2018/01/20 政治
種子を巡る冒険④北海道長沼町のレイモンドさんの農場と札幌国際芸術祭

ある夜、バーテンの仕事が終わった後にネットを見ていると、新千歳空港行きの航空券が片道約5000円であったので、酔った勢いで航空券を買った。

 

1番の理由は、2013年の夏に、福島市の街なか広場でのプロジェクト FUKUSHIMAの盆踊りに行って以来私は音楽家の大友良英さんたちのファンだったので、大友さんがゲストディレクターになった札幌国際芸術祭に行ってみたいな〜、と思っていたことだった。

 
それに単純に北海道にも行ってみたかった。夏に永田町で「日本の種子を守る会」が設立された日に出会った、オーガニック農業をやっているレイモンドさんと明子さん夫婦の農場メノビレッジ長沼があるのも北海道だった。参議院議員会館の大きな会場で長身のレイさんは、自分はアメリカ合衆国のネブラスカ州出身です、そこでやられているような大規模農業には、喜びがないのです。そして、種子法廃止のことは、私たちの生き方の自由に関わることです、と種子法廃止や農業についての哲学的な側面について話していた。レイモンドさんと明子さんにはなかなか連絡がつかなかったけれど、新千歳空港で温泉に入ってよく冷えた生ビールを飲んでいるときに連絡がついた。

 
「明日は、長沼商店街のお祭りで種の映画の上映会をします。
良かったらこちらへいらっしゃいませんか?
詳細は以下の通りです。
種子法のこともお話しします。」

 
と明子さんは返事をくれた。

 
空港の温泉施設で眠って、次の日電車とバスを乗り継いで長沼町に向かった。午後に長沼農協前でバスを降りて、長沼夕やけ市が始まるまでしばらく町を歩き回った。町は閑散としていて、道幅は広く、天気は灰色だった。自分は下駄を履いていて、それ以外の靴を持っていなかったので靴屋に入ると、さすが雪国、機能的な長靴が充実していたので防水のショートブーツを買った。夕やけ市が始まる時間になると、嘘みたいに人がたくさん出てきて町が賑やかになった。太鼓と踊りが披露された。和太鼓の演奏者は、舞いながら天と地を繋ぐような太鼓の叩き方をしていた。出店がたくさん出て、あちこちに長い列ができていた。子ども達もたくさんいた。その賑やかな中、ごはんや野歩でM・シーン・カミンスキー監督の 種をつぐ人びと(原題:OPEN SESAME 2015年)無料上映会が行われた。

 
国際有機農業映画祭のホームページにわかりやすい要約が載っていた。

 
「この100年で90%の在来種が絶滅したという。食の工業化や大量生産に伴い、種の多くは大量生産に適するといわれる遺伝子組換え種子(GM)や一代雑種(F1)になり、大量生産に向かない在来種をつなぐ人たちが減ったからだ。一代雑種は、種を採り蒔いたとしても親と同じ特性の種にならないため、農家は毎年種を買い続けなくてはならない。遺伝子組換え種子もまた、巨大企業の契約に縛られているため農家が自由に種を採り、蒔くことはできない。
種は誰のものか。巨大企業を相手に、種の主権は自分たちにあると有機の種農家が訴える。そして絶滅の危機にあった在来種を蘇らせ、再び世に広める様々な取り組みを描いた作品。

 
原題の『Open Sesame』は直訳すると『開けゴマ!』。アリババが盗賊に盗まれた財宝を市民に取り戻すために宝が隠されていた洞窟を開ける呪文。作品の中で出てくる『開けゴマ』の運動は、巨大種子会社に独占された種を市民に取り戻す運動。」

 

 
種子がなければ、人間を含め他の命もまた存在できなくなってしまう。種子を企業が私有化し戦略物資として利益追求に利用することが、食料安全保障にとって危険!種子は人権だ!これは静かな世界的な危機だ!私たちは、リンクを繋ぐ世代になるのか、それともリンクを絶ってしまう世代になるのか!と映画に登場する人々は強烈な言葉を口々に言った。命は誰のものであるのかという闘いに焦点をあてたとてもエモーショナルな映画だった。

 
こういうことが起きているのは、やはり数年前からなんとなくは知っていた。モンサントのことはあまりにも有名だったし、カリフォルニアにいた頃はファーマーズマーケットに手伝いにも行っていたので、オーガニック食品の良さは、食べていたし身をもってわかっていた。”DON’T PANIC IT’S ORGANIC!” (オーガニックだからパニックしなくて大丈夫!)と農家の兄ちゃんはうたい文句を言っていた。ある日、CSA(Community Supported Agriculture)というやり方を実践しているフィルというおじさんの農園を見学しに行ったこともあった。テメキュラという都市から東に30マイルくらいのところにあるオーガニックの農場に、友達とAnimal Collectiveとかを大音量で聴きながら車を飛ばして行った。農場の土壌は黒々とキラキラとしていて、犬や牛がいて、メキシコ系の移民の人達も働いていたような気がする。黄色い小麦の色も美しかった。

 
農業だけではなくて、畜産の分野でも労働者の扱い方から肉の育て方まで、大規模のものは悲惨なものが多くて、そういうものを知った後は、そこまでして肉を食べる価値なんかないだろうということで、ベジタリアンやビーガンの友達も多かったし、私もアメリカでは肉はほとんど口にしなくなっていた。日本みたいな保守的な国と比較すると、カリフォルニアにはかなり色んな人や考え方を持った人がいて、基本的には他の人と考え方やライフスタイルが違ってもそんなに嫌な思いをしない州なのでのびのびとしていた。それに近年アメリカでは実は肉の消費量が減っているらしく、アクティビズムが盛んな国はやっぱり変化があるんだな、と感じる。(http://www.thedailyberries.com/400-million-fewer-animals-killed-food-last-year-vs-2007-people-eating-less-meat/)

 
だけど世の中のより大きな流れとしては、どんどん企業が色んな物を私有化して、世の中のより多くの側面を支配してしまおうという流れが明らかにあって、それは種子のような命にまで及んでいるというわけなのだった。

 
そしてTPPの登場や種子法廃止は、企業がさらに幅を利かせようと吹かせているグローバリゼーションの風の中で必然的に起きていることのように感じられた。その風は、もう日本にいてもアメリカにいても、世界中で感じることができる。

 
映画が終わった後、私はレイさんと明子さんの農場、メノビレッジ長沼にある家に泊めてもらった。2017年9月23日の夜。外は暗く、雨が降っていて、雷が空を紫色に何度も点滅させていた。落雷の音はしなかった。「君はここに何をしにきた?」とレイさんがキッチンの入り口あたりに立っていた私に言った。アメリカ人らしい真っすぐな質問が懐かしかった。何をしに来ているかなんて、わかるわけないじゃないですか、と私は内心思ったけれど、何か別のことを言った。

 
“We have conviction” とレイさんは突然言った。とても真面目に。それが私にとって最も印象的なことの1つだった。コンビクションって、何だっけ…と思ったけれど、宗教的な意味を持つ言葉だと話の流れでわかった。彼はクリスチャンだった。強い信念を持って今の営みをしている。永田町で見たときも彼から受けた強い印象は、もしかしたらCONVICTIONから来ているのかもしれないな、と私は思った。そういえば、五島出身で(民主党時代の元農林水産大臣で日本でTPP反対運動を引っ張っている)山田正彦さんもクリスチャンだったっけな…。

 
何かすごく悪いことが起きて、食料が必要になったときのために、米やジャガイモをかなりの量蓄えています。そしてそれを私は自分の家族とだけではなく、人々とシェアすることにしています、とレイさんは大真面目に言った。自分はサバイバリストではないが、ジーザスならそうするだろう、と。

 
レイさんは今57歳で、1960年にアメリカのネブラスカ州に生まれた。JFKが暗殺され、キング牧師が暗殺され、ウォーターゲートのスキャンダルがあった。ソヴィエトがアフガニスタンに侵攻した。共産主義の拡張を防ぐために、アメリカはオサマ・ビンラディンを支援した。ベトナム戦争もあった。レイさんが青年だった頃、軍に登録することを青年達は求められていた。その頃アメリカの青年達は軍へ登録し、くじ引きに当たると徴兵されていった。レイさんの教会は戦争に反対していたので登録を拒否したりする人もいた。それによって逮捕される人もいた。レイさんは登録を拒否はしなかったけれど、20歳のときにアメリカを出た。平和への道を探りたいと彼は考えていた。それは今も変わっていない。彼は農業について話すときも、STRUCTURAL VIOLENCE(構造的暴力)という言葉をよく使った。今のシステムのあり方によって犠牲が出ている。人が悪いのではなく、システムが悪い。そういう考え方をする人みたいだった。

 
それからレイさんは、テクノロジーの発達と普及と農業の変化について話した。第二次大戦後、人は月へ行った。彼の故郷のネブラスカでは、馬が病気で死んでしまったから、農業の機械化が進んだ。日本の場合、農業の機械化はかなり急速なものだった、云々。

 
必要と感じればレイさんは東京にも出かけるので、情報の入りが早いみたいだった。2017年の2月に農林水産省を訪ねたとき、彼はモザンビークプロジェクトの存在を知った。日本政府がモザンビークで農業用地を確保・購入して、そこで現地の人を使って農作物を育て、日本の食料供給に当てる。日本政府が買った土地に住んでいる現地の人達はどうなるのだろうか?日本では高齢化が進んでいて、若年層が農業をしないから、政府は食料の国内での自給をある程度諦め、外国の土地や人間、また無人でテクノロジーを人間の代わりに労力として使う農業を推進しようとしているみたいだ、とレイさんは言った。日本政府は、日本の食料自給能力についてとても真剣に心配しているようだった、と。

 
後で掘潤さんが取材した記事でモザンビークについてのものがあって、レイさんの話していたのはこれのことだったのか、と気づいた。(「私たちの税金が、モザンビークの農民の生活を奪う結果に使われている可能性 NGOが警鐘」 https://gardenjournalism.com/feature/ivc-mozambique/)

 
人はどこへ向かっているのだろうか?レイさんの話を聞いていると、そういうことを考えたくなった。人はこれからどんなふうに生きていくようになるのだろうか?

 
その夜、明子さんは疲れているみたいだった。私も疲れていた。私は彼女が準備してくれた部屋へ行き、シャワーを浴びて、家族の住んでいる家っていうのはなんか包容力が違うな〜、と思いながら、ちょっとメモを書いて眠った。

 
朝7時30分頃にキッチンに行くと、レイさんの22歳の息子さんとお嫁さんが並んでソファに座っていた。レイさんはオリジナルのパンケーキを焼いていて、明子さんは大きなストライプド・ジャーマン(通称パイナップルトマト)をいくつか畑から持ってきていた。この在来種のトマトは全体的に黄色で、ヘタのあたりが赤くて巨大なトマトだった。大きさや形がみなユニークで、実が柔らかくて輸送に向かないので商業的な価値が低く、ほとんど流通しないらしい。だけど味がとても良いので、一家は自分たちで楽しむために育てている。アメリカの場合、野菜の種子のブリーダーにとって味の優先順位は大体3番目くらい、だけど小規模農家の場合は味の優先順位は上がる、とのことだった。パンケーキの粉にはシナモンや塩が少し効かせてあって、独特のザラっとした食感がとてもおいしい。窓の外を見ると池があって、カモたちが泳いでいた。一家にとってカモたちを眺めるのは幸せなひと時のようだった。もう雨はやみ、空は青く澄んでいた。朝食の間もレイさんは色んな話をしてくれた。ある農家が黙って遺伝子組み換えの作物をつくって販売していて、それが大スキャンダルになったことがあったことや、長沼町はオーガニックの農家に助成金を出さないというスタンスを取っているということなど。どれもオーガニック農家にとっては死活問題だった。

 
朝食の後、レイさんは農場を案内してくれた。雨の後だったので私は長靴を借りた。一歩外へ出ると、バッタや蝶やてんとう虫やトンボが飛び交っていて、あたり一面は命に満ちていた。私はその美しさを楽しみながらも、同時に吐きそうでもあった。きっと東京から急に来たから、その変化に対して体や頭が戸惑っているのかもしれなかった。レイさんの農場の空気には、どこか聖域じみているところがある気がした。

 
「あの森のあたりまで全部ぼくらの農場だよ。菜種の畑や田んぼを見るかい?」とレイさんは言って、私たちは農道を歩き始めた。私はとりあえずCSA(Community Supported Agriculture :コミュニティーに支えられた農業)について質問をした。CSAを始めたのは、1996年頃だったかな、とレイさんは話し始めた。僕らは18年間くらいやって、3年前くらいから少し休憩している。子ども達も大きくなってきたし、この農場で新しいスタートを切った。コミュニティーの人々に良質で健康的な食べ物を供給するために、僕らは町の人々と協力してCSAをやった。CSAのシステムによって、僕らは農地の世話をすることができ、また農家として生計を立てることができた。始めのメンバーは25人だったのが、関係性は段々膨らみ、最終的には約90世帯がメンバーになっていた。僕らの関係性は信頼関係の上に成り立っているんだ。CSAメンバーは毎年春に僕らにお金を送ってくれる。そして僕らは彼らに旬の野菜を週に1度届ける。それから米や卵や味噌なんかも。もちろん今の社会で生きるためにお金は必要だ。だけど僕らには関係性や、より大きな目的の為に一緒にやっているんだという感覚があった。僕らは、人々が実際にお互いのことを思いやることのできるような経済をつくるとか、その可能性について一緒に考えたりした。一緒に働いて、パートナーとしての感覚や大地に対する思いやりを培ったりね。工業化によって失われてしまったけれど、若い人達が再び土地との繋がりというものを取り戻すためにはどうしたらいいのかとかね。人々は田舎から町へと移り住み、2世代分も時間が経てば、もう農場に住んでいる祖父母はいなくなってしまう。土地との繋がりが消えて、人々はもう食べ物を育てたり、国の食料安全保障を支えるために何が必要とされ、どう成り立っているのか理解できなくなってしまう。ぼく達はこういう話をニュースレターに書いて、町に住んでいる人達とコミュニケートして、良い食べ物を供給できる良いローカルエコノミーのために何が必要なのか、共通理解を深めようとしている。町に住んでいないからといって、僕らは孤立しているわけじゃないんだ、とレイさんは言った。

 
それからレイさんは水たまりの前で立ち止まり、そこの約4ヘクタールの畑について話してくれた。ここは僕らが借りている畑で、5年前から手を入れている。始めた頃は、雨が降るとこの畑は一面水びたしになってしまうような畑だった。だから誰もここを耕したがらなかった。だけど僕がここからちょっと先の畑を買った後、近所の人が、もう君はこのあたりの畑をやってるんだから、この畑もやったらどうだい?と説得しに来た。だけどその時僕には時間がなかったし、自信もなかった。だけど5年経って、ようやく少しずつ良くなってきた。5日くらい前に麦を植えたんだけど、少し芽が出てきている。昨日雨が降ったから少し水たまりがあるけど、前は畑全体が水たまりになってしまうような状態だった。改善しているから希望がある。去年畑の水はけを良くする為の石灰岩のタイルを入れた。そういうとレイさんは畑の横の方を指さした。畑から溝に水が抜けて流れている音がした。土壌の中にチューブが走らせてある。溝を掘って、チューブの上に石灰岩でできた濾過するためのシートを入れて、その上にまた土壌をかぶせる。雨が降ったとき、余剰な水はこのチューブに入り、この畑の端にある溝へと流れる。ここ数年、この水をはけさせるための作業に取り組んだ。ここは中山間地で農業をするのが難しいエリアだから、少し補助金が出る。僕は大体年に40万円くらい、この土地の状態を改良するために補助金をもらっている。少しずつゆっくりと、農業がしやすくなってきている、と言ってレイさんは微笑んだ。もっと低地の方に行くと、もっと大規模な基盤整備が行われている。そのあたりは、ダムからの水が用水路を通じて入るようになっている。だけどこのあたりにダムからの水はこない。僕らは池から水を汲んで、それを田んぼで使っている。そのシステムは自分たちでつくらなければいけなかった。補助金はなし。もちろん基盤整備みたいな大規模なものにはたくさん補助金がおりている。僕らにはそんなにはない。だけど、大丈夫。ぼく達もぼく達で、なんとかやっているからね。そう言って笑った。

 
それからレイさんはまた違う畑を指した。オーガニック農業をやる上でとても重要なのは、畑でいつも何か生き物が生きていること。ここでは去年菜種と麦を収穫したんだけど、収穫が終わり次第すぐに被覆作物(カバークロップ)としてオート麦を植えた。いつも何かが土壌で育っていて、そして有機物が土壌に戻ることが大切なんだ。何かが育っていることで、土壌の侵食の防止にもなる。緑肥作物がいつも畑に生えている。スキー場の坂の上から農場を見下ろすと、その年の収穫が終わった後でも、僕らの農場のほとんどが緑色に見えるよ。

 
農地は何も植えないで休ませないといけないときもあると聞いたことがあるんですけど、と聞くと、もし何も土壌に育っていないと、その土壌が有機物を蓄積することもできないんだ、とレイさんは言った。微生物は生きるために有機物を食べる必要がある。この緑肥作物は微生物のエサなんだ。もし僕らが微生物のために有機物を供給しなかっら場合、土壌の中の微生物は、そこに残っているものを食べるばかりとなって、有機物は減ってゆく。そして乾燥している時に強い風が吹いたり、強い雨が降ったりすると、土壌は流れてしまう。僕らが土壌を丁寧に扱わないと、土壌は逃げてしまうんだよ、生きているからね、と言ってレイさんは笑った。まるで土壌のことを、人みたいに話すな〜と私は思った。僕は雨が降った後はいつも畑に出てきて、水がどのあたりにあるか見に来るんだ。水をはけさせるシステムを改善して、作物が良く育つようにね。あっちの方には水がたまっているから、来年どんなプロジェクトをやるか考える必要がある。

 
ソーラーパネルが近づいてくると、原発事故があった後、僕らは家族会議をして、あのソーラーパネルを設置することにしたんだ、と言った。教会の電気技師の人に協力してもらって設置したよ。そこそこ大きなキャピタルインベストメントだよ。北海道電力と20年の契約をした。おそらく11年で、キャピタルコストを回復して、その後も9年間電気を売り続けることができる。今のところは発電した電気は全部北電に売っている。で、必要な電力は北電から買っている。今は、契約が切れた後にどうするか考えているところなんだ。このソーラーパネルは年間42500キロワットの電気を発電している。かなりの電気の量だよ。農場では電気パンプや穀物を乾燥させるための電気機材や小麦を挽くための機械、それらオイルプレスがある。だけどこのソーラーパネルはこの農場で必要な分以上の電気をつくれるね。多分3〜4世帯分の電気はまかなえるだろう。だから、ローカルコミュニティーグリッド(送電網)をつくって、みんなで電気をシェアしようかと思っているよ。そうすれば、僕らは外部からの電力供給に依存度を減らすことができる。そういうことを長期的に考えている、と言った。

 
電気を貯めるのは難しいですよね?と聞くと、うん、今電気技師の人が、電気を貯めるためのバッテリー技術の実験をしている、と言った。どんなスケールのバッテリーが普通の家庭で使うのに必要かとか。だけど家庭の電力消費量の話をすれば、その人がどんなライフスタイルを送っているのかというのがキーになる。僕は暗くなると眠る。僕は太陽と共に眠って、太陽と共に起きる。暗くなった後はあまり起きていない。今朝は5時10分前に目覚めた。ほんの少し明るくなってくる頃にね。本を読むために、机の上のLEDのライトを15分か20分くらい使う。大体8ワットくらい。大した量じゃない。

 
そこで電気の話を終えると、今度は右手にあった田んぼのことを話した。これは飼料米。これは鶏のために育てているんだ。人が食べることもできるけど、人の消費用じゃない。おそらく、「ゆめぴりか」とか、「ななつぼし」ほど味も良くないだろう。飼料米にたいする特別な補助金がまたある。僕らは440羽の鶏を飼ってるんだけど、その鶏のためにこの飼料米を育てているんだ。そうすれば外部からの飼料に頼らなくて大丈夫だからね。約2ヘクタールで、11トンの飼料米を生産できる。1年間鶏たちが食べるのに充分な量だよ。

 
畑を耕しているのは、レイさんとアキさんだけなんですか?と私は「小規模」だけど広大な農地を見て聞いた。CSAメンバーで手伝ってくれている人もいる。それから農場に2年間住み込みで手伝いをしている女の子や、愛農高校の卒業生でトレーニング中の子達も手伝ってくれている。5人と、それから2、3人のボランティアで今は農場を耕しているとのことだった。

 
昔レイさんはカナダのマニトバ州のウィニペグに12年間いた。ベーカリーを始めたり、コミュニティーの教育者役をしたり、コミュニティーのオーガナイザーをしたりした。農家がCSAのシステムを確立するための手伝いもした。その人は夏の間、200世帯に野菜と果物を供給していた。だけど僕は家に帰りたくなったんだ、とレイさんは上り坂を登りながら言った。6ヶ月、農業のトレーナーとしてアキと北海道で過ごした。僕らは結婚し、アメリカのネブラスカに戻った。そしてそこで農業を始めた。ネブラスカに着いてすぐ、アキは足を折ってしまった。そして1年もすると、僕らの銀行口座は空っぽになった。僕はだんだんシニカルになっていった。CSAをやり続けることに対して未来があまり見えなかった。その頃アメリカの経済は良い状態だったから、人はみんな外食ばかりしていて、自分の家で料理をするということをあんまりしていなかった。ネブラスカの人間の食べる野菜の種類というのもまた限られていて、その当時はCSAの未来がどんなものなのか僕には見えなかった。僕らはネブラスカでCSAをやった初めての例だったんだけどね。僕らはネブラスカを再び離れて北海道に戻った。教会のメンバーが北海道でプロジェクトを始めようともしていたしね。だから僕らは北海道に、5年か10年くらいそのプロジェクトにコミットするつもりで戻ったんだ。コミュニティーの人達と協力して農業をやるのは良い方法だし、良い生き方だ。それからその後のことは考えようと思った。だけど男の子達が生まれて、北海道で学校に通うようになって、僕らはここに留まることにしたんだ。ここが僕らの家だと決めた。僕は、自分の両親や祖父母がずっと長い間住んでいた土地とコミュニティーの中で育った。それは永遠みたいなもんだよ。実際に正確にそういうわけではもちろんないんだけど、そういう安定した落ち着いたホームという感覚がそこにはあった。何があっても、僕はいつでも家に帰ることができる。もし一家が2、3年ごとに色んなところに住んだとしたら、自分が一体どこに属しているのかわからなくなってしまう。自分の家は一体どこなんだ?という不安。ホームが安定しているという感覚は僕にとってとても大切だった。だから僕は自分の4人の子ども達にもその安定した「家」の感覚を与えたいんだ、とレイさんは言った。レイさんは末っ子のとしはる君がこの世界に生まれてくるのを助産夫として手伝った。家での出産で、としはるくんはレイさんの手の中で最初の呼吸をした。事故じゃなくて、ちゃんと計画してお産をしたんだよ、と言ってレイさんは笑った。

 
その話が終わった頃、私たちはスキー場の丘のてっぺんに着いた。トンボがたくさん飛んでいた。過去には失敗して、死にたいようなみじめな気持ちになったこともあるよ。僕がやっていることをね、例えば僕が有名になりたいからやっていると思う人もいるんだ。だけどそんなこととは程遠いんだ、とレイさんは言った。丘の上からは、彼が仲間達と購入した森や、色とりどりの畑、倉庫や家、そしてもっと遠くには栗山の町、そして山と空と雲が見えた。自衛隊のヘリが3機空を横切って行った。私たちの服や体にテントウムシやトンボがとまった。私の指にテントウムシがとまったとき、宝石みたいじゃないか、今はきっと冬を越す場所を探しているんだね、とレイさんは言った。私たちはしばらくメディアや政治や農業や人生について話した。

 
スキー場の坂を下っているとき、”It’s all down hill from here” っていうのは、ここから物事が楽になるって意味でしだっけ?と聞くと、や、その逆だよ、とレイさんは言った。

 
違ったことをすると人に嫌われる、と私が言うと、人は皆愛されたいんだね、とレイさんは言った。少なくとも、友人とか家族とか、必ず君の側にいてくれる人は必要だ、とレイさんは言った。だけどそれ以上は求めるべきではないという意味だろうか?と私は思った。
“Find yourself a wife and settle down, live a simple life in a quiet town, steady as she goes…” とジャック・ホワイトの唄の歌詞が頭に流れた。

 

それから私たちは車に乗って子ぐま座というレストランへ行った。車の後部座席にはお土産のパイナップルトマトが置いてあった。私は食事しながら明子さんと話しをした。彼女はCSAの仕組みやコンセプトを伝えるために奄美大島に行ったこともあるらしい。CSAのシステムでは、農家は年の初めにメンバーからお金をもらい、不作のときは不作で、豊作のときは豊作で、その年の恵みを農家とメンバーがそれをそのまま分かち合う。だけど比較的新しいシステムだからか、なかなかしっくりこないという農家さんもやはりあるらしい。10月の初めにはインドに行って農業についての話し合いに参加するらしく、インドではどんな服を着るべきなのか小ぐま座で相談していた。メノビレッジにはよく人が遊びに来てくれるし、私はほんとうは家にいたいんですけどね、と明子さんは言った。彼女も様々なことを伝えようとしている人だった。私は農家として文章を書くことにしたの。そしたら、こういうことに関心が無い人も耳を傾けてくれるようになった気がしているの、と明子さんは言った。

 
明子さんが愛農高校のメディアに寄稿した記事はこのように始まっていた。

 
「米や小麦を育てる農家でありながら、種子(たね)が誰によってどうやって作られ、私たちが手にすることができてきたのか、今までしっかりと知ろうとしたことがありませんでした。まったくの不勉強ながら、種子の入手にも品質にもこれまで一度も不安を感じることがなかったために、いわばあたり前すぎてその恩恵に気づいていなかったのです。」

 
彼女の書いた記事を読んでいて私が特に気になったのは、自家採種についての部分だった。

 
「そもそも、今の日本の農業政策のもとで主要農作物を自家採種しながら育てることは、すなわち補助金の対象から外れてしまうことを意味します。私たちも音更大袖という青大豆を自家採種しながら毎年植えていましたが、5年前に作付けを断念しました。まず、種子を買ったという領収書がないと補助金の額が激減します。そして三代、四代、五代と種子継ぎをしていくともともとの特徴を失っていくため、銘柄から外され、『その他品種』としてしか流通できなくなります。主要銘柄とその他品種の補助金の額には大きな差があり、さらに受け取れる額が減るのです。
それから、技術面や設備の面でも難しさがあります。野菜などと違い、穀物は土地面積あたりたくさんの量の種子が必要です。湿度と温度を管理しながら、翌年のための種子を保管するのも簡単ではありません。」

 
このあたりは、趣味で畑をやっている人とはかなり事情が違うみたいだった。

 
「農家の私はいま、嵐がすぐそばまで迫ってきているような、そして思っていたよりも早く呑み込まれてしまいそうな気持ちでいます。日本の種子を守る会の呼びかけにも賛同するし、一緒に歩んでいこうと決意しているけれど、正直なところ、はたして間に合うのだろうか?効果的な変化をもたらせるのだろうか?と膨らむ疑問を打ち消せない思いもあります。

 
たとえ嵐に呑まれても失いたくないものはなんだろうか?守りたいものはなんだろうか?

 
『いのちは誰のもの?』その問いに向き合う時、暗闇からひとずじの光が差し込んでくるような気がします。

 
小さな種子の弱さと力強さの背後にあるものを恐れ敬いながら、足の下の大地に感謝し、慈しみをもって手入れをし、大切な人たちの食べるものを育てていくことをやっぱり私は続けていきたい、そして種子と物語を語り継ぎ、分かち合う世界の輪の一部となりたいと思います。」

 
と明子さんは2017年の8月の記事を結んでいた。

 
レイモンドさんと明子さんの農場、メノビレッジ長沼を去る時間がやってきた。札幌行きの高速バスは、栗山の祭りの影響でかなり遅れていた。バスが遅れた分私はアキさんと長い間話すことができた。明子さんはレイさんみたく雄弁な感じとはまた違うけれど、彼女もまた自分の中に火をくべている人なんだとはっきりと感じた。彼女は最高に素敵な笑顔で私を送り出してくれた。

 
それから私はまだそんなに寒くない秋の札幌の町をうろうろして、レコードを買い込んだり、「ジャパノイズ」の著者で、大学で教授をやっているデイビッド・ノヴァクと再会して一緒に芸術祭の展示を観て回ったりした。デイビッドにカリフォルニアの最近の事件について聞くと、ナチズムの話になった。南部のどっかの町で、白人至上主義を主張している側の人間が、彼らの主張に対してカウンタープロテストをしていた群衆の中に車で猛スピードで突っ込むという事件が起きていた。最近、武装して大学のキャンパスにやって来て、フリーダム・オブ・スピーチだと主張して人種差別的なアイディアを吹聴するナチ連中がいるんだ。僕はね、大学側はちゃんと対処できるべきだと思ってるよ、と言っていた。

 
車を借りた後は街を出て、阿寒湖まで車を飛ばして、リハビリ中のアイヌのおじいさんとお茶を飲んで、それからもっと道東の方に行って、それから南下して、道南の海岸線をドライブして札幌に戻った。太平洋には物悲しさがあったけれど、海を見ながら朝温泉に入っていると、そうだ!この太平洋を忘れてはいけない!という気持ちになって、裸で砂浜を走り回りたい気持ちになった。夜はたくさん鹿や狐を見た。海岸には昆布を干している人達の姿が見えた。占冠の道の駅では熊の奥歯が売っていた。数えきれないくらいの数の自衛隊の車両とすれ違った。襟裳岬の駐車場で車内泊をしながら、灯台の灯が黒い空をくるくる回るのを眺めた。そして札幌で会った透き通るように綺麗な女の子と一緒に札幌国際芸術祭の展示を回った。彼女はこういうのがすごく久しぶりだと喜んでいた。忙しいからってやらないと、そういう人生になっちゃうよね、と彼女が何度か言っていたのが私の心に残った。きっと彼女は静かだけど急激な変化の中にあって、より良いバランスを見つけようとしているのかもしれない。すすきのにある大漁居酒屋てっちゃんの舟盛りの味には、宗教じみたおいしさがあって、味にぶっ飛ばされたような感じになった。この店は一体どうなってんだろうか…と感動しながら舟盛りを食べた。北海道、また遊びに行きたいな。

プロデュース :蜂谷翔子

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