武家のあいだで19世紀前半の国際環境の変化もある程度は認識はされていても、そこに対応した幕政の改革はあまりに前例踏襲の抵抗が大きくまったく進んでいなかった。幕藩体制は当初の制度設計の目的が徹底した内乱防止だっただけに、前例踏襲でルーティーン化された安定した官僚制が基本だった。オランダ以外の西洋の国とは国交を持たないという家康・秀忠・家光の最初の三代に決定した「祖法」を変えることは、この厳格な官僚制の枠組みではなかなか難しく、だからこそペリー来航という「外圧」がうまく利用できた面も大きい。

 

しかし幕府があくまで天皇から国の統治権限を「お預かりしている」に過ぎない以上、国の有り様そのものに関わる外交方針の転換はその許しがなければ出来ないという議論にもなり、そこが後の「尊王攘夷」論の幕府批判の大きな理論づけになった。つまり末端レベルはともかく政界の中枢で問題になったのは開国の手続き論で、日本は「神国」だから不浄の外国人を排除して国を閉ざすべしと言ったような長州の松下村塾的な非現実的なガチガチ攘夷の排外主義、「神国」日本至上主義カルトが主流だったわけではない(だからこそ長州も一度は排除されて禁門の変も起こり、並行して長州は無謀にも列強の船舶に発砲して下関戦争を起こし惨敗している)。

 

こういうところが恐らく、「尊王攘夷」の幕末・明治維新の分かりにくさのひとつなのだろう。「尊王」が実態と異なっていただけではなく、「攘夷」つまり外国勢力の排除を主張したのが「倒幕」側だったはずなのに、明治維新で始まったのが日本の極端な西洋化政策で世界に開かれた日本の夜明けというのは、一見わけが分からない。そこで出て来る後付け歴史観の理屈が、生麦事件で攘夷派の薩摩藩士が英国人を殺傷した結果の薩英戦争で薩摩が英国艦隊に、下関戦争で長州が英・仏・オランダ・米連合艦隊に、それぞれ激しい艦砲射撃を受けて手も足も出なかったので、西洋の侵略と戦う「攘夷」のための軍備強化には西洋化が必要だと薩長が認識した、という理屈になるが、この理解はまず時系列的にかなりおかしい。

西郷隆盛を動かしたキーパーソン、薩摩藩主・島津斉彬

実際には、軍備の西洋化の動きは薩英戦争や下関戦争の遥か以前、20年前には始まっていた。その旗手の1人が西郷にとってのカリスマ主君となった島津斉彬で、好奇心旺盛の学問好きでローマ字で書いた文書も遺しており、オランダ語も出来たかも知れない。この新たらしもの好きの斉彬が、中国の清朝が阿片戦争で大英帝国に大敗したことを知って、幕政を改革して薩摩藩もそこに参画して朝廷も取り込んだ挙国一致的な新体制で西洋に対抗することを構想し始めている。また西洋の最新の軍隊と戦えるようにと従来の青銅製ではなく鋼鉄製の大砲の製造を目指し、オランダの文献で原理だけしか分からなかった反射炉の実験を鹿児島で始めさせている。ペリーが浦賀に来航した頃には、斉彬の薩摩藩はその鋼鉄製の大砲だけでなく蒸気船の軍艦まで保有していた。

 

斉彬の死後に西郷隆盛が薩摩藩内で島津久光と対立したのは、ひとつには久光が正式な藩主ではなく藩主の父として実権を握っていただけでは、忠節と絶対服従の義務はないと言えなくもなく、妾腹で鹿児島で生まれ育った(参勤交代制度で藩主の正室は江戸にいて嫡子はそこで育つのが普通だった)久光は薩摩訛りが強く京都では会話にならず誰も相手にしない「ぼっけもん」だと酷評するような相手だったのに対し、自分には真の藩主である斉彬の意志を継いでいるという強烈な自負があったからではないか、と一般的には正当化されている(どうも今年の大河ドラマもその路線で行くらしい)。

 

もっとも、西郷が藩内で強硬に主張していた武力倒幕論のようなことは生前の斉彬もまったく言っていないはずで(島津家も幕政に参画できる改革が狙いで、これを引き継いでいたのが久光の路線)、西郷が自分の野心を正当化する言い訳に亡き斉彬のカリスマ性を利用していたと考えた方がすっきり説明がつきそうでもあるが、いずれにせよこのカリスマ藩主のあまりに早過ぎて構想も未完成なままの急死で、西郷にとっては実のところ、その野心を実現できる隙が生じた。そして西郷と大久保は最終局面では久光の(というか薩摩藩・島津家の)宿願だった外様大名・島津の中央政界参画を根底から潰してしまう王政復古のクーデターを敢行し、主家の島津家でも、家老で上司だった小松帯刀のような名門武士でもなく、下級武士の自分たちこそが中心となった新政府を樹立することになる。

 

言い換えれば王政復古クーデタは、単に徳川家だけでなく大名家も新政権に参加させない策略で、あくまで武家身分の内部での権力身分の入れ替わりとはいえ、そのなかの身分制度は転倒させた革命ではあった。そして明治4年(1871年)には廃藩置県が断行され、大名家が日本の政治から排除されて「明治維新」が完成する。

 

西郷自身については、ここから先がさらにややこしい。廃藩置県と身分制度の廃止にとりわけ反発したのが、西郷を中心に倒幕・明治維新を主導したはずの薩摩藩の士族だった。薩摩は勝ったはずなのに、彼らはなんの恩恵にも預かれず恩賞もなかったどころか、武士という特権的な立場すら失っている。だから期待はずれの大損だったのも確かとはいえ、薩摩なら薩摩一国というような意識に留まらずに「日本」全体を考えるのが斉彬の理想だったはずで、だからこその明治維新の中央集権だったのに、「薩摩が勝った」という意識のままでは江戸時代どころか戦国時代に逆戻りではないか。しかしそれでも西郷は、その薩摩士族たちの復権を掲げて西南戦争を起こして命を落とすことになった。では結局、西郷はなにをやりたかったのか、さっぱり分からなくなる。

そもそも日本ではなかった薩摩藩

19世紀前半の日本ですでに国際環境の変化の認識がある程度は共有されていたとしても、島津斉彬が真っ先にそれに対応した新しい中央集権の政治体制を発想できたのには、斉彬自身の個人的な資質だけでなく薩摩の島津家という特殊環境も無視できない。その一方で、その特殊環境だった江戸時代の薩摩ほど、中央集権が理解されにくい土地もなかったかも知れない。

 

関ヶ原で西軍だった島津は幕藩体制下では外様大名の扱いで、幕政に直接関与する権限がないことは確かに大きなコンプレックスだった。だがその一方で、島津は最大級の大大名のまま九州の南端という中央から極端に離れた先祖伝来の、なんと鎌倉幕府の成立時に源頼朝から安堵されて以来の所領をずっと維持できたままで、江戸時代にも国替えもなかった。徳川家からみれば潜在的には最大の脅威なのだから、取り潰して滅ぼすのが無理ならせめて地元から引き離して力を弱めることができるならそうしただろうが、それを許さないほどに薩摩の島津家の力は強大だったのだろう。内乱の防止のために諸藩・諸大名に厳しく接した幕府だったが、薩摩藩は例外だった。

 

ひとつには、島津軍が関ヶ原では西軍側で最後まで動かず、勝敗が決した時点で突然東軍の中央を強硬突破を敢行するという軍事的な離れ業を見せつけていたことがある(家康がもっとも重視し寵愛した側近の井伊直政は、この防戦の怪我が元で幕府が正式に開かれる前に死んでしまった)。つまり西軍であっても、薩摩だけは徳川に負けていない。江戸時代の始まりがこうだったのだから、薩摩藩が幕府も一目置き続けざるを得ない独自の地位を保ち続けたのも自然な流れだろう。将軍家が親戚以外の大名家から正室(御台所)を迎えたのも島津家だけだし、薩摩藩は建前上は幕藩体制に属しながらも、実際には畿内からも江戸からも遠く離れた九州の南端で幕府の統制から逸脱した、半ば独立国のような状態を維持していた。

 

対外貿易を幕府が独占し、李氏朝鮮との仲介役だった対馬の宗家とアイヌとの交易を担った松前藩以外の大名には貿易ができない制度も、薩摩藩には実は適用されていない。徳川幕府が正式に成立してからわずか6年後の慶長14年(1609)年に、薩摩藩は当時は独立国で明に朝貢して統治権を承認されていた琉球王国に侵攻し、奄美大島共々支配下に置いている。日本と明との戦争にも発展しかねない重大な外交問題になり得る暴挙で、幕府が諸大名に課した不戦の秩序にももちろん反するが、島津家は翌年に家康と2代将軍を継いでいた秀忠に謁見し、この琉球の支配権と奄美大島の割譲領有を認めさせている。

 

薩摩藩はあたかも妥協を装って琉球を建前上は独立国扱いにして、江戸の将軍に定期的に使節を送らせ続ける一方で、中国の明と、その後は清への朝貢も琉球に続けさせているが、これは薩摩支配下にあることを隠し外交問題化を防いだだけではない。真の目的は琉球の培って来た朝鮮から東南アジアに至る豊かな貿易網を無傷のまま横取りすることだった。中華帝国との冊封関係とは近代以前の東アジアではなによりも国際社会の正式な参加者として公式に貿易を行える資格と権利保証であり、こうして琉球を中継地に薩摩藩は幕府も黙認せざるを得ないまま活発な交易で利益を上げ続けていた。琉球から幕府への使節には常に薩摩藩が同行し、わざと琉球の服装ではなく明や清の服を着させていた。つまり薩摩の参勤交代に従った使節団にすることで暗に琉球が薩摩の属国だと示し、かつ中国との貿易ルートとその意義も幕府に対して暗に誇示する、強気の政治的ジェスチャーだったと言える。

 

しかも幕府のいわゆる「鎖国」政策に反する薩摩藩の密貿易は琉球でだけではなかった。本土側でも朝鮮半島からの交易船を「漂着船」扱いに偽装した直接貿易が行われている。朝鮮の船舶は漂流中に薩摩藩に救われた「お礼」として朝鮮人参などを渡し、薩摩藩からは無事に帰国できるよう「はなむけ」として北前船で北海道から仕入れた昆布などを与えられた。つまり実態は密貿易に他ならず、幕府に咎められれば取り潰しにもなり得る重罪だが、見え透いた「漂着船」偽装が通用していたのも、薩摩藩だったからこそだ。

 

斉彬がいち早く阿片戦争に強い危機感を抱いたのも、琉球ルートでより詳細な植民地主義侵略戦争の実態を知ることができたからだろうし、薩摩藩が200年以上前から琉球と奄美大島で同じような異民族支配と植民地搾取の圧制をやり続けていたからこそ、その意味がよく理解できたからではないか。そこで斉彬は独自に鋼鉄製の大砲の開発を始めるのだが、このような独自の軍備拡張はもちろん幕府からみれば謀反の疑いで取り潰しになる危険もあった。だがこれも、薩摩藩だから黙認され、幕府から外国船打ち払い令が出されることで正当化された。

江戸時代の日本の常識が通用しない薩摩藩

参勤交代制度で江戸で育っていた嫡子の跡取り(例えば島津斉彬)ならともかく、日本の全体とか中央集権と言った意識を持つことは、この半独立国状態の薩摩しか知らなければかなり難しい。しかも単に幕府や他の藩との関係で薩摩が別格扱いだっただけではなく、幕府の統制が中途半端にしか及ばない特殊環境では、他の地方では浸透していた江戸時代の社会制度や価値観が、薩摩にはほとんど入って来ていなかったのだ。

 

徳川を中心とする幕藩体制の基本倫理は、幕府は朝廷から統治権を預り、諸藩にはその幕府から預けられた領民と領地で善政を敷く責任が課せられる、というものだった。諸大名が領民の一揆を恐れたのは、領民が不満を抱くような悪政を行ったこと自体が処罰対象だったからでもある。その一揆を鎮圧するのでも、銃を水平方向に発射すれば(つまり反乱した農民でも射殺しようとすれば)領主の大名家が重罪に問われた。

 

近世に兵農分離の身分制度が確立したのは現代人の目には不平等に見えるし、確かに出自による差別以外のなにものでもない。だがその実態は現代人が思っているような、武士の横暴に庶民が耐え忍んだ時代とはちょっと違う。身分制度に基づき職業は世襲が原則だったが、だからこそ養子制度が発達したのも江戸時代で、つまり実子に適性が乏しければ有能でやる気のある養子が家業を継いだ。たとえば伊藤博文は元々は農民の生まれだったのが、子供の頃から秀才として目をかけられて家族まるごと武家の養子になった長州藩士だ。逆に大名家の子に産まれれば好き勝手ができるようなことはなく、そのような人格的な問題がある嫡子は理由をつけて廃嫡され、才覚のありそうな分家の子などが養子になって継承することもあった。島津斉彬も末席の分家の娘だった篤姫を、頭の良さと気性の強さが気に入って養女にしている。

 

江戸時代の日本が近代以降の皇国史観で不当に歪められ誤解されている典型が、5代将軍綱吉の「生類憐れみの令」だろう。一部で行き過ぎもあったが、実際にはかなり人気があった政策で、日本人のペット好きはこの時の大江戸大ペット・ブームに始まったとも言えるのだが、本筋は殺生を禁じて人命尊重を呼びかけた高度福祉政策で、孤児や未亡人、身寄りのない老人を助けることが主要な施策だった。対象を仏教に基づきあらゆる命に広げたのは、とくに戦国時代の殺伐とした気風がなかなか抜けない武士の価値観を平和な時代に則した精神に変えようという意図が大きい。なお悪名高い犬小屋も、当時の江戸市中に溢れていた野犬や野良犬の対策が人口が既に100万を超えていた江戸では衛生面からも必要で、その収容施設だったし、一方では捨て犬も厳禁されている。

 

綱吉の生母・桂昌院は庶民階級の出身で、身分の高さゆえに引きこもって育てられがちな将軍の子に、庶民への理解を教えた。綱吉の「放漫財政」と明治以降批判されるのは実は文化予算で、昌平校を全身分に解放して有能なものは無償で高等教育が受けられるようにしたのと、寺社の造営や再建が多かったことで、これも宗教施設というだけでなく、「物見遊山」の「山」が寺院の「山号」の「山」の意味であるように、娯楽の提供でもあった。また綱吉の父・家光がすでに戦国時代に焼失したり荒廃していた寺院の復興を進めていたのには、戦国時代が終わった平和な時代の到来を分かり易く示して民衆を安心させる意味もあった。

 

綱吉の晩年には大地震と富士山の大噴火の被災者救済と復興予算が幕府財政を大きく圧迫し、その財源の確保のため綱吉自身が実際の施策を中止した「生類憐れみの令」だが、理念はその後の徳川将軍家にも公式に引き継がれている。そもそも家康以来、戦国時代にいわば殺人を稼業と心得ていた武家を変えることも徳川幕府の大きな試みであり、「生類憐みの令」はその完成だった。参勤交代で大名家の嫡子が江戸で育っていることで、こうした将軍家の発した新しい価値観や平和の時代の文化は藩主を通して全国に徐々に浸透していくことになり、また幕府が五街道などの全国交通網も整備したので、庶民にも各地の寺社に参拝する観光旅行ブームが起こっている。だがこれも、九州の南端にあった薩摩藩にはそれほど及んでいない。

 

徳川幕府が実現した平和な社会に経済がめざましい発展を遂げると、多くの大名家は大商人に頭が上がらなくなったし、農村ではもし生活苦や年貢に耐えかねて村がまるごと土地を放棄(「逃散」)して廃村になれば(「亡所」)、領主が幕府から重罪に問われた。武家は上位とされたからこそ庶民に常に配慮して上に立つに相応しく振る舞うよう義務づけられ、庶民が不満を抱かないよう配慮を心がけなければならない(「徳」に基づく統治)としたのが、幕府が武家の公式学問として推奨した儒教の倫理観だ。その意味では武家以外の身分にとっての江戸時代の日本は、現代人が思うほどに辛い圧制の国でもなかった。

 

だがこれも、薩摩藩は例外だった。兵農分離は徹底されず、厳しい上下の身分関係で地方武士(郷士)は藩への忠節と奉仕と軍備の維持の義務はあっても、給料となるお扶持米は一切なかった。さらに下位身分の農民はいつでも領主の課す軍役に応じてその郷士に従わなければならなかったし、主君への義務が武家以上に領民に厳しく課せられて年貢が搾り取られ続け、しかも藩の役職にある武家でなければ抗議する手段もなかった(これも他藩や幕府直轄地とは違う。なんだかんだで統治する側がされる側の声を吸い上げるシステムはいろいろと作られていた)。

薩摩では、「戦国時代」は終わっていなかった

日本の仏教の最大宗派・浄土真宗は戦国時代に織田信長による虐殺も生き延びた頑強な庶民仏教宗派で、豊臣秀吉には今の西本願寺の敷地を寄進され、近世に入ると幕府にも庇護され、天皇家とも内親王や女王を門主の妻に迎えるなどして強いつながりを持っていたが、薩摩藩と隣の人吉藩では禁教とされ、拷問や処刑も含む激しい弾圧が行われ続けた。江戸時代の宗教弾圧というと幕府によるキリシタン禁制が有名だが、島原の乱の後は多分に形式的なものになり、キリスト教徒だと実は分かっていても年に1度正月に踏み絵を踏むだけで許されるようになっていたのが、薩摩藩では浄土真宗門徒に対してそれ以前の凄惨極まりないキリシタン弾圧と同等か、さらに苛烈な暴力的な弾圧が250年以上行われ続けていた。これも本来なら、幕府に咎められれば改易取り潰しものだ。

 

西郷隆盛が最初に就いた役職は農村の管理、要するに年貢の取り立てで、あまりの厳しさと農民の窮状に怒って藩政改革の上申をこの職にあった10年のあいだ書き続けたと言われるが、そこまでひどかったのもかなりの部分、薩摩ならではの特殊事情と言える。それでもまだ、薩摩の本土側の領民はマシだったのかも知れない。琉球侵略の過程で領有した奄美大島の住人は差別されて島を離れることも許されなかっただけではない。特産品の大島紬やサトウキビから採れる黒糖が薩摩藩の重要な収入源になったせいで、島民は水田をサトウキビ畑に無理矢理転換させられ、藩の奴隷同然に黒糖を作らされ続けられた。自分たちの食糧すら作らせてもらえないので島に自生していたソテツの猛毒を含む実を毒抜きして、その粥で飢えをしのぐこともしばしばだったという。

 

戦争がなくなった(徳川幕府はとにかく戦争をなくそうとした)江戸時代の日本で、武家に求められたのは戦闘能力ではなく行政官僚の実務能力と、統治される側の庶民が納得するような文化・教養や道徳的な振る舞い(儒教でいう「徳」)だった。剣術や柔術などの武術も「文武両道」とは言われはしたものの、剣術も今の剣道のような、木刀や竹刀を使い武具をつけてその防具があるところを打ち合う、様式化されたものになっていたのが、薩摩藩では違った。男子は幼少時から地域ごとに組織化されて集団教育を受け、「論語」の暗唱などの学問も教えられ、今でいうブレインストーミング的な活発で実践的な議論も推奨されたと同時に、まさに実戦本位の戦闘訓練を子供の頃から叩き込まれていたのだ。禁門の変の鎮圧や戊辰戦争で発揮された西郷の軍人としての傑出した才覚は、こうした軍事訓練や実践的思考をシステマティックに刷り込まれた薩摩軍だったからこそでもあった。

 

一言でいえば薩摩藩では、戦国時代は幕末まで終わっていなかったのだ。ある意味それも当然で、なにしろ鎌倉時代初期から薩摩はずっと島津家の領地で、江戸時代になっても中央から遠く離れた辺境のまま、大きな変化がない。他の地方と違って、薩摩では「将軍」とか「公儀」、あるいは「天皇」への意識が実感としてあったかどうかも疑わしく、その前にまず700年近く君臨した島津家への忠誠があったとしてもおかしくはない。中央集権化を目指した明治維新が、その薩摩のパワーで実現したというのも、ある意味ひどく皮肉で無理があることだったのかも知れない。

江戸市民100万人大虐殺の危機を防いだのは西郷ではない

こと戦後の平和主義の時代になってから、西郷が一般的に評価されるのは軍事的成果よりも戦争を回避したこと、戊辰戦争で最大の激戦になったはずの江戸での戦争を勝海舟との話し合いで回避したいわゆる「江戸無血開城」だ。これが強調されるあまり、西郷が強硬な武力倒幕派で、島津久光と折り合いが悪かったのもそこが原因だったことすら忘れられがちだ。

 

歴史はしばしば権力者と勝者の側の都合で書かれるものだけに、西郷と薩摩藩について無視されがちな史実も多い。そのひとつが幕末政局がいよいよ煮詰まっていた慶応3年(1867年)に江戸でなにが起こっていたかだ。なんと浪人による強盗や辻斬り、商店への襲撃強奪、火付けが相次ぎ、幕府の役人がその犯人達を追跡すると逃げ込んだ先が薩摩屋敷だった。上方にいた慶喜の留守を預かる幕臣のあいだでは薩摩藩に対する不信と怒りが高まり、ついには薩摩屋敷襲撃に至るのだが、京都でこの報せを聞いた西郷はなんと「これで倒幕の大義名分ができた」と喜んだと言われる。ちなみに、もちろんこれは西郷の考えが甘過ぎて、現に宮中でも鳥羽伏見の戦いの形勢が決するまでは薩摩の私闘とみなし、敗北すれば西郷たちを切る算段でいたのは先述の通りだが、それにしても江戸で今でいう一般市民を巻き込んだテロ行為をさんざんやらせた黒幕も西郷だったとしたら、「無血開城で江戸百万市民を救った英雄」というのもとんだ虚像になりはしないか?

 

江戸でのテロ事件の犯行グループが相楽総三ら「赤報隊」で、鳥羽伏見の戦い後には官軍の東進の先鋒隊となり、新政府が年貢を半減するという勅令を宣伝して庶民を味方につけるのが主な任務だった。もちろん新政府にはそんな勅令を実行する気は毛頭なかったわけで、民衆が本気で信じて都合が悪くなると、相楽らをデマを振りまいた「偽官軍」として処刑してしまった。これも含めてすべて、西郷が仕組んだ陰謀だった可能性はある。

 

官軍の名目上のトップは「東征大総督」の有栖川宮熾仁親王(和宮の元婚約者)だが、むろん実際の軍務はすべて薩長土肥の武家が指揮し、事実上の最高司令官はもちろん西郷だった。それに戊辰戦争開戦前に赤報隊が江戸薩摩藩邸を根城にしていたことに有栖川宮などの皇族や公家が関わっていたはずもないが西郷ならその指令は出せたし、西郷なら江戸でのテロも年貢半減の件も相楽に直接指示ができ、しかも処刑も命令する権限があった。

 

繰り返すが歴史は勝者と権力者の自己正当化のために後代の価値観でねじ曲げられ、実態が曖昧になるのが常だ。男尊女卑の時代だった明治(天皇の「男系男子」相続も明治に決まったこと)の価値観では、歴史上で女性たちの果たした重要な政治的役割も軽視されがちになった。庶民出身の徳川綱吉の母・桂昌院などは、明治時代にずいぶん悪女イメージにされている。

 

江戸城無血開城の実際の経緯はどうだったかと言えば、まず鳥羽伏見の戦いが思わぬ惨敗になったとはいえ、薩摩長州の官軍を打破できる十分な軍事力を維持していたのが徳川慶喜だった。だいたいこの戦闘自体が不要だったはずで、江戸での薩摩の横暴に怒り心頭だった一部の幕臣が朝廷に薩摩を訴えるため上京するというのを、慶喜が「勝ってにせい」とつい言ってしまった(なにもしなくても王政復古クーデタ側が折れて自分が新政府に迎えられるのが当然の流れだった)のがそもそもの、後に慶喜自身がひどく悔やんでいた発端だったが、その思わぬ敗北でこのままでは大坂が戦場になり、さらに大規模な内戦に直結する危険性から、慶喜は江戸に引き返して徳川家の菩提寺である寛永寺に蟄居して「朝敵」としての処罰を受け入れる態度を明らかにしていた。

 

つまり普通なら新政府軍とは戦わないという明確な意思表示があった以上、江戸での戦闘は回避されたはずだ。よく考えれば慶喜が新政府軍との戦闘モードに入っていたのならともかく、よほど人殺しをしなければ気が済まないような異常心理にでも新政府軍が陥っていない限り、今さら江戸を火の海にするような総攻撃をやる意味はそもそもない。無益な戦渦が広がるだけで、列強・諸外国も、たとえば大英帝国は公使を通じて新政府にこの攻撃の中止を進言している(つまり領土的野心があったとはおよそ思えない。あくまで通商が優先で、あとは人道的見地だ)。

 

だがそれでは西郷の武力倒幕論には振り上げた拳の下ろしどころがないというか、当時すでに人口が百万を超えていた江戸での戦争は避けられないとなった時に動いたのが…というか、江戸城から頑として動かなかったのが、慶喜の留守の江戸城を預かっていた天璋院、つまり島津斉彬の養女で13代将軍未亡人の篤姫と、14代将軍家茂の死後は出家して静寛院宮を名乗っていた孝明天皇の妹、和宮だった。
新政府軍が先帝の妹と島津斉彬の娘を殺すわけにはいかなず、だからこそ2人は最強の人間の盾になることを選んだのだ。和宮はさらに官軍の名誉職的な上層部にいた幼馴染の公家衆に戦争の回避を訴えて元の婚約者だった官軍の東征大総督・有栖川宮に働きかけるよう手配し、総攻撃が目前に迫ったギリギリのタイミグを狙って篤姫が説得に出た相手は、新政府軍の事実上の総司令官・西郷隆盛だった。

まったく意味がなかった戊辰戦争という大内戦

島津斉彬が幕政を動かす手段として将軍家の大奥に彼女を送り込んだとき、花嫁道具の調達を担当して江戸まで篤姫に随行し、輿入れの実務を差配したのが西郷だった。篤姫がその西郷に宛てて目覚ましい出世を祝しつつ、自分達徳川家には新政府に抵抗する意志はなく、朝敵となった慶喜の処罰はやむを得ぬとしても徳川家を滅ぼすことは自分をそこに嫁がせた父・斉彬の遺志に反するはずだと説き、西郷の人としての大きさならではの薩摩武士の「仁」の心(弱者への思いやり。普通の日本人なら仏教用語の「慈悲」と書くところだが、儒教の「仁」と書くことで同じ薩摩人の西郷の心にも響いただろう)を持って欲しいと説得する、長文の書状が発見されている。

 

斉彬の遺志を継ぐことを建前としていた西郷には、まさにその遺志の体現者そのものだった篤姫を無視するわけにはいかない。名目上のみの上司とはいえ有栖川宮や公家衆も和宮にすでに説得されており、しかも諸外国も無益な殺傷行為に反対しているのを押し切ってまで、江戸城総攻撃はもはやできない。篤姫の書状の翌々日に西郷が幕府側の勝海舟と池上本門寺で会談したとき、江戸城総攻撃はやらないという結論は既に出ていたに等しかった。勝と西郷の会談の報告を受けると篤姫はすぐに、軽々しい行動は主家のためにならぬと幕臣達に厳しく通達している。よく考えれば勝海舟には自分より身分が上の主戦派の、たとえば小栗上野介忠順らを押さえる権限なんてなかったが、この時の江戸城の主はあくまで天璋院だ。

 

だが大規模な戦闘のひとつでもやらなければ納まりがつかないのが、こういう軍事が異常にヒートアップした状況でもある。幕臣の側でも、ほんの半年前に自分たちが守らなければならない義務を負っていた江戸市民の安全が薩摩配下の赤報隊のテロで脅かされたことなどに怒り心頭の者たちもまだまだ居ただろう。だいたい江戸から見ていれば、幕府はなにも責められるような不義、信義や仁、徳に反することはしておらず、将軍家は天皇家に尽くして来たのだし、庶民を犠牲にしたテロ事件など武士にあるまじき行為に走っていたのは薩摩や倒幕派ではないか。やはり納得しきれなかった一部が江戸城明け渡しの一ヶ月後に「彰義隊」を名乗って徳川家菩提寺の寛永寺に立て篭ると、西郷ら新政府軍は待ってましたと言わんばかりに佐賀藩の開発した最新式の国産大砲(英国製のアームストロング砲をさらに改良したもの)を撃ち込み、家光と綱吉が造営した壮大な伽藍(残っていれば確実に国宝・世界遺産)に放火して一日で上野を焼け野原にしてしまった。今日「恩賜」上野公園となっているのは天皇家の土地ではなくこの徳川家の菩提寺の広大な境内の中心部で(強いて言えば住職を皇族が務めた門跡寺院なので、天皇家にもゆかりはあったが)、大噴水は東日本最大の建築物だった根本中堂の跡地、西郷隆盛の銅像が立っているのは「山王台」で、寛永寺の鎮守社だった山王神社の跡地だ。ちなみに西郷像のすぐ後ろには、この上野戦争で死んだ彰義隊の供養墓がある。

 

大規模な戦闘でもなければ新政府軍のタガの外れた暴力性の納まりがつかなかったのは、江戸を通過して東北地方に進軍するにつれてさらにはっきりして行った。とりわけ悲惨だったのが会津若松の鶴ヶ城の攻防戦だ。会津藩の最後の藩主・松平容保は幕末の京都守護職を務めて慶喜と共に孝明天皇の信頼も厚く、禁門の変では西郷の薩摩軍を従えて長州軍の鎮圧を指揮していたし、また王政復古クーデタ後も慶喜の排除に抵抗するよう土佐藩、肥前藩を動かした尾張徳川家14代当主・慶勝の実弟でもあった。つまりは江戸城総攻撃ができず欲求不満だった新政府軍の鬱憤を晴らすには最適のスケープゴートが、会津だったのだ。

 

ひとつ不思議なことがある。福島県など東北各地で戊辰戦争の恨みが語り継がれている対象はあくまで長州藩で、薩摩でも西郷でもない。しかも会津方面軍を指揮したのは土佐藩の板垣退助だったはずだ。いや板垣はまだ三春城を無血開城にこぎつけたり、終戦後すぐに会津藩の名誉回復を新政府に働きかけているのだから分からないでもないが、なかには長州に滅ぼされそうになったのを西郷に助けられたと信じられている土地も少なくなく、西郷を祀った神社もある。まさに山本七平が指摘した「セイント西郷」、西郷こそ「日本教」の至高の聖人という実例なのかも知れないが、より冷徹に客観視すれば、「明治維新」が本来なら様々な怨恨や憎しみの禍根を残していておかしくなかったところを、「忠臣」のはずが謀反人として死んだ西郷隆盛を神話化することで、明治の新国家は辛うじて国民・国家の精神的な統合が維持して来られたようにも見える。また好都合なことに、西郷が非業の死を遂げてしまえば神格化は比較的容易になる。

時代ごとに評価の切り口が変わる「明治維新の意義」

歴史はしばしば勝者の視点で、権力者の都合に応じて書かれ、後の時代の価値観で解釈されるものだ。慶応4年・明治元年(1868年)の、150年前の結果だけを見れば文字通り「勝てば官軍」が実態だった「明治維新」は、実際には嘉永7年(1853年)のペリー来航から15年か、それ以前から(そのペリーも浦賀に来る前に、日本とは別個の独立国と認識していた琉球に行って国交を結んでいたし、その情報をもちろん薩摩は把握していたはずだが、幕府には隠されたのだろうか?)の期間にまたがる複雑な権力闘争のプロセスがあって、様々な勢力の利害や価値観、思想が入り乱れていただけに、単に「勝てば官軍」の自己正当化に留まらず、その後のそれぞれの時代と価値観によっても多様な解釈が可能になった。

 

大きな枠組みでいえば19世紀の国際環境の変化が日本国内での大変革を引き起こしたことに間違いなく、だから戦後の高度成長時代には「開国」を切り口に、司馬遼太郎が政治的役割は「その他大勢」の1人でしかなかった坂本龍馬をうまく持ち出したことで、鎖国で国内に閉じこもっていた日本人が広い世界に雄飛し始めた「日本の夜明け」的な捉え方が浸透した。戦前からあった『鞍馬天狗』でも、戦後のテレビ版では「日本の未来は明るい」が決め台詞になっているが、そうした「開国」のポジティヴなイメージの延長上として高度経済成長や1964年の東京オリンピックを位置づけることも(その間に対外侵略と人道犯罪の暗い歴史があったことを無視すれば)できた。

 

それがバブル崩壊後の「失われた20年」の経済停滞が延々と続くなかでは、諸外国の圧力にやむを得ず、というずいぶん受け身的に自虐的なマゾヒズムが主流になって来ている。こうした自信を喪失した後ろ向きさが被害者気取りに嵩じた自虐的な歴史観のなかでも、極端過ぎる負け犬的反動の極めつけが、日本が西洋列強の植民地侵略の危機に瀕していたのだから明治維新はやむを得なかったという主張で、その延長で朝鮮半島の植民地支配や中国大陸と東南アジアの侵略まで自衛の戦争だったと自己正当化しようとすらする向きもあるが、幕末期の史実に照らしただけでも余りに無理があり過ぎる御都合主義の荒唐無稽なフィクションだ。

 

まずなによりもこの被害者妄想的な自己憐憫の甘ったれた自虐趣味は「平和ボケ」に過ぎる。そんな差し迫った脅威があったなら、西郷たちは慶喜が新政府の首班になることを素直に受け入れ、国力を弱体化させる内戦を起こしてみすみす諸外国に介入や侵略のチャンスを作ったりはしなかった。それに島津斉彬が阿片戦争に危機感を抱いた時点ならともかく、実際に開国と通商関係が始まってからは、全世界を征服しそうな勢いだった大英帝国でさえ、軍事的には侵略が十分可能だった日本について、直接の領土的野心を抱いた形跡もない。

 

当時はまだ佐渡で金が産出し、石見銀山などもあったものの、マルコ・ポーロの記した「黄金のジパング」伝説に憧れた大航海時代ならともかく、産業革命後の世界で最重要の戦略物資となった鉄鉱石や石炭のような資源の大きな埋蔵量が知られていたわけではなく、しかも山がちな地形で西洋式の大規模農業にも不向きな日本列島だ。わざわざ軍事力で征服して異民族支配という面倒な手段に見合うほどの搾取できる価値がない。むしろいわゆる「鎖国」の時代から、ヨーロッパから見れば日本の最大の魅力は高度な手工芸品で、軍事侵略や圧制はそうした伝統文化の価値をみすみす破壊することにしかならない。それにいざ日本に来てみれば、当時のヨーロッパのどの国も超えた脅威の識字率を誇って一般民衆も含めて文化水準が極端に高いことに驚きが広がっている。しかもその文化が極めて独自性の高いものとなれば、「未開の民に文明を与えて近代化」という植民地主義の正当化も成り立たない。太平洋に進出していた西洋列強のどの国にとっても、むしろ少しでも有利な通商関係を締結する方がはるかにメリットがあった。大英帝国が日本を狙っていたとしたら、それは経済植民地化で食い物にすることであって、直接の植民地支配ではない(そして日清・日露の両戦争で戦費を英国に依存するなど、明治の日本はまんまとその策略にはまったとも言える)。

諸外国の介入や侵略に対抗した「明治維新」というのはまったくの虚偽

もちろん開国をきっかけとした幕府権威の失墜に危機感を抱いた孝明天皇を始め、内乱になれば西洋列強につけ込まれ侵略のチャンスや植民地進出の口実を与えかねないと認識していた者はいたし、軍事侵略はなくとも開国したとたんに国際的な市場に入ってしまった日本の経済は混乱し、生糸だけでなくアメリカ南北戦争の影響で綿花や茶葉の輸出が増大、日本国内のインフレを招いていたのを見ても、そのまま経済的に食い物にされる危険は当然あった。だからこそ公武合体や、外様雄藩や親藩も参加した新体制を、というのが幕末政局の主流にもなったわけで、逆に言えばそれをぶち壊しにしようと下関戦争や禁門の変を起こした時点の長州藩がこうした孝明天皇らの危惧を共有していたとは思えないし、西郷や大久保、岩倉にしても列強による直接の軍事的脅威を感じていたなら王政復古クーデタのような乱暴なやり方は回避したはずだ。戊辰戦争なぞはみすみす国内を疲弊させ、諸外国に介入し侵略するチャンスを与えるようなものだ(そして現実には、まさにつけ込むスキだらけになった日本でも、領土侵略を狙った国はどこにもなかった)。

 

慶喜が幕府軍の誇った最新鋭軍艦の開陽丸で大坂を離れて江戸に敗走したことには厳しい評価が大勢だが、この開陽丸を中心とする強力な西洋式艦隊に勝とうとするのなら、薩長には英国かどこかの列強の艦隊に協力を求める以外の選択肢はなかったし、慶喜が全面対決を選べばまさにそうなっていただろう。内戦に外国勢力を巻き込めばこの時点の日本では確実に必勝カードにはなっただろうが、これは「売国行為」そのものだ。しかし当時の新政府軍についてなら、徳川家打倒のためなら後先は考えずになんでもやりかねない妙な勢いを危惧するのは、当然の判断だ。なにしろ長州が禁門の変で京都の中心部に放火して甚大な被害を出したのもほんの4年前だし、江戸は赤報隊のテロに苦しめられたばかりで、しかも現に西郷は人口100万を超える世界有数の巨大都市で日本経済の一大中心だった江戸への総攻撃を意図していたではないか。

 

大坂からの撤退も、いかに大坂城が鉄壁の防護体制を誇っていても、城ではなく城下が戦場になって破壊されることまでは防げない。新政府軍にそうした破壊行為を躊躇した形跡はまったく見られないが、当時江戸と並ぶ巨大経済中心だった大坂(ちなみに明治から昭和初期まで、大坂は人口でも経済規模でも東京を超えていた)が旧幕府軍対新政府軍の全面対決の戦場になっていたら、直接の人的被害は言うに及ばず、その後の日本の経済発展はあり得なかっただろう。それこそ薩長が幕府海軍と対決するのために英国かどこかの海軍の支援を得ていたら、日本はその属国として搾取され続けたかも知れない。いやどの列強にも領土的野心はなかったというか、日本を植民地経営なんて煩わし過ぎて敬遠されていても、内戦が続けばそこで相手に勝つための武器はほとんどが外国製だったので、戦いが続けば続くほど列強は儲かり、日本の富は海外に流出し続け、それだけでも日本は近代化もままならぬことになっただろう。

 

江戸城総攻撃を阻止したのが実は篤姫と和宮だったことは先述の通りだが、和宮が新政府軍の公家に送って総攻撃を止めるよう懇願した書状には、江戸が国じゅうから武士も農民も集まっている街で、戦争になればいかに甚大な被害になるかが切々と訴えられている。さかのぼって江戸に降嫁した時か、あるいは上京した家茂を待つ留守中に、和宮が詠んだ歌が残っている。

 

惜しまじな 君と民とのためならば
身は武蔵野の露と消ゆとも

 

その夫・家茂が急死して、公武合体のミッションを果たせなかった和宮は、京都に戻ることもできただろうに、そうはせずに江戸城に留まった。そうして「君」つまり天皇と「民のため」に、なによりもまず平和を守るという天皇家本来の責務を、彼女は篤姫と共に確かに果たしていた。

不自然に、強引にねじ曲げられた歴史的必然としての明治維新

歴史に「もし」はないとよく言われる。確かにたとえば徳川家康が戦国時代を終わらせたように、ある人物の意志とその実行が歴史的な必然としか言いようがなかったケースも少なくはない。その戦国時代も応仁の乱という不運な偶然と中途半端な私利私欲の連鎖がもたらしたどうしようもない事態が引き金になったとはいえ、武士が軍功と引き換えに土地の統治権を得るという封建制システムが厳然としてあって、そこに中世の最盛期で農業技術の革新や貨幣経済の浸透で起こった社会経済環境の変化がもたらした地方分権化の大きな流れが加わった中では、あまりに陰惨だった戦国乱世ですら不幸ではあるが必然的な結果だった。

 

その悲惨な時代をなんとしても終わらせるという歴史的な必然であった徳川幕藩体制成立の17世紀初頭から200年が経過し、19世紀の世界的な植民地主義の波及のなかでの日本をとりまく周辺環境の変化と、家康・秀忠・家光が作り出した幕藩体制システムが制度疲労を起こして時代に合わなくなっていたところまでは、日本がその体制を変革して近世から近代国家へと向かったこともまた、避けられない歴史的必然だった。だがその時の選択が「明治維新」であったことが歴史的必然に当たるのかと言えば、これまで見て来た通り、かなり疑わしい。

 

いや当時の「自然な流れ」のままであれば幕藩体制はなくなっても徳川家がいぜん日本の政治中枢に居座り、出自身分に基づく差別的な価値観が残ったままで、特権階級たる大名が支配し続ける封建的な家柄社会のままだったではないか、下級武士の西郷たちが政権を取ったことだって「革命」であり、そこにこそ大きな意味があったはずだ、という意見もあろう。だが西郷や板垣こそ拒絶したものの、その他の下級武士出身の「維新の志士」たちは自分たちを旧大名や公家と同等の「華族」になるよう法律に定め、後の帝国議会では終身制で世襲の貴族院議員の地位も確保している。そして時代を下って現代を見れば、現首相はその長州閥で世襲の三代目、政府与党の議員も二世、三世だらけだ。身分制度が廃止され職業選択の自由が本当に確保されたかと言えば、武家以外では江戸時代でも案外と身分・職業の流動性はあったし、たとえば東京に新たな仕事や生活を求めて若者が集まるというのも、家康が本拠を置くまでただの寒村だった江戸がほんの百年経つか経たないかの元禄時代にすでに100万都市になっていた(つまり農民が町民になった)ことの延長だと言ってしまえば、それまでのことだ。

 

「明治維新」がこういう結果になったのは、やはり薩摩の西郷隆盛の存在が決定的だったとは言える。だがそれは西郷の様々な点で強引で、不自然な、しばしば無理があり過ぎる乱暴な判断が、なぜか成功してしまった結果だという意味でだ。あえて美化・神話化をはぎ取って西郷が主導した「維新」を見てみれば、西郷の本性はなによりもまず、野心的でプラグマティックな軍人そのものだ。その軍人的な人格は250年の泰平の江戸時代のなかで例外的に戦国時代のままだった薩摩という環境にこそ育まれたものだし、その西郷に深い影響を与えた島津斉彬もまた新しいもの好きの開明的な君主だった一方で、やはり戦国時代のままの軍国主義的な薩摩という国の産んだ、軍人的な政治家だった。

 

はっきり言って、20世紀の政治思想の分類を当てはめれば、斉彬や西郷の薩摩イデオロギーとは、要するにファシズムだ。なにしろ薩摩が密かに(というか半ば公然の二枚舌で)属国化していた琉球を通して阿片戦争の詳細を知った時に斉彬がまず考えたのは、西洋に負けない新式の、鉄鋼製の大砲を作ること、つまりは先軍政治で、アメリカの巨大核武装に怯える金正恩が核とミサイル開発で国を守ろうと考えているのに近い発想だ。これは例えば日本の商船でジャカルタまで行って直接交易を、と構想していた井伊直弼とはまったく対照的な考え方であり、そしてどちらがより日本的・日本人的というか、日本人の文化や歴史と国民性や地理的条件に地に足をつけた考え方かと言えば、どう考えても後者の方だ。

「一期一会」という言葉を作った井伊直弼が逃してしまった「一期」

ところでこの井伊直弼、元々は井伊家の14男で家督を継ぐとは思いも寄らず、埋木舎という雅号を名乗り、政治から距離を置いて(つまり「埋もれ」た「木」になって)文化人として生きようとしていて、とりわけ茶の湯の傑出した才能が知られている。「一期一会」という言葉は千利休の哲学のように思われているが、実は直弼の造語だ。ところがそんな身の上と好奇心旺盛さゆえに勉強熱心で開明的な考えを育み、政治的センスも傑出していたのと、夭逝した兄たちも多かったので彦根藩主となり、譜代筆頭の井伊家として非常時だけ置かれる幕政の最高責任者・大老に就任した。

 

その直弼や、幕政の実務を担っていた中堅官僚たちがペリーの来航を本音では危機ではなく開国のチャンスと捉えていたとしたら、そこで彼らはいかにも日本社会では効果的な巧妙なやり方の、しかしだからこそ致命的なミスを犯してしまっていた。政策の転換のために外圧を利用して、あたかもペリー艦隊の軍事的な圧力があるから開国は避けられないかのように振る舞ったのは、250年続いた幕府の巨大で硬直化した官僚システムを動かして3代家光の「祖法」を変えるには短期的に見れば有効な手段だったが、外圧に負けた開国となると「幕府は情けない」「もう国を任せてはいられない」と思われるのもまた当然だった。

 

直弼は結果としてなによりもまず幕府の権威の失墜を招いてしまったし、カルト的な攘夷論にも火をつけてしまい、その火種が明治維新以降も残り続けた禍根は大きい。こうした心理的なダメージは、なにかの些細なきっかけでもいったん作用し始めると止めようがなく膨張し続け、気がついたときには崩壊の瀬戸際になっているのが歴史の常で、しかもリアルタイムにその状況下にいると、その漸進的な崩壊プロセスに気付いて振る舞える者はめったにいない。さらに不幸な偶然もあった。開国の翌年の安政2年(1855年)には江戸の安政大地震が起こっているし、その前年つまり開国の嘉永7年(1854年)には東海地震と南海地震が連続し、その後も各地で大きな地震が起こり続けている。この社会不安は恐らく、開国と外国人が来たことよりも遥かに大きかった。安政元年と改元されたのには、そんな社会不安払拭の厄払い的な意味もあった。

 

国内の説得に外圧が使えるチャンスに咄嗟に乗ってしまった結果の開国政策もまた拙速になってしまい、大きな禍根を残した。当時の基本的な国際常識や経済情勢の研究と情報分析が足りず、具体的な戦略性を欠いた貿易の急拡大は大きな経済的混乱も招いてしまっていたし、結ばれた通商条約もまた不平等なものだった。明治になって関税自主権がなかったことと、外国人の治外法権を認めてしまったことの二点を改正するために政府が費やした努力は教科書でさんざん強調されているが、まずより直接的な問題を引き起こしたのは、国際レートと著しく異なっていた日本の金と銀の交換レートだった。

 

諸外国はこのレートの違いをわざと日本には知らせず(つまり領土的な侵略に興味はないが、金儲けではハゲ鷹並みの貪欲さなのは確か)、この結果日本で銀を金に両替すると遥かに得になり、つまり日本から不当に安価で金がどんどん流出してしまうことになった。これは勘定奉行、外国奉行などの要職を歴任した幕閣の小栗上野介忠順が幕府の使節団(一般には勝海舟の咸臨丸ばかりが有名だが勝は小栗の部下)を率いて訪米・訪欧した際に交渉しなければならなかった最重要課題で、小栗はこの交渉を成功させている。ついでに言っておけば、明治政府による関税自主権の奪還をめぐる交渉などと較べて圧倒的に早い解決だ。単純に比較すべきことでもなかろうが、西郷たちが打倒徳川に熱中するあまりに幕府の人材が持っていた優れた政治能力や実務能力、外交・交渉能力や政策立案能力が「明治維新」以降の日本の近代化でほとんど活かされなかったことの損失は、決して小さくない。

「明治維新」は近代日本が取り得た選択のひとつでしかない

「明治維新」で選択された日本の近代は、攘夷カルトの過激主義に染まった長州や、戦国時代的な軍国ファッショの気風が強い薩摩が中心となった結果、軍事主導的な色彩が強いものになった。かくして日本の近代化は、島津斉彬が鉄鋼生産用の反射炉を建造させ鋼鉄製の大砲の製造を始めた延長上の、重工業中心の「富国強兵」へとまず突き進むことになる。だが同じ薩摩の出身でも、西郷が去ったあとの政府で近代化政策を矢継ぎ早に打ち出した大久保利通はまた方向性が異なっていた。

 

大久保が進めた「殖産興業」は幕府や井伊直弼の考えにも通ずるような、元からあった日本の強みでもあり江戸時代に既に西洋で人気の実績もあった優れた手工業技術を発展させ、軽工業・民生品中心の輸出産業を育成して、より日本的で自然な近代化を進めようとする政策だった。しかしその大久保は西郷が西南戦争で自決した翌年の明治11年(1868年)に暗殺され、この民生産業重視の平和的な成長路線は中途半端に終わってしまった。

 

2015年には安倍政権の強力な後押しで(というか官房機密費外交機密費を膨大に注ぎ込んだロビー活動もあって)「明治の産業革命遺産」が(なぜか松下村塾も含めて)世界遺産登録されたが、日本政府が申請した構成資産は斉彬の反射炉跡に始まって旧官営八幡製鉄所に至る鉄鋼生産や、石炭産業や造船所などの重工業施設ばかりで、大久保が内務卿だった時期の軽工業の目覚ましい発展はなぜか無視されている。

 

民生品の輸出の「殖産興業」から兵器産業でもある重工業の「富国強兵」へ、と言ってもしょせん日本の技術力だけで足りるわけもなく、欧米先進国からの武器購入も多いままの軍事費と、特に日清日露両戦争の戦費は明治政府の財政を苦しめ続けた。官営八幡製鉄所は第一次大戦の前後でようやく軌道に乗ったが、こうした重工業化を進めても、しょせん日本には軍事大国を目指すのに不可欠の戦略物資となる資源が圧倒的に足りない。「征韓論」の朝鮮半島侵略実行は言うに及ばず、鉄鋼や石炭を求めて満州へ、さらに中国本土へと侵略を進め、石油を求めて東南アジアの侵略も、と制止が効かなくなった身勝手で国内引きこもりの短絡志向は日本の致命的な孤立を招き、物資不足で勝てるわけがない戦争へと突き進んだ暴走こそが、「明治維新」の行き着いた果てだった。日本の心を忘れた西洋模倣といえば、構図も動機もこれほど教科書的に分かり易い西洋植民地主義の、搾取目的の帝国主義侵略もないが、その時代錯誤の現実無視の結果は、国家まるごとの無謀な自殺行為そのものになった。

 

大久保もまた下級武士の出身で、島津斉彬に取り立てられたのだが、優れた手工業技術を活かした産業政策というのも実は斉彬の構想のなかにあった。軍事力の整備は経済力の強化なしには不可能と考えた斉彬は薩摩切り子のガラス細工を開発させて薩摩の地場産業に育てようとしている。また薩摩藩には島津家が秀吉の朝鮮出兵に参戦した際に連れて帰った朝鮮人陶工による薩摩焼の伝統もあって、斉彬はこちらの発展にもより力を入れ、薩摩焼は開国以降、それまで幕府が長崎を通して輸出して来た伊万里を超える人気をヨーロッパで得ている。薩摩藩は1867年のパリ万博に、幕府の日本館とは別個の薩摩館で参加していて、薩摩焼の超絶技巧がとりわけ注目を集め、フランスの一部マスコミには万博で最大の見物とも評されている。

 

ただし今さら言うまでもなく、これは斉彬の独自性を主張できる政策ではおよそない。元は徳川家康が幕府を開く前から始めた、庶民の現金収入の手段を広げる経済産業政策で、幕府を開いてからは諸藩にも奨励して、豊かになり複雑になった貨幣経済のなかで年貢米だけに頼らない財源ともなるので、江戸時代に日本中で盛んになっていたものだ。こうした流れを踏襲した「殖産興業」が民を富ませることで国が豊かになるという日本の近代化政策が、もし大久保の殺害で中断させられることがなければ、「明治維新」にはまだもっと自然で、日本人全般の生活がより豊かになって、かつ日本的な伝統や文化とその美徳が失われないような、極端でちぐはぐで暴力的な西洋模倣ではない、もっと自然で合理的な近代化の可能性もまだもあり得たのではないだろうか?

「明治維新」に欠けていたもの、「明治維新」で失われたもの

西郷と同時期に明治維新政府と決別した板垣退助が自由民権運動を考え始めた大きなきっかけは、戊辰戦争の体験だったという。会津藩士は会津若松大虐殺でも目指していたのかと思えるほどの新政府軍の猛攻相手によく戦ったのも確かだ。しかし板垣は部隊を引き連れて会津領に入った時に正反対の現実も見ていた。武士たちは確かに激しく抵抗したが、農民など一般庶民は善政で評判だったはずの会津松平家に愛着もなにもないかのように、新政府軍を新しい統治者・権力者として受け入れて、板垣が呆れるほどに協力的だったという。

 

明治維新は日本の統治機構の総入れ替えという意味では確かに革命だったが、それは統治される側の参加がまったくない革命でしかなかった。しかも大多数の国民の上を素通りしただけの革命をやっていた側は、たとえて言うなら徳川綱吉の「生類憐れみの令」の高度福祉政策と精神的にも平和社会にふさわしいものを普及させようとした理念とは正反対で、統治される側の国民をまるで気にかけていない。相楽総三ら赤報隊の「偽官軍事件」を思い出してみても、新政府は一般民衆を「年貢を半額」で騙して釣る程度の対象としかみなしておらず、この国民相手の勅令は呆気なく空手形にされた詐欺も同然で、相楽総三たちの処刑で誤摩化されただけだ。京都では「尊王の志士たち」が、江戸では相楽総三たちがテロ行為で庶民の命を脅かし、篤姫と和宮が踏みとどまらなければ新政府軍は百万をゆうに超える人口があった江戸を総攻撃で大虐殺さえやりかねなかった。それでも単にその中止を(それも篤姫に説得されて)決断したというだけで、西郷隆盛はあっけなく東京市民の人気者になることができた。これは統治される側でもなにかが明らかにおかしいし、このおかしさが板垣退助に自由民権運動を始めさせた危機感につながった。

 

そしてふと気付くと、この明らかなおかしさは、現代の、平成が終わろうとしている日本の「民主主義」の現状にも共通している。立憲民主主義の要である民主的な憲法に強い愛着を持ち、誰よりも熱心にそれを守ろうとしているのは、なんと天皇その人で(孝明帝や妹の和宮の精神を引き継いでいるのかもしれない)、国民はと言えばその憲法の内容をしっかり考えることもなく、なんとなく時代遅れかも知れないから改憲には賛成と言っているのも、まるで幕末政局が煮詰まった大政奉還の前後に謎の「ええじゃないか」音頭が庶民に広がったのと同様に見える。その「改憲」という祭りのなかで肝心のどこをどう変えるのかの問題提起はいつまで経っても具体的に示されず、それでも国民は「とりあえず改憲したいというだけで中身がないなんて、改憲のための改憲は変だろう?」とはなぜか言わない。こんな珍論は薩摩で少年時代の西郷が受けたような地域の集団教育だったら、明らかに筋が通らない曖昧模糊・なんとなくの「改憲」ムードは、絶対に子供たちの頭の体操に最適の議論ネタになっていただろう。

「征韓論」こそが吉田松陰的カルト攘夷の真の危険性

西郷も板垣も、「維新の志士」の元同志たちが権力の私物化に走ったことに強烈な嫌悪感を持っていた。逆に私利私欲を感じさせない西郷の振る舞い(「維新」の立役者としての活躍を見れば、どう考えても強烈な上昇志向を持った野心家だったことに疑いの余地はないのだが)は庶民の人気を得たが、その西郷はなぜか「朝鮮は無礼だから武力で開国させよう」という暴論をまるで政治的な自殺行為のように唱えて下野してしまった。

 

李氏王朝の朝鮮が日本とは江戸時代を通じて友好国だったのは先述の通りだが、開国と、とくに江戸幕府の倒され方を儒教道徳から見て悪とみなし、国交を断絶していた。しかも吉田松陰らのカルト攘夷論は、どういう解釈なのかはよく分からないが「日本書紀」によれば日本には朝鮮半島の支配権まであるという理屈なのだ。そんな暴論までおおっぴらに論じていた者たちが明治政府の首脳に含まれていて、その暴論がすでに李氏王朝の耳に入ってもいたのだから、態度を硬化させるのは当然だ。国内では自分達が「侵略しよう」と言っていて、だから相手が侵略を警戒していたのに、その朝鮮を「無礼だ」と言い募って列強との国交交渉を拒否していたのを日本が武力で強制開国させて属国化しようというのは、いったいどういう無茶苦茶で粗野で短絡的、なによりも不道徳極まりない暴力的発想なのだろう?

 

なおこの明治6年政変では板垣退助も下野しているが、板垣の主張は朝鮮にいた日本人の保護のための軍派遣だった。国民を守るのが国家と軍の役割というところまではいいが、これでは戦争になる(というか後に帝国日本が侵略の口実に度々使った理屈だ)。

 

差別じみて来るので身分の高低を言いたくはないが、かつてやはり下級武士かそれ以下の身分から天下人になった豊臣秀吉も、無謀な朝鮮半島侵略で凄惨な暴虐の限りを尽くし、せっかくの統一政権を弱体化させ、だからこそ徳川家康が取って代わる歴史的な必然が決定づけられた。250年の泰平を経た平和ボケだっと言うべきか、下級武士たちで構成された維新政府も歴史からの学習能力がなさ過ぎるというか、対馬の宋家を使って国交回復を成し遂げたのも家康の英知のひとつとしてきっちり再評価し(ちなみに対馬宋家文書は2007年~2015年にかけて随時重要文化財に指定、今では世界記憶遺産で、歴史学ではとっくにちゃんと評価されている)、朝鮮半島と日本の関係が急速に危険水域に入りつつある今だからこそ、歴史的学習能力の決定的な欠如では維新政府どころでは済まないない政権への戒めとして、もっとしっかりと認識されて然るべきだろう。

そして維新を成し遂げた男は、決定的な自殺行為の不可解な戦争に

だいたいカルト的攘夷論の残渣であるこの征韓論が新政府内で頭をもたげて来た頃には、西郷は国内の体制整備が最優先の立場だったはずだし、岩倉具視を長とする使節団で明治政府の主要メンバーが欧米を外遊していた明治4年(1871年)の暮れから明治6年9月のあいだに、その国内の新たな体制造りの新施策を次々と始めさせたのも西郷のはずだ。なのになぜ彼は、その仕事がまだまだ中途半端だったその途中で、無謀で無益な対外侵略戦争を唱え始め、帰国した岩倉たちの反対に遭うとあっけなく政府を去ってしまったのだろう?

 

しかも西郷の「征韓論」具体策は、まず自分が開国を迫る大使として朝鮮に乗り込むというものだった。荒唐無稽をあえて主張して辞任の言い訳にしたのか、まさか本気で実現する気だったとしたら、そこで自分が殺されれば、というかつても何度もあった無謀なパターンの再現だったのか? あるいはこの時は本当に殺されたかった、つまり華々しい自殺こそが真の目的だったのではないか?

 

鹿児島に帰った西郷は犬の散歩と畑仕事の悠々自適の隠居生活に入り、明治政府の高官として得た私財を投じて学校を作ったりしている。そのまま静かな余生を送るかと思えた西郷はしかし、なぜか自分の作り出した新時代に、薩摩ではとりわけ特権的だった武家の身分を失った士族たちの刹那的な自殺願望としか思えない無責任な暴発の無謀な反乱の長になってしまい、当然のごとく死んでしまう。この西南戦争の西郷軍の動きも、かつての天才的な軍略家とは思えない。つまり西南戦争は、西郷にとって壮大な自殺の儀式だったのではないか?

 

それに薩摩の士族たちの不満も気持ちは分からないではないが、西郷が同志として共感できるものだったとは思えない。他の地方とは違い、薩摩では庶民はふんぞり返った武士の横暴にひたすら耐えるしかなかったのだ。そんな身勝手な特権的身分がなくなったからと言って、不満を持つ前に少しは反省くらいするべきところだし、なにより西郷自身が青年時代にはそうした武家の勝手に苦しむ農民たちのための藩政改革を訴えていたではないか? そんな士族の不満のせいで戦争に巻き込まれる南九州の住民はたまったものではないと、青年時代の西郷なら反発しただろう。

 

だがその初心の部分も含めて、自分が成し遂げた「維新」はどこかが自分が目指したはずのものと違っていた、日本はこんな国になるはずではなかった、という絶望が西郷の意識の根底にあったと考えれば、この不可解な死に様にも説明はつくように思える。つまり理不尽な不満を抱えた士族たちを滅ぼすために自分も人身御供になることが、誤りが既に明らかになっていた「維新」を成し遂げてしまった西郷のせめてもの罪滅ぼしだったとしたら、まだ納得はできる。

 

では西郷は「明治維新」になにが足りない、どこがどう違っていて、どこで自分は間違ってしまったと感じていたのか? 西郷自身はなにも手がかりを残していないが、それがなにかを考えることこそが、明治維新150年の本当の意味なのかも知れない。

プロデュース :及川健二
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